人生の半分以上、沼にはまり続けて20年。 アラフォー、独身、実家暮らしの漫画家・竹内佐千子が、決して輝かず、されど奇妙に充実した時を刻むコミックエッセイ。 前回、竹内さんが提唱した“オタク=農民説”。 自分の畑を大切に守り育てるようにオタク活動に邁進してきた竹内さんですが、 かつて、推しへの強い思いゆえに心身のバランスを崩してしまったことがあるようです。
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フリー素材の お絵描きブログはこちら ↓ ↓ ↓ juneoekaki.hatenablog.jp いよいよ 11月ですねー!! そして まったくもって わたくしごと なのですが・・・ 通常、 日曜日は 勤務日 なのですが 昨日は お休みを いただきまして・・・ 今年七月に 亡くなりました 父の 散骨に 行って 参りました。 釣りが 趣味だった父の 生前の 希望通り 瀬戸内海に 大好きだった キリン一番搾りと・・・ これまた 大好きだった あたりめと・・・ 海出身(と思しき) イカも 釣られて 切られて 干されて 袋詰めまで されながら 再び 海に 解き放たれるとは 思っても いなかったでしょう (笑) いやいや それにしても 昨日の ハロウィンは 盛り上がり ましたねー (*´ω`*) どちら様も とっても とっても ステキでしたよー (*´ω`*) 散骨の 段取り 諸々で なかなか ハ
山崎隆之八段は今月14日、40歳になる。どんな人にとっても大きな節目となることに変わりはないが、頭脳と肉体を駆使して勝負を戦う棋士にとって、指標として持つ意味の重さは計り知れない。もちろん経験値といったプラスよりも、能力の低下というマイナスの要素として捉えられることが多い。40歳になって初めてA級で戦うことになる棋士は、極めて異例の存在になる。 「不惑の年と言われますけど、もちろん記憶力とかは衰えていくものなので惑いますよね(笑)。どう向き合えばいいか、ということで言うなら、まず単純に強くなれるかどうかということが分からないです。 下から次々と優秀な人が上がってくるわけですから、何かを変えずに同じことを繰り返しても厳しくなるのは分かり切っている世界です。でも、自分自身はまだギリギリのところにはいるので、相当な自信がない限りは自分を変えることは難しい。変えることは自分の戦い方を一旦は捨てるこ
元々、はてなブログで記事を書き始めたのも、婚活で会っては振られてを繰り返していると、傷つくし、それにかけた時間が無意味に思えてくるからだ。文章にすることで、その苛立ちやもどかしさ、悩みのすべてが、同じような経験をしている人の励みになればいいと思った。また、自分自身にケジメをつけて、前を向いて進んでいくための力にもなる。本当に多くの女性と会えたし、後悔はないけれど、結婚出来なかった虚しさは、横浜港の青黒い海水面のように、心の深くに澱んでいる。もう日の光が届くこともないけれど、それはそれでいい。 最近、嬉しいことがあった。私の婚活で10数回デートして、真剣に結婚を考えた相手に、投資話を持ち掛けられた経緯を詳しくこのグログに書いていたことで、全く同じ女性と同じ時期に同じことをしていましたというメッセージが届いた。迷っていた彼は、私の記事を読んで、晴れやかになってくれたそうだ。↓ www.xn--
どーも。 平均寿命について考える派遣OLです。 かつては平均寿命が50年の時代 だからこそ 40歳で不惑(ふわく) だったのでは!? という疑問を持っておりました。 迷ってる場合ではない みたいな感じかな、と。 そもそもの不惑(ふわく)について なんか義務教育のどこかで 覚えた気がする この不惑(ふわく)という言葉。 孔子の「論語」の中に出てくる 文章ですよね。 ウロ覚えですが 15歳で志をたてて 30歳で自分の力で立って 40歳で迷わなくなって 50歳で理解して 60歳で・・・ 70歳で・・・ あれ? ほらー 60歳からどうなるか覚えていません。 これが私クオリティですよ。 しかし、ここまで考えて あっと気付いたのですが これは人生70年か 80年の話だったんですよね。 孔子先生が長生きだったから かな。 まぁ結果的に 現代にも通ずる 人の道の完結モデル として考えられます! やっぱり
