ところが、元親は戦国から天下統一へと向かう歴史の大きな流れに、間接的にではあるが、きわめて大きな影響をあたえた可能性がある。天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変は、元親の動き方によっては起きなかったかもしれないのである。 本能寺の変の原因については、さまざまな説が提唱されてきた。ドラマなどでよく描かれるのは、光秀が信長の安土城(滋賀県近江八幡市)で、徳川家康の饗応に失敗し、信長から叱責されて恨みをいだいたというものだ。 この話は江戸初期に書かれた『川角太閤記』に記されている。光秀が準備している料理が悪臭を発していたので、信長は激怒して光秀の饗応役を更迭。光秀は体面を傷つけられて、用意した料理を器ごと城の堀に投げ捨てたのだという。 しかし、そもそも『川角太閤記』の内容は信用できないとされているうえ、同様の話は信頼できる史料にはまったく書かれていないので、かなり以前か