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戦跡に関するエントリは22件あります。 歴史戦争資料 などが関連タグです。 人気エントリには 『ずっと忘れない!【日本の戦跡】アメリカ海軍艦載機による徳島県阿南市鉄橋襲撃事案とは? 0816 🇯🇵 ミリタリー NEVER FORGET! 1945.7.30 - いつだってミリタリアン!』などがあります。
  • ずっと忘れない!【日本の戦跡】アメリカ海軍艦載機による徳島県阿南市鉄橋襲撃事案とは? 0816 🇯🇵 ミリタリー NEVER FORGET! 1945.7.30 - いつだってミリタリアン!

    今回は、太平洋戦争末期のアメリカ軍艦載機による鉄橋襲撃事案を紹介します。 徳島県の田舎で76年前の7月30日に、実際に起こった出来事ですね。 大勢の方が亡くなられました。 あなたには、戦争中にこんな事があった…と記憶していただければ幸いです。 目次 1  アメリカ軍艦載機による徳島県阿南市鉄橋襲撃事案とは? ⑴   発生日時 ⑵   場所 ⑶   襲撃者 ⑷   犠牲者 ⑸   状況 ⑹   その他 2  襲撃された鉄橋の写真 3  現場と襲撃状況の検証 4  まとめ 1  アメリカ軍艦載機による徳島県阿南市鉄橋襲撃事案とは? ⑴   発生日時 昭和20年7月30日(1945年)16時頃 ⑵   場所 徳島県那賀郡平島村中島 (現在の徳島県阿南市那賀川町中島) 那賀川に架かる国鉄鉄橋(◯参照) (画像は現在のJR鉄橋:下流から二番目の橋が襲撃された。) Googleマップより抜粋 ⑶  

      ずっと忘れない!【日本の戦跡】アメリカ海軍艦載機による徳島県阿南市鉄橋襲撃事案とは? 0816 🇯🇵 ミリタリー NEVER FORGET! 1945.7.30 - いつだってミリタリアン!
    • 早急な保存措置が必要!【日本の戦跡】旧日本海軍航空機用掩体壕(シェルター)類とは? 0567 🇯🇵 ミリタリー EOJ NAVY AIRCRAFT SHELTERS IN YONAGO CITY TOTTORI PREFECTURE JAPAN 1940S - いつだってミリタリアン!

      今回は、鳥取県米子市にある旧日本軍の航空機用掩体壕(シェルター)類を分析します。 ミリタリーマニアのあなたは、もうご存知ですよね。 航空自衛隊美保基地/米子空港に隣接する施設ですよ! (有名ですよね。) 国道からも観られますよ。 あまり知られていませんが…じつは、いくつもあるのです! 目次 1  旧日本海軍航空機用掩体壕(シェルター)類とは? ⑴  航空写真 ⑵  所在地 ⑶  アクセス ⑷  問い合わせ先 2  国道沿いの掩体壕❶(個人所有) 3  国道から南に入った住宅地にある弾薬庫❷(個人所有) 4  住宅地の墓地にある建物の跡❸ 5  林の中にある掩体壕❹(米子市所有) 6  国道から入り込んだところにある掩体壕❺(米子市所有) 7  旧日本海軍航空機用掩体壕(シェルター)類まとめ スポンサーリンク スポンサーリンク 1  旧日本海軍航空機用掩体壕(シェルター)類とは? 先月、出張

        早急な保存措置が必要!【日本の戦跡】旧日本海軍航空機用掩体壕(シェルター)類とは? 0567 🇯🇵 ミリタリー EOJ NAVY AIRCRAFT SHELTERS IN YONAGO CITY TOTTORI PREFECTURE JAPAN 1940S - いつだってミリタリアン!
      • 水中特攻「伏龍」88歳の証言|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