将棋の第79期名人戦順位戦(毎日新聞社、朝日新聞社主催)B級1組で山崎隆之八段(39)が4日、初のA級昇級を決めた。この日、9勝1敗の単独首位で12回戦を迎えた山崎は、勝てば文句なしの昇級決定。しかし久保利明九段(45)に逆転負けを喫し、昇級の行方は最終局に持ち越しになったかとみられた。ところが、追う郷田真隆九段(49)も勝勢の将棋を逆転で落とし、山崎の2位以内(昇級枠)が確定した。前期は終盤の3連敗で最終成績は3勝9敗。B級2組に降級した2人と同星だったが、順位が上だったため奇跡的に残留となった。14日で不惑の40歳を迎える山崎の、何が変わったのか。 逆転負けでも昇級に驚き 関西将棋会館(大阪市福島区)で4日午前10時に始まった久保戦は日付が変わった5日午前0時18分、124手で久保の勝利に終わった。その21分後、東京の将棋会館で郷田が松尾歩八段(40)に負けた。記者たちが山崎の元に向か
プロ野球南海、ダイエー(いずれも現ソフトバンク)、オリックスで歴代3位の567本塁打を放った門田博光(かどた・ひろみつ)さんが死去したことが24日、分かった。74歳だった。 奈良県出身。奈良・天理高、クラレ岡山を経て昭和45年、左の好打者としてドラフト2位で南海に入団。54年2月のキャンプ中に右アキレス腱を断裂する大けがを負ったが、選手生命の危機を乗り越え、指名打者(DH)で復活。身長170センチと小柄な体格ながら、フルスイングを身上に本塁打にこだわる打撃を追求し、56年には44本で本塁打王のタイトルを初めて獲得した。同年7月には当時日本記録の月間16本塁打を達成した。 40歳で臨んだ63年は本塁打王、打点王の2冠に輝き「不惑の大砲」「中年の星」と呼ばれ、最優秀選手(MVP)に選ばれた。平成元年からオリックス、3年からダイエーに在籍し、4年に44歳で引退した。 通算成績は2571試合出場で
この時期のプロ野球は、今季の日本一をかけて戦うチームと、来季へ向けて動くチームの2種類に分かれています。その来季を担う新人選手が17日のドラフト会議で決まり、一方では来季の構想から外れる選手も続々と…。そんな悲喜こもごもの秋を、わずか3年の間に味わった選手がいました。 東京・堀越高から1992年のドラフト5位で阪神に入団、一度も実戦登板がないまま1995年に退団した、山本幸正投手です。 堀越といえば1986年の阪神ドラフト1位・猪俣隆投手(法政大学卒)、また山本投手の1つ上で野村克則選手(明治大卒)、1つ下で井端弘和選手(亜細亜大卒)がプロ入りしました。山本さんは1974年8月3日生まれで、現在45歳。『山本幸正』で検索すると、すぐに『松井秀喜』が出てきます。 高校野球好きな方なら、山本投手が1992年の選抜高校野球大会1回戦で、のちに阪神で同僚となる村野工業高の安達智次郎投手と投げ合って
相変わらずの文章垂れ流しをします。中盤少し鬱ぽい記述があるかもしれないので、いやな人はリターンしてください。 ▪️ 少し前になるが匿名ダイアリーでこんな増田があった。 anond.hatelabo.jp 私は同じく40代なのだが、実はこの増田と同じことを私も思っていた。それどころか、私は増田とは違って子供がいないので、正直、親を看取ったらもうさっさと死にたいなーくらいの感覚だったりする。子供がいたら「成長を見届けたい」とか「孫を見てみたい」とかがあったりするんだろうけれど、私の場合それらはほとんど叶わないので、それほど長生きしようとかいう感じもない。 ▪️ そこそこ長く生きていると、同じ人の人生をも同時に見ているわけで、「この人はこういうタイプの人なんだな」というのがわかってくる。「どうもこの人はタイミングが悪い人だな」とか、「貧乏クジ引きやすい人だな」とか、努力とはまったく別の次元で、な
ライフシフト・ジャパン株式会社による、人生100年時代の豊かな生き方のロールモデル(ライフシフター)を招いたトークライブシリーズ「LIFE SHIFT LIVE」。今回のゲストは、ほぼ日取締役CFOを辞し、1年3ヶ月のジョブレス時代を経て、エール株式会社の取締役に就任した篠田真貴子さんです。同じくジョブレスの経験者であり、ライフシフト・ジャパン代表の大野誠一氏との対談の模様をお届けします。本パートでは、50歳を前に仕事を辞めた大野氏の体験談や、篠田氏がジョブレス明けに見出したものについて語りました。 「50歳になるな」と思った瞬間に、仕事を抜けたくなった 大野誠一氏(以下、大野):先ほど、2~3ヶ月のつもりだったのが、2人の友人の方から「1年ぐらいはジョブレスを続けたほうがいいよね」というアドバイスを受けて、けっこう長く「ジョブレス」でいることが決まっていったというお話がありました。いろい
