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戦国大名の検索結果1 - 40 件 / 42件

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戦国大名に関するエントリは42件あります。 歴史history読書 などが関連タグです。 人気エントリには 『「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない』などがあります。
  • 「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない

    追記をはじめに書くべきとのブコメがありましたので修正しました。 追記○増補新版にしか弥助の記載がないってコメントあるけどそうなの?そもそもロックリーの本の方が先にでているらしいし、頑張ってこんな微妙なウソつくのはどうなんだ。/そもそも記載は本当でも南蛮人から買うしかない ○弥助の事書かれて無い2017年版大航海時代の日本人奴隷持ってるけど、2021年発行増補新版の間で何かに目覚めたんかな?17年版は序章の改宗ユダヤ人が異端狩りを逃れて日本へ逃げ込む所なんか凄い面白い本なんだけど 増補版しか手元にないせいでわからなかった そしたらロックリー先生初出、岡・ソウザ先生がそれを取り入れた可能性もあるのか そしてそれを取り込んでしまったせいで目茶苦茶な記載になったのかも 追記2岡先生が著作のミスについてコメントしていた。 (肥後に弥助の妻子がいたと読み取れる件について) ○その部分は、校正の最終段階

      「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない
    • 若いころ仕官した朝倉義景はヘタレ戦国大名【明智光秀と織田信長19】大河ドラマ『麒麟がくる』 - アメリッシュガーデン改

      (前回のあらすじ:1573年夏、戦国時代に転生したオババとアメリッシュ。アバターとなった戦国時代の母娘を生かすため兵隊になる決意をした。鉄砲足軽隊として他の5人の仲間とともに古川久兵衛の配下に。彼と共に密偵として小谷城へ向かう) 戦国時代 戦国時代の結婚適齢期は10代 小谷城へ向かう山道を歩いていた。 周囲は樹木が密集し、天気はカラッとして夏の蒸し暑さはしのげたが、それでも、じっとりと汗が滲んでくる。 「山城攻めとはな」と、古川久兵衛は歩きながら、ガラガラ声で話していた。 昨夜のことは、全くなかったとしている。 昨夜ってのは、野宿で私に夜這いをかけ、オババに一喝された一件だ。 ああ、そういえば、私、 戦国時代の女性マチに意識が転生した初日にも夜這いをかけられた。 あとで聞くと親同士での約束だったらしく、ま、相手をボコボコにして悪いことをしたのは、こっちだったかもしれない、時代的には。 いや

        若いころ仕官した朝倉義景はヘタレ戦国大名【明智光秀と織田信長19】大河ドラマ『麒麟がくる』 - アメリッシュガーデン改
      • 幻の名城:豪華なお城と有名戦国大名が集う#佐賀県肥前名護屋城 - にゃおタビ

        幻の名城肥前名護屋城大阪城に次ぐ最大規模のスケール 「露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速の事は夢のまた夢」 豊臣秀吉の辞世の句を通して、文禄・慶長の役を秀吉の野心と否定的に見る人も多いかもしれませんが、彼が遺した功績にも目を向けたいと思います。 その一例が、佐賀県に位置する肥前名護屋城跡です。 この城はわずか数ヶ月で建設され、大阪城に次ぐ規模で、京都に匹敵する城下町が形成されたと伝えられています。 全国から集められた160家以上の大名によって150以上の陣屋が設置され、最盛期には20万人を超える人口で賑わい、約7年間にわたり当時の日本の政治経済の中心地となったとされています。 幻の名城肥前名護屋城大阪城に次ぐ最大規模のスケール 「太閤が睨みし海の霞かな」 青木月斗 天守からの眺望 「太閤が睨みし海の霞かな」 太閤(たいこう)が睨(にら)みし海(うみ)の霞(かすみ)哉(かな) 青木月斗 青

          幻の名城:豪華なお城と有名戦国大名が集う#佐賀県肥前名護屋城 - にゃおタビ
        • 戦国大名・朝倉氏の栄華と没落の地 一乗谷朝倉氏遺跡(1) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]

          日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は福井市の一乗谷朝倉氏遺跡です。戦国大名・朝倉氏の栄枯盛衰や戦国時代の城下町の姿を伝える、広大な国の特別史跡でもあります。 (トップ写真は朝倉氏5代の本拠地、一乗谷朝倉氏遺跡) 【動画】一乗谷朝倉氏遺跡を訪ねて 明智光秀が頼った朝倉義景 美濃を追われた明智光秀は、朝倉義景を頼って越前に逃れたとされている。称念寺(福井県坂井市)の門前で、10年ほど浪人として過ごしたようだ。朝倉氏が美濃守護の土岐氏と親しい間柄であったことから、土岐一族出身の光秀は朝倉義景を頼ることができたという。 光秀の前半生は謎が多く、越前での動きも定かではない。一説には、鉄砲の腕を買われて義景への仕官がかなったという。文献上で光秀の名が確認されるのは、1567〜68(永禄10

            戦国大名・朝倉氏の栄華と没落の地 一乗谷朝倉氏遺跡(1) | 朝日新聞デジタルマガジン&[and]
          • 『戦国大名は基本「天下を取ろう」とか思ってない』『朝倉義景らが上洛しないのは当然。上洛した信長が異常』〜NHK「英雄たちの選択」「麒麟がくる」より