        水中特攻「伏龍」88歳の証言(2018年8月15日 岐阜局 大村志歩ディレクター) 太平洋戦争終戦の3か月前、日本本土を守る最後のとりでとして、海の中から敵船をめがけて特攻する「伏龍特攻隊」という部隊が編成されました。 「戦争中に見た事実を死ぬ前に伝えたい」。この特攻隊に所属していた岐阜県多治見市の88歳の男性が語る戦争の記憶をたどります。 「最後のとりで」 太平洋戦争終戦の3か月前、日本本土を守る最後のとりでとして、海の中から、潜水夫が敵船の船底をめがけて特攻する「伏龍特攻隊」という部隊が編成されました。 「伏龍特攻隊」は、粗末なゴム製の潜水服に重さ80キロの潜水具といういでたち。 先端に機雷をつけた竹やりを持って海に潜ってじっとひそみ、敵の上陸用の舟艇が来たら船底を突いて自爆するいわば“人間機雷”でした。 岐阜県多治見市に住む鈴木道郎さん(88)は、元伏龍特攻隊の隊員です。 初めて伏龍

          水中特攻「伏龍」88歳の証言|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
        • 憲兵だった父の隠された手紙|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

          憲兵だった父の隠された手紙(2016年8月16日 甲府局 上田大介記者) 太平洋戦争の戦地から送られてきた膨大な量の手紙。日本軍の憲兵が、当時家族にあてて書いたものです。 軍の検閲をくぐって届いたとみられる手紙には、戦場の知られざる実態が記されていました。 424通の手紙が伝える戦争 山梨県韮崎市の保坂衣子さん(75)は、父が亡くなったあとに自宅の蔵を整理中、偶然手紙の束を見つけました。 保坂衣子さん: 「うちにいる父はなんか物を読んでいるか書いているか物静かな人でしたね。本当に中をみてびっくりしました」 手紙を書いたのは、衣子さんの父、五味民啓(たみよし)さんでした。陸軍の歩兵として召集され、昭和12年から3年間、日中戦争で戦地に送られました。 手紙は五味さんが、戦時下の中国から日本の妻や弟にあてて送り続けたものです。その数は424通。戦場の実態が克明につづられていました。 (手紙より)

            憲兵だった父の隠された手紙|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
          • WEB特集 首里城 地下に眠る戦跡 旧日本軍 第32軍司令部壕 | NHKニュース

            去年、大火災に見舞われた沖縄の首里城の地下に、75年前の沖縄戦の悲劇を物語る場所がある。これまで立ち入りが厳しく制限されてきたが、今回初めて内部の奥深くにテレビカメラが入った。(沖縄放送局記者 松下温) 「ギチィッ、ギチィッ」。固く閉ざされていた鉄製の扉を引くたびに、経年によってゆがんだ鉄枠と地面のすれる音があたりに響きわたる。 沖縄の象徴、首里城正殿から南西に300メートル下った森の中に、75年間ほとんど人目に触れることなく眠り続ける戦跡がある。 「第32軍司令部壕」。 太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍の司令部が置かれた地下ごうだ。崩落の危険性が高いため沖縄県が厳重に管理し、いまは年に一度、管理する業者が入るだけだ。 今回NHKは沖縄県との共同研究として、特別に許可を得て撮影を行った。第5坑道と呼ばれる入り口の最も奥深くまでテレビカメラが入るのは初めてだ。 扉を開けて一歩足を踏み入れると

              WEB特集 首里城 地下に眠る戦跡 旧日本軍 第32軍司令部壕 | NHKニュース
            • 50年間、口外してはならない 極秘調査・兵士たちの“心の傷”|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

              50年間、口外してはならない 極秘調査・兵士たちの“心の傷”(2021/08/26 映像センター 小椋崇広カメラマン) 先の大戦中、戦場でのストレスなどが原因で精神疾患を発症した兵士たちがいました。 しかし、その存在は「皇軍の恥」とされ、ひた隠しにされてきました。 ことし、兵士たちを追跡調査したおよそ60年前の極秘資料が、NHKの取材班にはじめて開示されました。800ページにわたる資料には、壮絶な戦場での体験から戦後も病に苦しみ、誰にも理解されず孤独を抱えて生きた兵士たちの姿が記録されていました。

                50年間、口外してはならない 極秘調査・兵士たちの“心の傷”|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
              • 福岡県にも戦跡「奉安殿(ほうあんでん)」が残っていた 福岡県行橋市稲童 - 日々の”楽しい”をみつけるブログ

