すきえんてぃあ@書け @cicada3301_kig 着ぐるみ生命体/トランスヒューマニスト/コピミズム/言語/謎エスニック料理/リキュール/主なるねこかわの御名において にゃーん twitter.com/search?q=%E6%9…
ご機嫌はいかがでしょうか。今日はわたくしが思う最近の邪馬台国でありがちなこと8選を書いていこうと思います。 1渡来人来がち!渡来人がとっても来てます! すごいです! 漢国(カラクニ)のまつりごとがずっと不安定で、昔から来てたみたいですけど最近ほんとに多いです。漢のような大きな国はもう興らないのでしょうか。 渡来人の人はいろいろな技を持っています。鍛冶だったり陶芸だったり機織りだったり。我が下女(はしため)たちの機織りも最新の技を学ばせています。 漢ってほんとすごい国だったんですね。漢a.k.a.KAMIって感じです! でも問題がいろいろあります。移住者が多く、かつ彼らに頼る部分も多いですので、もともと我が国に由来のある者の中でネトウヨみたくなってる人がいます。また、早くから邪馬台国や他のクニにきた渡来人の子孫、すなわち在日漢国人の2世や3世と最近きた人とも文化に違いがあったりしてまつりごと
Diego Delgado@Durandal FF14 @DiegoDelgadoDur 邪馬台国の卑弥呼は低気圧で体やられる人だったという説があり、 「アカンわらわ超しんどい無理これは雨来る皆のもの雨来るぞ恵み来たるぞ」 って言ってるうちに「卑弥呼マジ神」ってなったらしいので、低気圧にやられる人は「ああ…この身に流れる旧き巫女の血が…」って思って欲しい(※一説です) Diego Delgado@Durandal FF14 @DiegoDelgadoDur ちなみに卑弥呼は最近の学説では少なくとも80位まで生きていたのではないかとされている この時代にその年まで生きれたってことは、ある程度は最期までみんなに大切にされていたんだろね みんなもちゃんと体いたわれ 下手な民間療法より深く考えずに医者に行け 大切にされろ なるたけ健やかに生きろ Diego Delgado@Durandal FF1
新潟県立歴史博物館 @koryu13 新潟県立歴史博物館の公式アカウント 「じょうもんじゃもん」の二人がイベント情報などを楽しく発信します。 元気一杯の「かえんどきクン」としっかり者の「おうかんクン」をよろしくお願いします。 開館時間 9:30~17:00 /休館日 月曜(月曜が祝休日の場合は翌日) ※返信はしておりません。質問は博物館へお願いします。 https://t.co/dU3UsQXRV5 新潟県立歴史博物館 @koryu13 【拡散希望】 うちの何でも知ってる学芸員(考古学)を ギャフンと言わせたい そこで日常のこんなところに火焔土器が! と、いう情報を募集します 大抵のことは知ってると豪語してますが、ゼ〇ダのボスとかチキンラ〇メンとか最近のサブカルが弱点? 見つけた方は #火焔土器見つけた で投稿してね pic.twitter.com/dsGmHBXosT 2020-10-1
纒向遺跡の大型建物跡(手前)。奥は箸墓古墳=奈良県桜井市で2018年5月14日午前11時13分、本社ヘリから三村政司撮影 中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する邪馬台国は、女王卑弥呼(ひみこ)の存在とともに多くの歴史ファンを魅了してきた。しかし、「邪馬台国がどこにあったのか」という最大の謎については、江戸時代以来、論争が続く。大きくは九州説と近畿(畿内)説の二つに分かれる中、近年になって相次いでいるのが九州説を唱える書籍の出版だ。考古学界では近畿説が圧倒的優位に立つ中、なぜ九州説の「逆襲」ともいえる状況が生まれているのか。【西部学芸グループ・上村里花】 「『九州説ですか』と聞かれた時は『7割は九州説、3割が近畿説』と答えている」。昨年12月に「続・邪馬台国論争の新視点」(雄山閣)を出版した福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さん(考古学)は、邪馬台国の所在地につ
九州か、近畿か? 邪馬台国の所在地をめぐる論争はどの説も決め手を欠き、 いつ終わるとも知れない。そのなかで、中国使節団の邪馬台国への行程が記さ れた『魏志倭人伝』の重要性は、やはり見過ごせない。 これまで歴史学的なアプローチしかされてこなかったこの史料を、船舶設計の プロとしてさまざまな歴史の謎を科学で読み解いた『日本史サイエンス〈弐〉』の著者・播田安弘氏はどう読み解くのか? そこから見えてきた邪馬台国への最も合理的なルートとは? 世界最初の日本についての記録 邪馬台国がどこにあったかという議論で必ず俎上にのぼる史料が『魏志倭人伝』です。それは日本にまだ文字がなかった3世紀末ごろに、日本について世界で初めて記された書物で、魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が覇を競った三国時代の中国についての史書『三国志』のうちの『魏書』の一部です。書いたのは三国を統一した晋の文官の、陳寿という人です。 『魏志倭