            【間もなく再放送】 [NHKBSプレミアム] 2020年09月16日 午前8:00 ~ 午前9:00 (60分) 戦国時代の越前・一乗谷に都さながらの都市を築いた大名・朝倉義景。その力を頼ってきたのが将軍候補・足利義昭。義景に軍を率いて上洛し幕府再興を助けるよう求めてくる。 エピソードへ 出演者ほか 【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】呉座勇一,真山仁,中野信子,【語り】松重豊 詳細 織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、天下人への道を歩み始めたことは有名だが、信長の前にそのチャンスを得た大名がいた。越前の国主で、一乗谷に都さながらの都市を築き繁栄を謳歌していた朝倉義景だ。義景は義昭に軍勢を率いて上洛するよう求められるが、みすみす好機を逃してしまう。その後は義昭を奉じる信長と対立、2度も信長を倒すチャンスを手に入れるが果たせず、ついに滅ぼされてしまう。義景失敗の理由を探ってゆく。

              『戦国大名は基本「天下を取ろう」とか思ってない』『朝倉義景らが上洛しないのは当然。上洛した信長が異常』〜NHK「英雄たちの選択」「麒麟がくる」より
            • 『麒麟がくる』もこれで理解しやすく!戦国大名と守護大名とは何か? - 旅人サイファのお出かけブログ

              こんにちは!旅人サイファです。 今回は前回お話した『戦国時代とは何か』から派生して、こちら! 『戦国大名とはなにか?守護大名との違いは?』をお届けします。 この話を理解していると、現在放送中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の世界観をもっと深く楽しむことができますよー! まず、前回のおさらい。 戦国時代とは? 戦国時代とは、いわゆる室町時代後半。 一応、形として室町幕府は存在しているので室町時代であることに間違いはない。 しかし。京都で起こった応仁の乱の後に室町幕府の権威は失墜。 各地で下剋上が起こり、各自が勝手に領土を広げ、統制がとれなくなった時代が『戦国時代』と呼ばれています。 さて、それではその下剋上で領土を広げた『戦国大名』とはなんなのか。ここでは、『守護大名』と合わせて解説しますね。 守護大名とは? そもそも、室町幕府から正式な任命を受けて国を治めていたのが『守護大名』と呼ばれる人

                『麒麟がくる』もこれで理解しやすく!戦国大名と守護大名とは何か? - 旅人サイファのお出かけブログ
              • 室町時代の戦国大名といえば武田信玄? 小6向け宿題をめぐり議論に:朝日新聞デジタル

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                  室町時代の戦国大名といえば武田信玄? 小6向け宿題をめぐり議論に:朝日新聞デジタル
                • むいむい。 on Twitter: "スターウォーズにしろ、エルガイムにしろ、何物でもないものが成り上がる導入だったのに、最終的には貴種流離譚に回収されていくのはなんなんだろうなあ。「実はナントカの血を引いていた」パターン。戦国大名が後付けで家系図でっち上げるんじゃあるまいし。"

                  スターウォーズにしろ、エルガイムにしろ、何物でもないものが成り上がる導入だったのに、最終的には貴種流離譚に回収されていくのはなんなんだろうなあ。「実はナントカの血を引いていた」パターン。戦国大名が後付けで家系図でっち上げるんじゃあるまいし。

                    むいむい。 on Twitter: "スターウォーズにしろ、エルガイムにしろ、何物でもないものが成り上がる導入だったのに、最終的には貴種流離譚に回収されていくのはなんなんだろうなあ。「実はナントカの血を引いていた」パターン。戦国大名が後付けで家系図でっち上げるんじゃあるまいし。"
                  • 「戦国大名の覚悟」で中国へ ポスト争いに敗れ、腹をくくった研究者:朝日新聞デジタル

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                      「戦国大名の覚悟」で中国へ ポスト争いに敗れ、腹をくくった研究者:朝日新聞デジタル
                    • 【北条早雲】年齢は関係ない!最期まで頼もしくあれ!日本初の戦国大名の見事な一生 - 希望発見ブログLooking for HOPE

                      56歳で人生をリセット*人はいつだって再出発できる 思いやりに生きた北条早雲 自分をひたすら信じて一歩前へ 早雲の魂は永遠に*その後の北条家 56歳で人生をリセット*人はいつだって再出発できる お正月に家人がテレビを観ていて、たまたま目に入ってきたのが箱根駅伝でした。私は今までちゃんと観たことがないのですが、ちょうど5区で箱根の小湧谷の登り坂を、沿道の温かい歓声に包まれながら、青山学院大学のランナーがトップを快走していました。 箱根の坂を膝を上げて懸命に駆け上がっていくその姿がとても勇ましく、多く人々を元気づける気持ちが分かった気がしました。 彼の姿を観て、500年以上前に生まれ日本発の戦国大名となった人物が、私の心の中で鮮やかによみがえりました。 北条早雲(ほうじょう そううん)です。 ただし、彼が志を胸に箱根の坂を駆け上がった時は、沿道の歓声も旗を持って応援してくれる人もいませんでした

                        【北条早雲】年齢は関係ない!最期まで頼もしくあれ!日本初の戦国大名の見事な一生 - 希望発見ブログLooking for HOPE
                      • 【和歌山県・伊都郡】和歌山旅行記〔8〕高野山『弘法大師信仰の中心・奥の院』①戦国大名の墓所 - 旅のRESUME