                福岡県行橋市にある戦争遺跡である「稲童1号掩体壕」を訪ねたとき、「奉安殿(ほうあんでん)」という史跡をたまたま見つけました。 旧仲津小学校の奉安殿 場所:福岡県行橋市稲童 座標値:33.693239,131.030350 私が全国にあった「奉安殿」という存在を知ったのは、80歳代のかたからのお話で、昔、小学校の校門近くに奉安殿が建てられていたということを聞いてからです。 奉安殿は、天皇・皇后の写真と教育勅語を納めていた建物です。戦前、全国の各学校につくられ、奉安殿を通るときには頭をさげて通るように言われていたそうです。戦争に備えて、国家への忠誠を国民に誓わせ、戦争が起これば命を投げ出して天皇のために戦うという意識を持たせることを目的とした建物でした参照。 そのため、戦争が終わってからはアメリカにより、全国の奉安殿は撤去されました。現在は、戦争遺跡としてわずかに残っているのみです。 奉安殿の

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                • 終戦まぎわの西鉄電車への銃撃 犠牲者の名前を探し続けて|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                  終戦まぎわの西鉄電車への銃撃 犠牲者の名前を探し続けて(2020年8月14日 福岡局 松木遥希子記者) 「仕事で県庁まで」 「夜勤明けで自宅へ」 「恋人の見送りに」 75年前も今と同じような電車の日常がありました。それが突然奪われたうえに、事実が語り継がれず風化してしまったら。 昭和20年、終戦の1週間前に福岡県の小さな村で起きた戦闘機による銃撃事件を、公的な記録が残さていない中で調査を続ける男性は、犠牲者の「名前」にこだわり、何が起きたのか明らかにしようとしています。 「車内は血の海、地獄絵図」 アメリカ軍の戦闘機に取り付けられたガンカメラの映像です。画面中央を走行中の電車に向かって、おびただしい数の銃弾が降り注いでいます。 アメリカ軍は、軍の司令部だけでなく輸送ラインや工場も主要な攻撃目標とし、終戦末期のこの時期には、町や村の民間施設にも攻撃を広げていました。 昭和20年8月8日午前1

                    終戦まぎわの西鉄電車への銃撃 犠牲者の名前を探し続けて|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                  • 新城市湯谷温泉駅そばの温泉宿に一泊して長篠戦跡などを見てきた(その1) - 🍉しいたげられたしいたけ

                    またしても発端は実家の身内である。最近、弊ブログへの登場頻度が多いな。 西浦温泉に行ったことがなかったから、温泉宿に電話して予約を取ったので、連れて行けと言われた。西浦温泉というのは愛知県の三河湾沿いにある。 以前からそんなようなことは言っていたので、今さら驚きはしなかった。 ところが場所を検索して驚いた。新城市の湯谷温泉というのがヒットするではないか! 愛知県の東端、静岡県境ちかくにある、山ん中だ。方角がぜんぜん違うのだ! なんでそんなことになったかというと、身内が参照したのは10年近く前に亡くなった父親が遺した宿の電話番号が載っている時刻表だった。亡くなる前に、宿を探して泊まり歩いていたらしい。それでまだ行ったことのないところに電話したとのことだった。 宿の名前に「はづ」とついていた。西浦温泉のそばに幡豆〔はず〕という地名があるので、勘違いをしたらしい。 そのことを説明したが、構わない

                      新城市湯谷温泉駅そばの温泉宿に一泊して長篠戦跡などを見てきた(その1) - 🍉しいたげられたしいたけ
                    • 沖縄戦 鉄血勤皇隊の元少年兵 92歳になった今伝えたいこと|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                      「腹の中に破片が2つ入っているよ。何十年もケロイドが残っていた」 沖縄本島中部・北谷町に暮らす濱崎清昌さん(92)。 右の脇腹には沖縄戦で受けた銃弾の破片が今も残ったままです。 太平洋戦争中の昭和19年4月。 14歳だった濱崎さんは教員を夢見て那覇市内の師範学校に入学しました。 ところが戦況の悪化に伴い、夏休みが終わるとほぼ授業はなくなり、ごう掘りや飛行場の整備など戦争の準備に駆り出されるようになりました。 昭和20年3月26日。アメリカ軍は沖縄本島の西およそ40キロにある慶良間諸島に上陸を開始します。 5日後の31日。濱崎さんは当時の学生たちで構成された「鉄血勤皇隊」と呼ばれる部隊に動員され、旧日本軍を指揮した第32軍司令部の管理下に置かれることになりました。 その日、校長先生から「日本国民として、天皇の赤子として、天皇のために忠義を尽くそう」と呼びかけられたといいます。 濱崎清昌さん