邪馬台国は別府温泉の火山灰に埋もれている⁉ この夏に、「邪馬台国は別府温泉だった!火山灰に封印された卑弥呼の王宮」という1冊の本が出版されました。 著者の酒井正士さん(64歳)は東京都出身で、東京大学農学部という高学歴の持ち主です。 経歴は、ヤクルト本社に勤務して脳機能改善や老化予防のための医薬品・食品開発などを手掛けてきました。 また、「全国邪馬台国連絡協議会」の会員で独自の研究を進めておられる方です。 酒井さんは、魏志倭人伝に残された「距離と方向」に関する記述に注目したそうです。 多くの学説は、古代中国の使節が日本に上陸した「末廬国」(まつろこく)を現在の松浦地方(唐津市)としているみたいです。 また、中国の使節の行程記録にある伊都国(いとこく)は糸島市とする説が多く、九州説や畿内説の基になっています。 しかし、魏志倭人伝には伊都国は末廬国の南東に位置するとの記載があり、2つの都市の実
こんにちは。コーノヒロです。今回は、前回に続き、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)に抵抗した、狗奴国(くなこく)の王・卑弥弓呼(ひみここ)の正体について探っていきます。どうぞお楽しみにください。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。 コンテンツ制作責任者 おとぼけ(田畑 雄貴) PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテ
邪馬台国はどこにあったのか――。古くから続けられてきた論争に決着が付かない理由は、『魏志』倭人伝に記された地理的情報にこだわっていたからだと、歴史学者・桃崎有一郎氏は指摘する。そして、あることに注目すると結論が見えてくるという。 ◆◆◆ いわゆる邪馬台国論争(邪馬台国はどこにあったのか、という議論)は、詰んでいる。 当時は文字があまり普及していなかったので、「ここが邪馬台国だ」と書かれた遺物が出土する可能性は期待できない。遺跡や遺物は、複数の解釈を許すものしか出土せず、最後は文献の裏づけを援用しなければならない。 ところが、その文献史料での議論が詰んでいる。3世紀に成立した根本史料の『魏志』倭人伝には、「どこから、どちらへ、どれだけ進めば邪馬台国へ着く」という行程記事が明記されている。その通りに進めば邪馬台国に着くはずなのだが、着かない。現在の地理や、後代の遺存地名や、ルートの合理性などを
邪馬台国っていったいどこにあったんでしょう... すまきとすまりんは 実は北九州説を信じています... 今回はすまきに手伝ってもらって かなり気合を入れて作成しました! 少々長い記事になりますので 興味がおありの方はお時間のある時にゆるりと読んで下されば嬉しいです(^_-)-☆ ①吉野ヶ里遺跡 ②女山神籠石(ぞやま こうごいし) ③権現塚 ④蜘蛛塚 ⑤石人山古墳 ⑥岩戸山古墳 ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 最初に訪れたのはすまりんたちの教科書では見かけなかった有名な遺跡... だって あのころは弥生の遺跡と言えば登呂遺跡でしたから(笑) ①吉野ヶ里遺跡 レストラン・売店もある立派なメインゲートを通って遺跡に向かいます... 開園時間:9:00~17:00 1月の第3月曜とその翌日および12/31のみ休園 入園料:大人460円・中学生以下は無料 吉野ヶ里遺跡は 約117haにわたっ
古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。 「邪馬台国と卑弥呼には近づくな」。考古学の道に進んだ昭和50年代、上司や先輩から厳しく言われた。遺物や遺跡をもとに歴史像を組み立てるのが考古学。魏志倭人伝という文献中心の邪馬台国論争については「口にすることもできなかった」。 卑弥呼は、景初3(239)年に中国・魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印を授かったと魏志倭人伝は記す
前回までは2回に渡り、邪馬台国の重臣の難升米(ナシメ)の謎について迫りました。今回からは、邪馬台国滅亡から大和朝廷成立までの古代日本史の空白時代に焦点をあて、深く掘り下げていきたいと思います。お楽しみください。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。 コンテンツ制作責任者 おとぼけ(田畑 雄貴) PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してイン