                        ブログへお立ち寄り頂きありがとうございます。 www.bluemoonbell.work 高野山の宿坊「赤松院」に宿泊の翌日、チェックアウトをして駐車場に車を置かせてもらい、この旅の目的の奥の院に向かいました。 奥の院 奥の院 一の橋 戦国武将が眠る奥の院 戦国大名と荘園 奥の院 奥の院は高野山の入り口の大門から一番奥にあります。 その中で最も奥にある御廟では、今もお大師様が生きていて世の中の平和と人々に幸せを願い祈りづつけていると信じられています。 ここでは毎日2回〝生身供(しょうじんく)〟という儀式が行われ、お大師様に食事を届けています。 今年はお大師様生誕1250年で、TVで高野山の特集が組まれることが多かったからご存じの方も多いでしょう。 ▼左に写っている清浄心院は赤松院の隣のお寺さんで、夜は派手にライトアップしていました(*‘ω‘ *) ここから奥の院入り口まで歩いておよそ1~2

                          【和歌山県・伊都郡】和歌山旅行記〔8〕高野山『弘法大師信仰の中心・奥の院』①戦国大名の墓所 - 旅のRESUME
                        • 【和歌山県・伊都郡】和歌山旅行記〔9〕高野山『弘法大師信仰の中心・奥の院』②戦国大名以外のお墓も - 旅のRESUME

                          ブログへお立ち寄り頂きありがとうございます。 www.bluemoonbell.work www.bluemoonbell.work 前回からの続きです。 ▼ほぼ中間地点の中の橋。 企業墓エリアが近いので、中の橋バス亭と案内所、駐車場、トイレがありますが、参道から通り抜けられる道はありません。 ▼市川團十郎墓所 奥の院には、大名・武将の他にもたくさんお墓があります。 後ろに見える墓石はまだ新しく一般の方のお墓ですね。 その他に特徴ある企業のお墓もたくさんあります。 武将の隣がパナソニックだったりね(❁´◡`❁) ▼火消の纏 ▼豊臣家墓所 少し小高い場所にあり、めっちゃ広いです! たぶん一番敷地が広いと思います。 この他にも、平敦盛、八代徳川吉宗、上杉謙信、織田信長、井伊直弼、柴田勝家、崇源院(浅井長政とお市の末娘・お江)、千姫、加賀前田家、真田親子、黒田長政、浅井家、などあります。 全部撮

                            【和歌山県・伊都郡】和歌山旅行記〔9〕高野山『弘法大師信仰の中心・奥の院』②戦国大名以外のお墓も - 旅のRESUME
                          • 山口、広島、岡山、兵庫、福岡を支配した戦国大名大内氏の歴史を解説

                            大内一族は山口県から発祥した 大内というのは、元々深く入り込んだ地形や盆地の意味があり、そのためこの地名が日本各地にあります。その地名の豪族は自然と大内を名乗るため、実は全国にいろんな大内氏が存在しました。 その中でも周防国(すおうのくに)(山口県)に中世から戦国にかけて勢力を持っていた周防大内氏がとくに有名で、今回も周防大内(以下大内)を取り上げます。大内氏は古代朝鮮半島の国家、百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)の第三王子だった琳聖太子(りんしょうたいし)の子孫とされます。彼は百済から周防国の多々良(たたら)浜に上陸。 聖徳太子(しょうとくたいし)から領地と多々良姓を賜ったとか。ただし伝承の域を出ていません。系図では琳聖太子七世の孫とされる正恒(まさつね)から多々良の姓を使ったとか。平安時代(へいあんじだい)末期には初代正垣から9代目にあたる多々良盛房(たたらもりふさ)が初めて大内を

                              山口、広島、岡山、兵庫、福岡を支配した戦国大名大内氏の歴史を解説
                            • 大杉健太役の長尾謙杜の名前の由来は戦国大名から取った?ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』 - AKIRAの映画・ドラマブログ

                              ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』では、大杉健太役の長尾謙杜さんの名前の由来は、戦国大名から取ったものか?詳しく解説します。 ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』のキャスト 企画&脚本&原作 登場人物&俳優 ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』のストーリー 『大杉健太役の長尾謙杜の名前の由来は戦国大名から取った』 ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』の見所とまとめ ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』のキャスト パパとムスメの7日間は、TBSで2022年7月27日から放送開始されました。 企画&脚本&原作 企画:中西真央 脚本:荒井修子 原作:五十嵐貴久 登場人物&俳優 川原小梅(演:飯沼愛)軽蔑していた父親と体が入れ変わる女子高生 川原恭一郎(演:眞島秀和)川原小梅の父親 川原理恵子(演:羽田美智子)川原小梅の母親 大杉健太(演:長尾謙杜)川原小梅に愛されているイケメン男子

                                大杉健太役の長尾謙杜の名前の由来は戦国大名から取った?ドラマ『パパとムスメの7日間 第5話』 - AKIRAの映画・ドラマブログ
                              • 織田信長が討ち死にした謎多き本能寺 遺構から浮上した意外な戦国大名の存在