                        沖縄戦 鉄血勤皇隊の元少年兵 92歳になった今伝えたいこと|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                      • お母さんに会えたのかい 原爆の地に立つ少年|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                        長崎市に住む村岡正則さん(85)は、74年前、爆心地から1.5キロ離れた自宅で被爆し、やけどを負いました。同じくやけどを負って歩くのが困難だった母親を支えながら、戦禍の中を避難しました。 村岡正則さん: 「とにかくけがをした人、人を探す人、ほんとパニック状態です。ほんとにこれは地獄だなと思いましたね」 その少年に会ったのは、まさにその最中でした。 村岡正則さん: 「一歳くらいの子どもをおぶった少年がやってきたんですね。『何ばしよっとね』と聞いたら、『かあちゃんば、さがしよると。かあちゃんばおらんとさ』というので『かあちゃんもあんたをさがしよるかもしれんよ。早く、もう一回家ばさがしてみらんね?』と私が聞くと、『うん』と言いましたね」 村岡正則さん: 「あの少年だと直感しましたね。あのときのままですよね。私は年取っとるけれども、私の見たこの少年はそのときのまま、写真は年を取らないから、そのまま

                          お母さんに会えたのかい 原爆の地に立つ少年|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                        • フォトグラメトリーで戦跡を記録~戦争の記憶を次世代に~ | NHK | WEB特集

                          世界的に知られる青く透き通った海に、多様な生き物が生息する小笠原諸島。 世界自然遺産に登録されていますが、実は美しい自然のかたわらには、旧日本軍の船やゼロ戦など戦争の記憶を伝える「戦跡」が至る所に残されています。 しかし、その多くは長年の風雨で激しく劣化し、朽ち果てようとしています。 今回、NHKの潜水取材班は、これらの戦跡を撮影し、その映像をもとに3次元のCGモデルを作成するフォトグラメトリーという手法で、後世に残す取り組みを始めました。 ※実際に操作できる3Dモデルは記事の途中にあります。 (映像センターカメラマン 横山真也) 私たちがまず向かったのは、兄島から1キロほど沖合の海の中、一面真っ青な水の世界です。 水中カメラを持って、水深40メートル近くまで潜ると、その先に、海底に沈んでいる巨大な船が姿を現しました。 船体は大きく破損し、船内には爆弾などが残されていました。 物資を運ぶた

                            フォトグラメトリーで戦跡を記録~戦争の記憶を次世代に~ | NHK | WEB特集
                          • 首里城地下に残る司令部壕、公開求める声高まる 住民の命運を決めた戦跡 | 毎日新聞

                            報道陣に公開された旧日本陸軍第32軍の司令部壕。朽ちたヘルメットや銃身が残されていた=那覇市で(代表撮影) 太平洋戦争末期の沖縄戦で首里城(那覇市)地下に掘られた旧日本陸軍第32軍の司令部壕(ごう)について、公開を求める声が高まっている。沖縄戦では米軍の猛攻を受けた日本軍が沖縄本島南部に撤退して持久戦を展開したため、住民の犠牲が拡大した。壕は住民の命運を決定づけた重要な戦跡。管理する沖縄県は「安全面から公開は困難」としてきたが、昨年の首里城火災を契機に高まった世論を受け、有識者委員会で公開の可否を改めて検討する。 暗く狭い壕の底を湧き水が流れる。通路脇の小部屋にさびた鉄かぶとや銃身が残り、当時設けられたトロッコのレールの枕木も確認できる。戦後75年の2020年6月30日、報道各社を代表してNHKが司令部壕の内部を撮影した。公開は09年以来、11年ぶり。壁や天井には崩落の跡が見られ、入り口か

                              首里城地下に残る司令部壕、公開求める声高まる 住民の命運を決めた戦跡 | 毎日新聞
                            • 千葉県館山市の戦跡巡り - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)