以前の記事で、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)政権の時代は、倭国は分裂し、倭国大乱は続いていたかもしれないとお話しましたね。今回は、その根拠について、お話していきます。どうぞお付き合いください。邪馬台国の前身の国が、出雲王国(いずもおうこく)で、その領土を丸々受け継いだという話なら、西日本と、東海、北陸から信州までの東日本が、邪馬台国の領土、否、より正確に言えば、邪馬台国広域連合の領土として獲得していたはずです。 しかし、 邪馬台国(やまたいこく) 諸国連合 (西軍) VS 狗奴国 (くなこく)(東軍)と、他諸勢力の同盟 という構図だったのなら、倭国大乱 は継続したのか?!と当然考えられる訳です。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャン
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、歴史人「古代史研究最前線」!卑弥呼は誰?邪馬台国はどこにあった?です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2023年10月号でとりあげるのは、日本という国のカタチをつくり上げた時代…古代史です。 特集名は、「古代史研究最前線」。 「令和の定説はコレだ!」と関する保存版特集です。 歴史人2023年10月号 表紙には、古代史にまつわる多くの「なぜ?」が記されています。 聖徳太子のなぜ?「古事記」と「日本書紀」のなぜ?卑弥呼の正体が判明?天皇陵のなぜ?邪馬台国の畿内説と九州説がついに決着?などなど。 どれもこれも興味を引かれる「なぜ?」ですよね…。 頁をめくると誌面
こんにちは。コーノヒロです。 今回は「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」のお話です。 三種の神器とは、古来、日本で、天皇即位のために必要な神器として伝わっていますね。前回のお話では、邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)政権の幹部三人の役割を表象化したものが、三種の神器となったのではないかとの推測をお話しました。 しかし、そこでの疑問点として、自然に浮ぶのが、神器の一つの「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」の象徴についてです。 邪馬台国の卑弥呼政権の幹部が三種の神器の象徴であったなら 卑弥呼(ひみこ)=鏡 ツクヨミ=勾玉 難升米(なしめ)=剣 です。 しかし、古来、いつからか、 剣=スサノオの組み合わせとして伝わっているのではないでしょうか? なぜでしょうか? スサノオは、邪馬台国と敵対した狗奴国の当主であり、邪馬台国が滅亡に追いやった古代出雲王国(以降、「出雲王国」と記載。)の創始者
こんにちは。日本古代史ライターのコーノヒロです。前回は、邪馬台国(やまたいこく)のラストエンペラーのニギハヤヒノミコトが、邪馬台国以前の古代日本において、最も繁栄していたと言われる「出雲王国(いずもおうこく)」の王族の直系の子孫かもしれないことが分かったお話でした。今回はその観点で、ニギハヤヒの野望を再考し、さらに出雲王国の生き残りが、邪馬台国だけでなく大和朝廷にもいかに影響を与えたかについて、もう少し深く探っていきたいと思います。 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリ
国指定特別史跡・吉野ケ里遺跡(神埼市郡)の北墳丘墓西側にある「謎のエリア」で4月に見つかった石ぶたに関して、佐賀県は29日、板石を組み合わせた石棺墓(せっかんぼ)だったことが分かり、邪馬台国があったとされる2世紀後半~3世紀中頃につくられた可能性が高いと発表した。墓の規模や形状などから推定、県では有力者の墓ではないかとみている。これまでに吉野ケ里最盛期となる邪馬台国時代の有力者の墓は見つかっておらず、最大の謎とされてきた。県は6月5日に石ぶたを開けて調査する。 邪馬台国時代は弥生時代後期~終末期で、吉野ケ里では南内郭や北内郭が設けられた集落の最盛期として知られている。この時代の王たちの墓はまだ見つかっていない。 県によると、墓を据える穴「墓坑(ぼこう)」の規模が3・2メートル×1・7メートルと、これまで吉野ケ里で見つかった石棺墓18基の中で最大だったという。最新の調査では石ぶたが4枚見つか
こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回の記事は『第8代孝元天皇の妹が邪馬台国の卑弥呼で、弟が桃太郎だった!』のお話です。 本当に第8代孝元(こうげん)天皇の妹が卑弥呼で、弟が桃太郎だったのでしょうか? 孝元天皇は統治王で、卑弥呼が祭祀王だったので、当時の日本は統治王よりも祭祀王の方が位が上だったので、卑弥呼が日本で一番偉い存在だったのです。 だから魏(ぎ)の国(当時の中国)では、歴史書である三国志(さんごくし)・魏書(ぎしょ)・第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん )・倭人条(わじんのじょう)(通称、魏志倭人伝(ぎしわじんでん))で、卑弥呼が女王だと言っていたのです。 そして第5代孝昭天皇・第6代孝安天皇・第7代孝霊天皇・第8代孝元天皇の時期に大和王権は吉備の国(今の岡山県あたり)と戦争をしていたのです。これが魏志倭人伝でいう倭国大乱ということです。 倭
古代史最大の謎といわれる邪馬台国(やまたいこく)論争。畿内か九州か。魏志倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼(ひみこ)の都はどこに-。江戸時代の朱子学者・新井白石(あらい・はくせき)以来300年以上にわたって議論されながら、決着していない。畿内説の有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の研究・情報発信に取り組むのが同市纒向学研究センターだ。寺沢薫所長(72)は今春「卑弥呼とヤマト王権」(中公選書)を刊行。「邪馬台国論争に一つの区切りをつけたい」との思いだった。 【写真】箸墓古墳の発掘現場で研究者らに説明する寺沢さん=平成7年 「邪馬台国と卑弥呼には近づくな」。考古学の道に進んだ昭和50年代、上司や先輩から厳しく言われた。遺物や遺跡をもとに歴史像を組み立てるのが考古学。魏志倭人伝という文献中心の邪馬台国論争については「口にすることもできなかった」。 卑弥呼は、景初3(239)年に中国
邪馬台国の時代の生贄、持衰古代船野性号、角川春樹はこれを製造して実際に航海をし、古の人々がどうやって航海していたのかを実証しようとした / credit:Amazon弥生時代の日本は航海技術が未熟だったということもあり、海を渡って中国王朝に挨拶に行くのも命がけでした。 それ故邪馬台国の人々は、持衰という生贄に近い存在の役職をもうけて、航海成功の祈願をしたのです。 下記の通り、魏志倭人伝にも持衰について取り上げられています。 其行來渡海詣中國 恒使一人 不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之 謂其持衰不謹 (倭国の人間が海を渡って中国王朝に挨拶に行くときは、使者の中の一人を髪の毛を整えず、シラミがわいても取らず、服は汚れて垢まみれになっても着替えず、肉は食べず、女性を近づけず、まるで喪に服しているようにする。
こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回は『【卑弥呼】が住んでいた「邪馬台国」と、魏志倭人伝で記されている「女王国」は別物なのか?歴史書から紐解く』について解説させていただきたいと思います。 【目 次】 タップできます 邪馬台国と女王国は別物 2つある中国から授かった金印でわかる 倭国連合は28国?投馬国は天皇の聖地では? まとめ 邪馬台国と女王国は別物 筆者は最近まで邪馬台国=女王国なのだという認識をしていました。しかし最近思うには、卑弥呼が住んでいた邪馬台国=魏志倭人伝の中に出てくる女王国ではないのでは?と思ってしまいます。どういうことかというと、女王国は邪馬台国のことだけを指しているわけではないのではということです。 それでは魏志倭人伝に出てくる女王国とは、いったいどこの国のことを指しているでしょうか?その答えは倭国です。30の小国が連合された邪馬台国を含めた倭国連
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、歴史人「古代史の謎」邪馬台国は九州か畿内か?卑弥呼の正体は?です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか? ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2022年4月号の特集は、最新研究でここまでわかった!「古代史の謎」です。 歴史人2022年4月号 狩猟採取の縄文時代から、稲作農耕の弥生時代へ。 その過程で生まれた小国は戦争を繰り返して淘汰され、邪馬台国という小国連合を経て、統一国家・ヤマト政権が生まれた…。 私たちが歴史で学ぶ古代は、基本的にはそうした変遷となります。 ただ、この時期の特徴は、国内における文献資料が皆無ということ。縄文・弥生はもちろん、古墳時代の記録も存在しません。 この時代を知る手掛かり
邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か」と話題を集め、畿内説が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。 東京のような大都市だった46年当初から調査を担当したのが、同県立橿原考古学研究所元副所長の石野博信さん(87)。現場で着目したのが、大量に見つかったつぼや甕(かめ)など煮炊きや貯蔵用の日常の土器だった。一見すると同じような形だが、装飾などが奈良県内のものと少しずつ違っていた。
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、「歴史人」2020年4月号、「日本史の謎100」です。 ■歴史人 いつも歴史ファンにたまらない情報を届けてくれる「歴史人」。 2020年4月号の目玉は、歴史好きの好奇心をかき立てる特集です。 「日本史の謎100」。 サブタイトルは「古代から幕末維新まで、歴史の最新論点はコレだ」。 歴史人 2020年4月号 歴史を甘く見てはいけません…。 新しい史料の解析や研究が進み、これまでの定説が覆されたりしてるんです。 学校で習った歴史はもう古い。 史料の中だけに潜む歴史の真実を解き明かす、「歴史人」の総力特集。 古代、中世、戦国、江戸、幕末の5つの時代から、「日本史の謎100」を取り揃えています。 今日は、そんな「日本史の謎100」の中から、個人的に興味を引かれた謎をとり上げます。 ■邪馬台国はどこにあったのか まずは「古代」から
あなたは古代の富士山の北麓で栄えた富士高天原王朝(ふじたかまがはらおうちょう)のことをご存じでしょうか?富士王朝とは大和王権の祖と言われています。要するに今の天皇陛下の祖なのです。 こんにちは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回は7月24日以来45日ぶりの投稿で『日本の歴史は富士王朝から始まった!邪馬台国の卑弥呼はなぜ歴史から隠されたのか?すべてを暴きます!』について解説させていただきたいと思います。この記事で通算600記事目の節目になりますパチパチパチ! あくまでも筆者の独断と偏見で書いているので、一説のエンターテイメントとして楽しんでいただけたらうれしいです。 【目 次】 タップできます 大和王権の祖が富士王朝であった! なぜ富士王朝はウガヤフキアエズ王朝に変わったのか? なぜ神武天皇は東征したのか? 卑弥呼が生きていた時代の天皇は誰?卑弥呼はなぜ記紀の歴史に出てこなかった
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三内丸山遺跡(青森県)は、ピラミッドと同時代の約5000年前につくられたが、文字による記録が残っていないために、世界的な評価は高いとは言えない photo by TOSHIBO 世界で最も古い文明といえば、メソポタミア、エジプト、インダス、中国にそれぞれ発達したいわゆる「世界四大文明」とされています。たとえばエジプト文明では、約4500年前にクフ王のピラミッドが建造され、約3300年前にツタンカーメンが驚嘆すべきすばらしい美術品を遺しています。 日本にもピラミッドと同時代の約5000年前には、三内丸山遺跡(青森県)と呼ばれている大規模な集落がつくられていますが、文字による記録が残っていないために、世界的には評価されていません。 翡翠を加工する高度な技術をもち、大陸との交流があったにもかかわらず、日本に文字がなかったのは不思議な気もしますが、世界の東の端の島国であるため文明の到達が遅かったと
「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか 仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。 仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。 こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。 高校の日本史教科書は、「地球に原始人が出てきて、外国には文明があり、日本は縄文時代の後に弥生時代があって、ムラからクニに大きくなる過程で、王様が中華皇帝に使いを出して……」と始めます。 確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史