                                天正10(1582)年、天下統一を目前にした織田信長が討たれた本能寺。民間調査会社「文化財サービス」(京都市南区)が同市中京区の寺跡を発掘調査したところ、溝状遺構の底から格子状に編まれた木製品が大量に出土した。さらに調査を進めると信長の時代と関係のない、寺の造営前の土地造成跡だという。溝を作り、木製品を入れたのは誰なのか。取材と検証を進めると、意外な戦国大名にたどりついた。 謎の溝と木製品 当時の本能寺は京都市役所前の現在地から西約1・5キロの場所にあった。今回の調査地は山門が想定された西洞院通沿い。かつて行われた北隣の調査で本能寺の変当時の遺物・遺構が出ただけに、今回も成果が期待された。 そして令和3年、約2カ月をかけて200平方メートルを調査したところ、溝状遺構の底から竹や木を格子状に編んだ木製品が大量に出土した。「木舞(こまい)」と呼ばれる土壁の基礎とみられている。 「信長が寺を京都

                                  織田信長が討ち死にした謎多き本能寺 遺構から浮上した意外な戦国大名の存在
                                • 水野信元とはどんな人?石高堂々の24万石!尾張と三河に跨る中堅戦国大名

                                  水野信元は徳川家康の母、於大(おだい)の方の異母兄です。尾張知多郡と三河壁海(へきかい)郡に勢力を持ち、同じく知多郡で勢力を持つ戸田氏、大野佐治氏と抗争と和睦を繰り返し知多半島にゆるぎない勢力を築き、織田信秀の三河攻略に協力し、また家康と信長の清須同盟に関与しました。最盛期は24万石の国力を持った信元ですが、その勢力ゆえに信長に危険視され殺害されてしまうのです。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲー

                                    水野信元とはどんな人?石高堂々の24万石!尾張と三河に跨る中堅戦国大名
                                  • 歴史人「戦国最強家臣団」!戦国大名のかげに家臣団あり…信長、信玄、家康を支えた軍団とは?

                                    約100年続いた戦国時代。戦に明け暮れたからこそ整った戦いのシステムが「家臣団」です。 逆に言えば、この家臣団の存在そして強さ無くして、戦国武将は領土を拡大することはできませんでした。 方面軍を組織して天下取りまであと一歩のところまで迫った織田家臣団。 戦国最強と称された武田家臣団、鉄の絆と忠義で天下を制した徳川家臣団などなど…。 戦国乱世に覇を唱えた武将のかげに、主君を支えた家臣団あり…。 今日の夢中は、戦国大名を支えた軍団の強さに迫る総力特集、歴史人「戦国最強家臣団」です。 ■織田家臣団 戦国に名を馳せた戦国大名には、その躍進を後押ししたそれぞれの家臣団がいました。 歴史人は、その家臣団に注目。織田や武田、徳川、伊達など、名だたる武将の家臣団を分析、その強さや仕組みを徹底検証しています。 誌面には16の戦国大名の家臣団が紹介されています。それぞれ特徴や変遷があって興味深い…。 …のです

                                      歴史人「戦国最強家臣団」!戦国大名のかげに家臣団あり…信長、信玄、家康を支えた軍団とは?
                                    • 歴史人「戦国大名の勢力変遷マップ」地図から戦国史150年を読み解こう

                                      こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、歴史人「戦国大名の勢力変遷マップ」地図から戦国史150年を読み解こう…です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2022年10月号は、歴史好き・戦国好きにはたまらない特集が組まれました。 それが、保存版特集「戦国大名の勢力変遷マップ」。 応仁の乱から大阪の陣まで、戦国史150年を地図で読み解く一大特集です。 歴史人2022年10月号 歴史ファンの多くが大好きな戦国時代。 織田信長、武田信玄、上杉謙信、豊臣秀吉、徳川家康…。多くの武将がきら星のように現れ、領土争いを繰り広げました。 その版図はなんとなく分かってはいるものの、その変遷はあまり目にしたことがないな…

                                        歴史人「戦国大名の勢力変遷マップ」地図から戦国史150年を読み解こう
                                      • 【登山】野崎観音から飯盛山をめぐる歴史旅/「日本の統治者」と呼ばれた戦国大名 三好長慶の居城跡 - 企業法務担当者のビジネスキャリア術

                                        長かった猛暑も終わり、新型コロナウイルスの感染者も減少傾向にある今日この頃。行楽日和が続くこの時期に登山に行ってきた。 目的地は大阪府東部の大東市と四条畷市にまたがる飯盛山。標高310mで、それほど高くないが、山頂付近には戦国時代に近畿圏を支配していた三好長慶の居城「飯盛城」の遺跡が残されている。 1.大東市歴史民俗資料館 当日は、JR大阪駅から学研都市線に乗車して30分ほどで野崎駅で下車。そのまま南東に向かい、大東市歴史民俗資料館に立ち寄る。こちらは大東市の歴史を紹介した小規模な施設で、受付窓口で御城印を販売中。こちらの御城印は、一般的なものと違って緑色という珍しいデザインだ。 2.野崎観音から飯盛山を目指す そして、大通りに戻って「野崎参り」でも有名な野崎観音(慈眼寺)に到着。ここから登山道に入って、雑木林を歩いていく。急坂を登ったり、舗装道を通るなどして、一時間ほどで飯盛山の山頂に着

                                          【登山】野崎観音から飯盛山をめぐる歴史旅/「日本の統治者」と呼ばれた戦国大名 三好長慶の居城跡 - 企業法務担当者のビジネスキャリア術
                                        • 【下野の戦国大名】なぜ山内上杉は下野に侵攻できなかったんだろう。古河公方が強かったの? : 歴史速報