                              千葉県館山市。 房総半島の先、東京湾の入り口にある館山市は、その地理的条件から 太平洋戦争関係の史跡が複数残っています。 ①掩体壕 太平洋戦争中にゼロ戦などの戦闘機を収納した掩体壕が、今もそのままの姿で残っています。 ②海軍「震洋」出撃基地跡 館山市波左間の海岸には、太平洋戦争末期に造られた 海軍の特攻兵器「震洋」の出撃基地の跡地があります。 ③防空壕 空襲の時に市民が隠れた防空壕も見ることができます。 ④地下壕 館山海軍航空隊が作った地下壕も残っていて、 中に入ることができます。 上記の4か所は、千葉県館山市にある主要な戦争関係遺跡です。 おっさんはレンタカーを借りて1日で回りました。 どこかに出歩こうと考えている方、 是非「館山戦跡を巡るプラン」をどうぞ。

                                千葉県館山市の戦跡巡り - 日刊  おっさんの人生これから大逆転だぜえ!(日本史+史跡+旅情報)
                              • 国のため隠された沈没 対馬丸75年の空白|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                                国のため隠された沈没 対馬丸75年の 空白(2019年8月22日 沖縄局 松下温記者) 太平洋戦争中の昭和19年、沖縄から疎開する学童らを乗せて九州に向かっていた「対馬丸」が、アメリカ軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没。800人近い子どもを含む多くの犠牲者が出ました。 国は当時、この事実を明らかにせず、対馬丸の悲劇から75年がたつ今も、遺族は真実を追い求めています。

                                  国のため隠された沈没 対馬丸75年の空白|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                                • 旧日本軍戦跡「登別(富浦)特攻舟艇基地跡」8月北海道室蘭・登別温泉⑧ - 早期リタイア・アウトドア旅行&日常備忘録「還暦プラス」

                                  あの世の入口、アフンルパロから、 旧日本軍戦跡「登別(富浦)特攻舟艇基地跡」に向かった。 第二次世界大戦時、日本へ上陸する敵の艦隊めがけ、 小舟に爆弾を積んで体当たり「特攻舟艇」があったそうだ。 歳の離れた 会った事がない 叔父2名は、 特攻隊 ゼロ戦で 突っ込んで戦死した訳だが、 それの船バージョンがあった事を 始めて知った。 父は「小学校を出たら国の為に死ぬ」と先生から教わった時代、 私が生まれる 僅か10数年前の 日本にあった事実、 若手に言うと「え!」ってなるが 今は幸せな時代だ。 調べて行くと 特攻舟艇基地は日本各地にあるようで、 それを探して行く旅も興味深い。 JR登別駅から、アフンルパロと特攻舟艇基地跡を歩いても6㎞程度。 道南バスも走っているようですが、日に数便です。 ここも スマホとグーグルマップが無ければ、 知る事も行く事も、出来なかったで あろう場所。 足場は相当に悪

                                    旧日本軍戦跡「登別(富浦)特攻舟艇基地跡」8月北海道室蘭・登別温泉⑧ - 早期リタイア・アウトドア旅行&日常備忘録「還暦プラス」
                                  • 新城市湯谷温泉駅そばの温泉宿に一泊して長篠戦跡などを見てきた(その2) - 🍉しいたげられたしいたけ

                                    2日目は、見て回るのは午前中くらいにして、早めに実家に戻ろうと決めていた。 GoToキャンペーンで貰った地域共通クーポン券を使い切らなきゃいけないし、私はそれからさらに帰宅しなきゃならない。GoToクーポン券の有効期間は2日間しかないのだ。 クーポン券について先に書いてしまうと、検索したら実家そばの食品スーパーで使えることがわかった。新米とシャインマスカットと、いろいろ食品を買ったら、きれいに使い切ってしまった。 宿のベランダから見た朝の眺望。向かって右手が宇連川の上流である。正面に見える山は鳳来山だろうか? 道々よく目立つ、子どもが緑色のクレヨンで描くような三角形をした山である。 上の写真の左側、下流方面。もう少し左を見ると川の中に天然記念物の馬背岩というのが見えるはずだが、ギリギリ見えない。残念! 目次 大島ダムと朝霧湖 百間滝 阿寺の七滝 鮎滝 馬場信房の塚 大島ダムと朝霧湖 ガイド

                                      新城市湯谷温泉駅そばの温泉宿に一泊して長篠戦跡などを見てきた(その2) - 🍉しいたげられたしいたけ
                                    • 「究極の特攻機」の設計者 初代新幹線に込めた願いとは|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                                      「究極の特攻機」の設計者 初代新幹線に込めた願いとは(2019/5/29 大分局 大室奈津美記者) 戦後日本の経済成長を支え、今も旅行や出張などに欠かせない新幹線。 その技術のルーツが「人間爆弾」と呼ばれた戦時中の特攻機にあることをご存じでしょうか。 愚かな兵器の開発に加担したことを悔い、戦後鉄道の開発に尽力しながら平和を追求した、1人の技術者の心の軌跡をたどりました。