農機具の会社に転職し、ぶっつけ本番で設計の仕事を始め、はや6年。キャリアなきキャリア採用だと、自虐しながらもがく日々。 しかし、ふと後ろを振り返ると、小さな轍ができていた。キャリアとカッコをつけるには、あまりにしょぼいものだけど。 普段誰も褒めてくれないので、そのキャリア()を回想しつつ、自分で自分を褒めてやろうと思う。面倒な仕事が落ち着いて、一杯飲んで、いい気分だし。 新機種開発という名の地獄。 市場問題対応という名の地獄。 上司にぶつけた異動願。 それでも僕は、設計者で生きていこうと思う。 おわりに。 新機種開発という名の地獄。 設計の仕事には、大きく分けると2種類ある。 一つは、新製品を世に出すための、新機種開発。もう一つは、世に出た製品の不具合を直す、市場問題対応。中途入社後、私は一貫して、新機種開発のチームで仕事をした。 覚えたてのCADでの複雑で細かい検証。嫌みったらしい同僚。
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宮地真緒 胸に「イヒ」水着のギャルは不惑を前に役者道邁進【90年代の夏を彩った美女と再会!】 エンタメ・アイドルFLASH編集部 記事投稿日:2022.08.17 06:00 最終更新日:2022.08.19 16:37 「CMに出た当時はピンときませんでしたが、同じ年に朝ドラヒロインにも選ばれ、デビュー2年めに大きな仕事をいただけたと思っています」 そう振り返るのは、宮地真緒(38)。1999年に「ホリプロタレントスカウトキャラバン」に出場。2002年には「旭化成第27代水着キャンペーンモデル」として活躍。旭化成の水着には、ほかとは違う特徴があったという。 【関連記事:宮地真緒「仕事は当たり前じゃない」デビュー20年、ずっと感謝の日々】 「『旭化成』の『化』の部分をカタカナと解釈し、胸元に『イヒ』と書いてあったんです。『イヒ水着』と呼ばれていて、当時18歳の私は着るのが少し恥ずかしかった
こんにちは。 突然のお知らせですが、2021年の年末にオーストラリアに引っ越ししました。いわゆる移住というやつです。 ”日本にいても英語力は伸ばせる!”をテーマに英語学習法を紹介してきたこのサイトですが、まさか自分が海外に、しかも英語圏に住むことになろうとは思いもしませんでした。 今日はご報告を兼ねて、移住のアレコレを少しお話したいと思います。 *ここに書かれている情報は2021年末時点のものです。各国のコロナによる渡航制限は常に変化していますので、最新の情報をご確認ください。 移住の経緯 引っ越し準備 渡豪前夜 出発 入国 オーストラリア生活 移住の経緯 このブログでも他のSNS(Twitter, Instagram)でも、移住の話はギリギリまで明かしておりませんでした。というのも、このコロナ禍で”いつ行けるのか”、”本当に行けるのか”等々、不確定な要素が多かったのです。 そもそも今回の
10代、20代の若手が次々と現れるプロゲーマーの世界で、40歳を超えてなお戦い続けているのが、日本で3番目にプロとなったsako選手です。マネジャーを務める奥様のakikiさんとともに、sako選手のゲーマーとしてのルーツをうかがいます。 始めてプレーしたTVゲームは「ロマンシア」 ――sako選手は大阪での活躍が有名ですが、生まれもそちらなのでしょうか? sako:いえ、生まれたのは鹿児島なんですよ。 3歳までそこで暮らして、親の仕事の都合で大阪に引っ越したんです。 そのまま20年近く住んでました。 akiki:私は2016年まで関西方面にいて、2017年は埼玉、2018年からは東京です。 ――sako選手がゲームを始めたのはいつごろなのでしょうか? sako:初めてゲームを遊んだのは3歳の時ですね。 家から歩いて1~2分のところにゲームセンターがあって、そこによく姉に連れていってもらっ
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