                                          歴史速報 歴史全般を紹介するブログ。日本史では戦国時代を中心に平安、室町、安土桃山など時代ごとや武将や大名、令制国(旧国名)。世界史では西洋史(欧州史・米国史)や中国史(三国志演義・三国志正史から殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢・晋・南北朝・隋・唐・五代・宋・元・明・清など)、その他各国の歴史を紹介。歴史に関することなら古代~近代、正史・創作すべて扱います。

                                            【下野の戦国大名】なぜ山内上杉は下野に侵攻できなかったんだろう。古河公方が強かったの? : 歴史速報
                                          • 【下野の戦国大名2】那須は北の結城、佐竹、 南の宇都宮と敵対してたのに、よく生き延びたよね。 : 歴史速報

                                            歴史速報 歴史全般を紹介するブログ。日本史では戦国時代を中心に平安、室町、安土桃山など時代ごとや武将や大名、令制国(旧国名)。世界史では西洋史(欧州史・米国史)や中国史(三国志演義・三国志正史から殷・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢・晋・南北朝・隋・唐・五代・宋・元・明・清など)、その他各国の歴史を紹介。歴史に関することなら古代~近代、正史・創作すべて扱います。

                                              【下野の戦国大名2】那須は北の結城、佐竹、 南の宇都宮と敵対してたのに、よく生き延びたよね。 : 歴史速報
                                            • 戦国大名は何度も起きた飢饉をいかにして乗り越えようとしたか

                                              応仁の乱の東軍・西軍に集められた足軽たちは、時に富豪などから掠奪行為を行い、盗品は彼らと結託する戦場の商人たちに売られて郊外の市で売りさばかれていたのである。彼らには、戦場における市街での掠奪行為が許されていたのである。 応仁の乱の十一年間に土一揆の記録が無い理由は、それまで「土一揆」を起こしていた主要勢力が東西両軍の「足軽」に入り込むことで稼ぐことができたからなのだが、彼らにとっては「土一揆」を起こすよりも「足軽」という立場で掠奪する方がリスクも低く、経済面のメリットが多かったということなのだろう。 食糧の絶対不足と今川氏 その後戦国時代に入って集団戦が本格化・大規模化して長槍・弓の足軽隊が組織され、鉄砲が普及すると鉄砲隊が編成されて主要な部隊として活躍するようになり、物資や武器の運送などの人員も増加していった。戦国大名の軍の構造は、騎馬武者はせいぜい一割程度で、残りは足軽や雑兵であった

                                                戦国大名は何度も起きた飢饉をいかにして乗り越えようとしたか
                                              • 本当は有能だったのに… 後世の史料のせいで評価が低すぎる戦国大名4選(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース

                                                今川義元は「公家化した軟弱大名」と揶揄された。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート) 日本には数多くの戦国大名がいたが、中には著しく誤解されたり、後世に成った史料で不当に低く評価されたりした例もある。今回は4人の戦国大名を取り上げ、汚名を返上したいと思う。 ■今川義元(1519~60) 義元は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死したが、その理由は「文芸に溺れ、公家化したからだ」といわれている。たしかに、義元は鉄漿(お歯黒)をし、文芸にも傾倒していた。 とはいえ、評価すべき面も多々ある。たとえば、天文22年(1553)には、「今川仮名目録追加」を制定した。 また、駿河、遠江、三河で検地を行い、財政基盤を強化した。寄親・寄子制度を作り、軍役を整備した点も見逃すことができない。 戦国大名が和歌や連歌に親しむことは、決して珍しいことではなかった。一度の敗戦

                                                  本当は有能だったのに… 後世の史料のせいで評価が低すぎる戦国大名4選(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
                                                • 戦国大名の北条氏政墓所で火付けたか 卒塔婆などを焼損、男逮捕 神奈川・小田原

                                                  神奈川県小田原市にある戦国大名の北条氏政らの墓所で、卒塔婆などを焼損させたとして、小田原署は器物損壊の疑いで、住所不定、無職、小林甲侍容疑者(59)を現行犯逮捕した。署によると、黙秘しているという。 逮捕容疑は3日午後7時50分ごろ、同市栄町2丁目にある氏政と弟氏照の墓所で卒塔婆とひしゃくを焼いて壊したとしている。 近隣住民から「お札に火を付けている人がいる」と110番通報があった。墓所は市指定の史跡。

                                                    戦国大名の北条氏政墓所で火付けたか 卒塔婆などを焼損、男逮捕 神奈川・小田原
                                                  • 〈次期大河ドラマ主人公〉家康は「戦国大名をやらされた運命自体が苦痛だった」磯田道史が分析した“若き日の苦悩” | 文春オンライン

                                                    「若き日の家康」は何を考え、何を学んで天下人となったのかを論じた、国際日本文化研究センター教授・磯田道史氏による「わが徳川家康論」(「文藝春秋」2022年11月号)を一部転載します。 ◆◆◆ はじめから天下取りの意欲を持っていたとは…… 2023年のNHK大河ドラマは『どうする家康』。主人公は徳川家康です。戦国の世を終わらせ、長い平和をもたらした家康の人間味には、私も日本史の研究者として興味があり、4年ほど、彼の旧領であった浜松に移住してみて、その生涯の細部を調べたほどです。 これまでにも多くの小説家、歴史家が家康の生涯を描いていますが、そうした従来の家康像、ことに若き日の家康の描き方には、あるパターンが見られます。それは「天下人」になった偉人・家康の萌芽を少年期、青年期に見出す、というものです。ゴールから逆算する人物論です。 たとえば今川義元に人質に取られていた少年時代、今川の屋敷で新年