*昨夜の地震はビックリでした! 本棚は崩れ重い家具も倒れはしませんでしたが、かなり動いていました。でも配偶者共々無事で、配偶者は揺れながら電子レンジが棚から落ちないようにと必死に抑えていました(^^) 被害に遭われた方をお見舞い申し上げます。 邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫) [ 鯨統一郎 ] 価格: 726 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 1 「悟りを開いたのはいつですか?」 ブッダは悟りを開いていなかったのではないか。そして何故修行を始めたのかを説明する。 2 「邪馬台国はどこですか?」 邪馬台国は東北の岩手にあり。また大和朝廷が成立した原因についても考察する。 3 「聖徳太子はだれですか?」 聖徳太子は架空で、推古天皇と同一人物とする。また当時有力者の蘇我氏についても言及する。 4 「謀叛の動機はなんですか?」 本能寺の変の真相についての考察。明智光秀の立場は大河ドラマ「麒
日本史で最大のミステリーと言われている邪馬台国の女王である卑弥呼の歴史とはいったいどうなっていたのでしょう。 こんばんは!たかぼんブログドットコムのたかぼんです。 今回は『【邪馬台国】はここにあった!女王の【卑弥呼】が暮らしてきた場所とはどんなところ?』について解説させていただきたいと思います。 【目 次】 タップできます 女王国とは北部九州全域の「倭国連合」だった! 畿内説はありえない 卑弥呼はいったいどこに暮らしていたのでしょう まとめ 女王国とは北部九州全域の「倭国連合」だった! 女王国とは小国の邪馬台国を含めた北部九州全域の「倭国(あるいは邪馬台国)連合」のことで、30国(對馬国・一大国・末廬国・伊都国・奴国・不弥国・他)の小国が連合して成り立った連合国だったのではないかと思われます。 邪馬台国の「邪馬台」は、「やまと」という発音を、魏(中国)が「邪馬台」という当て字にしたもので、
まだ終わってないけど、高難易度もクリアしたし 高難易度無事クリア ぐだぐだ邪馬台国これで完了かな#FGO pic.twitter.com/fBNzDRizpH — べる (@bel729) 2020年10月18日 やることやりつくした感があるのでそろそろ感想でも 久しぶりのレイドイベントからのハンティングクエストが終わり belphegor729.hatenablog.com 次は復刻かなぁと思っていたらまさかの新イベントでしたね ボリューム的にはミニイベントって感じ サクッとできてよかったです まさかの卑弥呼 まさかの邪馬台国 しかしメインは新選組と信勝 相変わらずグダグダしてんなぁw グダグダしつつも新選組の大罪は結成初期の暗部を題材にしたものだから割と重めでした 同じ和鯖敵キャラのおっさんとしては柳生宗矩がいますが、 もともと味方のふりをしていた柳生と比べて最初から敵だった芹沢鴨はか
邪馬台国は畿内にあった? それとも九州? ある日、客員教授をしている多摩大学に出勤すると、職員から「佐賀県の男性から、邪馬台国が大和(奈良県)にあった根拠について河合先生のご高説をお伺いしたい」という電話があったと連絡を受けた。これを聞いて、すぐにピンときた。 その数日前、私が出演したBS-TBSの「諸説あり!」(MC:堀尾正明・吉川美代子)が放映された。「邪馬台国はどこにあったのか」と題して諸説を紹介する内容で、堀尾さんに「河合先生は邪馬台国がどこにあったと思いますか」と尋ねられたとき、「どちらかというと、大和の可能性が高いと考えています」とコメントしたのだ。 佐賀県には、吉野ヶ里遺跡という巨大な弥生時代の遺跡があり、そこを邪馬台国だとする有力な説がある。おそらく電話をしてきた男性は、わざわざ佐賀県の名を出しているほどだから、熱烈な邪馬台国九州説の支持者で、私の発言を腹立たしく思って連絡
6月5日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡には全国からおよそ70人の報道陣がつめかけました。 午前10時。 重さ100キロ以上の石のふたを、重機を使ってゆっくりと持ち上げていきます。 ふたは、弥生時代後期の石でできた墓、石棺墓の一部です。 約1800年近くもの間、棺(ひつぎ)をかたく閉ざしてきました。 ふたの下はどうなっているのか、わずかなスペースに一斉にカメラが向けられました。 ただ、現れたのは大量の土砂でした。 出土したふた、4枚のうち3枚が持ち上げられましたが、いずれも土砂で埋まっていました。精巧につくられた石棺墓であっても、長い年月の間にわずかな隙間から土砂が入り込んでしまうことがあるということです。 しかし、新しい発見もありました。
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