                                        「究極の特攻機」の設計者 初代新幹線に込めた願いとは|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                                      • 79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                                        79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん(2022/2/2 北見局記者 徳田亮祐) 「ああ、兄ちゃんが帰ってきた」 ぼろぼろに破れて色あせた日章旗を受け取った時の気持ちを女性はそう語りました。 令和3年(2021年)11月、アメリカから北海道北見市に住む女性のもとに、突然、日章旗が届きました。79年前、太平洋戦争の激戦地ガダルカナル島で23歳の若さで戦死した兄が持っていたものでした。 日章旗を「兄ちゃん」と呼んだ女性は、戦後をどのように過ごしてきたのだろう。 そして、なぜ、旗はアメリカから突然返還されたのだろう。 多くの疑問を解くため、「79年ぶりの兄の帰還」の取材を始めました。

                                          79年ぶりに帰ってきた兄ちゃん|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                                        • 101歳 レイテ戦の生き残り 体験を手記に|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                                          101歳 レイテ戦の生き残り 体験を手記に(2022/8/14 映像センター カメラマン 早川きよ) フィリピン群島のほぼ中央に位置するレイテ島。リゾート地として知られるセブ島から高速船で2時間半、観光地化されていない静かな島です。 太平洋戦争末期、当時日本が占領していたこの島にアメリカ軍が上陸して激戦地となりました。 アメリカ軍との壮絶な戦いと飢餓で、大半の将兵が命を落としたと言われています。 この戦場から生還した松本實さんは、101歳になった今、レイテ戦での体験を書き続けています。松本さんが伝え、残したい記憶とは。 1944年(昭和19年)10月、日本軍は敗勢を盛り返そうとレイテ島を決戦場に選び、当時の小磯國昭首相はレイテ島の戦いを「日米の雌雄を決する天王山」と位置づけました。 日本軍は急きょ、陸軍の精鋭部隊の第1師団1万3000人を派遣、松本さんも師団副官(師団長の秘書役)としてレイ

                                            101歳 レイテ戦の生き残り 体験を手記に|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
                                          • 横須賀海軍工廠汐入壕 - とある戦跡と自衛隊

                                            とある戦跡と自衛隊 基本、個人の記録用であります。 細かい事は気にしないので、間違い等要スルー!京都放浪記も戦跡に関係無く掲載してます。 JR横須賀駅周辺を紹介したので、今度は少し内陸の京急汐入駅付近を紹介する 汐入駅の前の道を坂本中学の方に登って行く手前にあるレンガ造りの遺構がある(あった?) 解体されたとの話も聞く、グーグルのストリートビューではまだ健在だ 汐入駅前から路地裏の道を山肌に沿い、横浜方面に歩くと、16号線に出るまでの間に多くの壕口がある 16号をトンネル手前まで行くとタクシーの車庫があり、防空壕を2つ繫げて掘り広げて使用している 便所の遺構らしいが、こんな道沿いに便所?違う気がする 陸軍のちこく坂に繋がる道にある 汐入駅前の壕口郡、東京ガスにて使用中の物 ほとんどが施錠、もしくは埋め戻しされているので写真のみ載せる この辺から、壕が小さく素掘りになる 入れそうな壕があった

                                            • 海底に眠るUボート 終戦直後の「禁断の出撃」|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|

                                              海底に眠るUボート 終戦直後の「禁断の出撃」(2018年8月6日 福井局 影山遥平記者) 京都府舞鶴市沖の海底でことし6月、72年ぶりに姿が確認された戦跡があります。旧日本軍の潜水艦「呂500」、別名「Uボート」です。 同盟国だったドイツから譲渡されたもので、戦後GHQによって海に沈められました。しかし取材を進めると「呂500」は、終戦後、意外な行動をとっていたことがわかりました。当時の混乱の中で、何が起きたのか。

                                                海底に眠るUボート 終戦直後の「禁断の出撃」|戦跡 薄れる戦争の記憶 NHK|
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