                                                      〈次期大河ドラマ主人公〉家康は「戦国大名をやらされた運命自体が苦痛だった」磯田道史が分析した“若き日の苦悩” | 文春オンライン
                                                    • 信長やべえ!からの秀吉の圧倒的ラスボス感!戦国大名の勢力図変遷動画が面白わかりやすい|まいどなニュース

                                                        信長やべえ!からの秀吉の圧倒的ラスボス感!戦国大名の勢力図変遷動画が面白わかりやすい|まいどなニュース
                                                      • 「軍事とは経済である」武田信玄がどんなに"優れた戦国大名"でも、信長には絶対に勝てなかったシンプルな理由 戦いは数であり、数を支えるのは経済力だ

                                                        経済的に豊かかどうかが合戦の勝敗を分ける より多くの兵を養える者こそが合戦の勝者となる。一騎当千の英雄豪傑の存在や、知恵を振り絞り奇を衒てらった戦法・戦術によって戦いに勝利する場合と比べると、それはあまりに地味かもしれません。しかし、これが合戦のリアルなのです。 いわば経済的に豊かかどうか、富国であるかどうかが合戦の勝敗を分けるとすると、そこには地政学的な優越がもともと存在すると言えるでしょう。 たとえば、武田信玄の場合、信濃国を自分のものにするために、約10年の歳月をかけてこれを制圧しました。その後、北信濃の領有をめぐってまた約10年の間に5回にも及ぶ川中島の戦いで上杉謙信と争った。つまり、信濃を完全に掌握するのに20年もの歳月をかけたわけです。 しかし、信濃国の石高はいくらか勘定してみると(戦国時代では本来、石高では計算しないのですが、本書ではわかりやすさを考慮して石高で統一します)、

                                                          「軍事とは経済である」武田信玄がどんなに"優れた戦国大名"でも、信長には絶対に勝てなかったシンプルな理由 戦いは数であり、数を支えるのは経済力だ
                                                        • 戦国大名が抱えていた忍者集団を一挙紹介!伊賀、甲賀、風魔、軒猿、あなたはいくつ知ってる?

                                                          エントリー1 伊達家に仕えた黒脛巾組 奥州の雄、伊達家には黒い脛当てがトレードマークの黒脛巾組(くろはばきぐみ)というニンジャ集団が仕えていました。伊達秘鑑(だてひかん)によると伊達政宗(だてまさむね)が信夫郡(しのぶぐん)鳥屋(とりや)の城主、安倍対馬重定(あべつしましげさだ)に命じて鼠(ねずみ)に慣れた者を五十名選んで扶持米(ふちまい)を与え、柳原戸兵衛(やなぎはらとべえ)、世瀬蔵(せせくらうど)人という人物を首領にしたそうです。彼らは黒革の脛当てを目印にしていたので黒脛巾組と呼ばれていました。ほとんど史料がない事から架空の人物の可能性もありますが、伊達家の本拠地が山形県の置賜(おきた)地方で出羽三山系の修験者と交流があった事から、そのような忍者集団が形成された可能性は否定できないそうです。 エントリー2 後北条家に仕えた風魔党 北条早雲(ほうじょうそううん) 後北条氏に仕えていたのが

                                                            戦国大名が抱えていた忍者集団を一挙紹介!伊賀、甲賀、風魔、軒猿、あなたはいくつ知ってる?
                                                          • なぜ武田、北条、今川はダメだったのか…小さな戦国大名・織田信長を「天下人」に導いた3つの要素 だから「天下統一」を目指す戦国大名はほかにいなかった

                                                            読者のみなさんは、「戦国大名が覇を競う戦国時代だから、最強の武将信長が天下統一ねらうのはあたりまえだ」と思ってきたのではなかろうか。 しかし、本当にそうであろうか。 高等学校の日本史教科書においては、長らく戦国時代を戦国大名による分権政治の発展と、畿内を中心とする民衆自治の高揚として描き、戦国大名の代表的存在としての信長と一揆の全国的組織たる一向一揆との対決、すなわち権力対民衆の衝突の結果、天下統一が実現したと記述されてきた。しかし、それには少なくとも史実とは異なる二つの問題があった。 第一が、一向一揆の本質を純粋な農民闘争とみてよいのかということである。これについては、現時点では学問的に否定されている。惣村(自治村落)と一向一揆に直接の関係はみいだせないし、組織された門徒には、百姓や町人ばかりではなく歴とした武士も少なくなかった。 また一向一揆が、「仏法領」という宗教的理想領域の創出をめ

                                                              なぜ武田、北条、今川はダメだったのか…小さな戦国大名・織田信長を「天下人」に導いた3つの要素 だから「天下統一」を目指す戦国大名はほかにいなかった
                                                            • 主君を殺したけれど…取って代わる意図はなかった「戦国大名の無念」(黒田 基樹)

                                                              戦国時代には様々な「下剋上」が起きたが、西国の戦国大名での下剋上として代表的な事例は、陶隆房(晴賢)の場合である。隆房は、主君であった西国最大の大名・大内義隆に叛乱を起こし、自害に追い込んだ。しかし、隆房には、主家に取って代わる意図はなかったという。それなのに、なぜ隆房は「主殺し」に手を染めたのだろうか? 戦国時代における下剋上の実例を紹介し、その実像を示す黒田基樹氏による現代新書の最新刊『下剋上』から、その一部をお届けする。 陶隆房と大内家 陶隆房は、大永元年(1521)生まれで、大内家の家宰で周防国守護代の陶興房の嫡男である。 天文8年4月18日に父陶興房(当時は法名道麒)が65歳で病死し、隆房がその家督を継承した。わずか19歳であったが、同時に、陶家当主歴代が務めてきた大内家の家宰と周防国守護代も継承し、重臣筆頭の立場に位置した。隆房は、家督を継いだ翌年には、大内家における事実上の総

                                                                主君を殺したけれど…取って代わる意図はなかった「戦国大名の無念」(黒田 基樹)
                                                              • 「国人とは?」国人一揆や国人と地侍、守護大名、戦国大名との違いを解説! - 元予備校講師の受験対策ブログ

                                                                このページを訪れた人は「国人とは何か」、「国人と守護大名、地侍などとの違いは?」といった疑問を持っているかもしれません。 国人とは、南北朝時代から戦国時代にかけて各地の村落を支配した領主のことです。 荘園領主のもとで土地を管理していた荘官や鎌倉時代に多く設置された地頭などから国人に成長することが多かったとされます。 今回は国人について、元予備校講師がわかりやすく解説します。 室町時代や戦国時代の記事興味がある方はこちらもどうぞ! kiboriguma.hatenadiary.jpkiboriguma.hatenadiary.jpkiboriguma.hatenadiary.jp kiboriguma.hatenadiary.jp kiboriguma.hatenadiary.jp 写真AC 国人の意味とは? 室町時代の国人 国人の成長と国人一揆 国人と守護大名の関係 国人と地侍の違いとは?

                                                                  「国人とは?」国人一揆や国人と地侍、守護大名、戦国大名との違いを解説! - 元予備校講師の受験対策ブログ
                                                                • 俺の思い浮かべる戦国大名の顔

                                                                  織田信長・・・緒形直人 徳川家康・・・滝田栄 豊臣秀吉・・・竹中直人 武田信玄・・・阿部寛 山本勘助・・・内野聖陽(昨日なに食べた?) 今川義元・・・GIF麻呂 独眼竜政宗・・・渡辺謙 西郷隆盛・・・西田敏行 大久保利通・・・鹿賀丈史

                                                                    俺の思い浮かべる戦国大名の顔
                                                                  • 歴史探偵「戦国大名・島津、強さのルーツに迫る 」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録

                                                                    NHKTVに「歴史探偵」という番組があり探偵社の所長役が俳優の佐藤二朗さんで、色々な歴史のテーマに対し独自の調査を行い、その要因や源流を解明する番組スタイルになっている。 佐藤二朗所長と探偵役のNHKアナウンサーとのやり取りも面白くてテーマを選んで録画して観ている。 今回は薩摩の戦国大名・島津氏が対象でその強さの秘密を解明するという触れ込みである。 幕末から明治維新にかけて薩長と呼ばれた薩摩の島津と私のふるさと長州の毛利は維新回天の双璧であり両者共に関ヶ原の負け組であった。 何れも関ヶ原では西軍・石田三成側に就いたが戦場では両者共に殆んど戦わずして終わり、戦後処理では勝者の徳川家康から大きく違う扱いを受けた。 毛利は中国地方120万石から防長二州36万石に減封され大きな苦しみに直面したが、一方の島津は薩摩、大隅、日向の一部併せて73万石は安泰であった。 敵対した島津を罰することが出来ず本領

                                                                      歴史探偵「戦国大名・島津、強さのルーツに迫る 」 - 厚狭吉亭日乗・神戸残日録
                                                                    • 今川義忠にみる戦国大名化の契機ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

                                                                      『新九郎、奔る!』第8巻の表紙は今川義忠です。 新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス) 新九郎、奔る!(8) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ] 今川家で最も有名な今川義元の祖父にあたり、北条早雲こと伊勢新九郎の義兄にあたります。今川義忠の突然の戦死とその後のお家騒動への関与が北条早雲こと伊勢新九郎の台頭のきっかけでした。 この今川義忠の時代に実は今川家の戦国大名化の契機があります。この辺を上手に『新九郎、奔る』第8巻では説明されています。 「戦国大名」はそれまでの「守護大名」とどう違うのでしょうか。 戦国大名とは何か、という問いの答えはまだ統一したものはありませんが、最大公約数的に見れば、数郡から数国規模の広い領域を支配し、家中と国衆を支配し、朝廷や室町幕府という観念的な権威以外には服さず、独自の支配を打ち立てている、ということになるでしょう。 戦国大名には守護もしくは守

                                                                      • 初の戦国大名となった男の知られざる幼少期――『新九郎、奔る!』第1巻 第1話

                                                                        織田信長、豊臣秀吉、徳川家康……かの有名な武将たちが活躍する少し前、戦乱の世のはじまりを生き抜き、切り開いた男がいた。

                                                                          初の戦国大名となった男の知られざる幼少期――『新九郎、奔る!』第1巻 第1話
                                                                        • 守護大名と戦国大名 - 知ってわかる日本の良さ Kazu68’s diary

                                                                          守護大名とは? 戦国大名となにが違うのか? 守護大名(しゅごだいみょう)とは、どのような意味で、どのような大名の事を言うのか、できる限りわかりやすく解説したいと存じます。 まず「大名」と言う言葉の意味をご説明申し上げます。 大名(だいみょう)は、簡単に申し上げますと、名主(なぬし)でも大きいと言う意味で大名主と言うとわかりやすいでしょうか? 大いに名が轟いている人と言えるでしょう。 荘園・公領などを支配・管理した人物が名主で、もともとは、百姓から税を徴収して、簡単に言うと自分の取り分を除いた額を、国家に税として納めていました。 その名主でも、勢力が大きかった物が大名です。 鎌倉時代になると武士(御家人)にも領地が与えられるようになり、その領地をたくさん所有した者は、その地域(国)の治安維持などのため「守護」として任命されて行くようになります。 例えば、常陸国で一番勢力が大きい武家が守護に選

                                                                            守護大名と戦国大名 - 知ってわかる日本の良さ Kazu68’s diary
                                                                          • 100年も戦国大名を脅かした「一向一揆」はなぜ、どのように勢力を増していったのか【前編】 - Plenty of quality

                                                                            100年も戦国大名を脅かした「一向一揆」はなぜ、どのように勢力を増していったのか【前編】 | 歴史・文化 - Japaaan

                                                                              100年も戦国大名を脅かした「一向一揆」はなぜ、どのように勢力を増していったのか【前編】 - Plenty of quality 
                                                                            • 徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【前編】 : Japaaan

                                                                              1590年。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は20万の大軍勢で小田原城に迫った。後に「小田原征伐」と呼ばれるこの戦役は、北条氏4代目当主である「北条氏政(ほうじょううじまさ)」との対立が一つの要因と考えられている。 今回は、天下人・豊臣秀吉に最後まで抗った男、北条氏政の生き様をご紹介する。 関東の覇者「北条氏」に生まれた氏政 北条氏は、戦国大名の先駆けとされる「北条早雲(ほうじょうそううん)」を始祖とすし、早雲から5代に渡って小田原を中心に関東一帯を支配した戦国大名家である。 1538年。氏政は3代目当主・氏康の次男として生まれた。長男の氏親が1552年に16歳で早世したため嫡子となった。 1554年。父の氏康は隣国である武田氏と今川氏の治める両国と同盟を結んだ(甲相駿三国同盟)ことによって甲斐国の武田信玄の娘「黄梅院(こうばいいん)」を正室に迎えた。 1559年。父から家督を譲られ北条氏4

                                                                                徹底抗戦の末に切腹。最後まで豊臣秀吉に抗った戦国大名「北条氏政」のプライド【前編】 : Japaaan
                                                                              • 戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?ー超入門!お城セミナー【構造】

                                                                                お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは城と河川の関係。周囲を海に囲まれ、流れの速い河川を多数有する日本では、古くから水と上手に付き合うことが大切でした。それは、築城においても同様。城や城下町造りの際に治水を怠れば、せっかく造った町が水びたし…なんてことも。戦国〜江戸時代の大名たちは川とどのように付き合っていたのか、武田信玄・徳川家康などの治水工事を例に築城と治水の関わりを紐解いてみましょう。 群馬県の大水上山を水源とし、栃木県、埼玉県、東京都、千葉県、茨城県を流れる利根川。古くから暴れ川として知られ、為政者たちは治水に頭を悩ませていた 国土の4分の3を山地が占める日本。豊富な山水は、川を流れて海まで至るわけですが、近年でも大きな洪水が甚大な被害をもたらしているように、我々日本人にとって、川とのお付き合いは人生を左右する大切な

                                                                                  戦国大名の治水事業ー城を造るときに川の流れを変える!?ー超入門!お城セミナー【構造】
                                                                                • 戦国時代、北の海で暴れ回ったアイヌ海賊と、悩まされる戦国大名たち : Japaaan

                                                                                  かつて蝦夷地(現:北海道)や樺太、千島列島に独自の文化を繰り広げていたアイヌ系諸部族(以下アイヌ)は、本州の人々と交流したり争ったりしていました。歴史の授業では江戸時代初期に勃発したシャクシャ… ※夷狄とは東夷(とうい。東の野蛮人)と北狄(ほくてき。北の野蛮人)の総称で、広くアイヌや蝦夷(ゑみし)といった東日本の(中央政権にまつろわぬ)諸部族を意味しました。 アイヌにも海賊がいた!?意外と、そしてかなり不利だった和人の立場 夷狄商舶往来法度とは、それまで激しい抗争を繰り広げて来たアイヌと和人の間に締結された一種の講和条約で、史料によって諸説あるものの、おおむね天文二十1551年ごろに締結されたそうです。 締結に立ち会ったアイヌの代表者はシリウチ(現:知内町)の首長チコモタインとセタナイ(現:せたな町)の首長ハシタイン。対する和人の代表は、松前大館(現:松前町)の領主・蠣崎季広(かきざき す

                                                                                    戦国時代、北の海で暴れ回ったアイヌ海賊と、悩まされる戦国大名たち : Japaaan

                                                                                  新着記事