実ツ @Mmi_tsu_mi3 1.ペプシ館 2.リコー館 3.三菱未来館 4.せんい館 5.住友童話館 6.自動車館 7.日立グループ館 8.タカラ・ビューティリオン 9.ガスパビリオン 10.鉄鋼館 実ツ @Mmi_tsu_mi3 11.サントリー館 12.テーマ館 13.生活産業館 14.エスコートガイド 15.クボタ館 16.東芝IHI館 17.ニュージーランド 18.オランダ館 19.日本館 20.アメリカ館 21.ワシントン州 22.イギリス
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♬光る光るトーシバー、まわるまわるトーシバー 50年前、日本には松下(現パナソニック)、東芝、日立、三菱、三洋、シャープの6大家電メーカーがありまして、 まとめて「松・東・日・三・三・シ、まっとうひさんさんし」なんて業界用語もありました。 EXPO70にはシャープ以外の5社が単独またはグループでパビリオンを出展しました。 東芝もグループで出展し、当時は子どもには「サザエさん(TVアニメ)1969年スタート」、大人には「東芝日曜劇場」のスポンサー企業として、番組冒頭に流れるテーマソングとともによく知られていました。 万博の頃は、新聞で四コマ漫画『サザエさん』も連載中で、紹介する新聞広告の磯野一家のセリフ(ふきだし)の字は、作者・長谷川町子さんの読みやすく、特徴のある直筆体。 東芝IHI館 新聞広告 東芝IHI館 新聞広告 磯野フネ(サザエさんのお母さん)が和装(着物)で万博会場に登場していま
彼らは『明治』という時代人の特質で、前をのみ見つめながら歩く。上って行く坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上って行くであろう。 司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の始まりの有名な一節。 太陽の塔 右肩上がりの時代 時代は下って昭和、1964年の東京オリンピック、大阪万博を始まりとして、社会全体が高揚した雰囲気の中、高度経済成長期に突入します。 万博開幕前後の新聞広告から、その雰囲気が伝わるでしょうか。 グングン増える (みずほ銀行の前身の一つ)日本興行銀行の5年積立貯金の金利。 年利7.638%!例えば5年貯蓄で元金100万円が140万円(1.4倍)以上になります! 次に三菱UFJ銀行になった東洋信託銀行。元金がグングン成長します。 「年7分4厘7毛」とは年利7.47%のこと。 これ、大空を飛び始めたジャンボジェット(ボーイング747)をも
カクカクデザインがたくさん、の日常 東京オリンピックで大量生産・大量消費の時代が始まり、EXPO70(大阪万博)の頃には、買いたいものは、たいてい何でも手に入るようになりました。 量産指向でデザインは二の次。身のまわりにはカクカクしたデザインの製品があふれていました。 鉛筆けずりが懸賞で当たる鉛筆の新聞宣伝(牧伸二) 最新型エアコンの宣伝(万博マップ) コダックといえば当時のアメリカンブランドの代表格。万博にあわせてパビリオンを出展し、ワンタッチでフィルムが取り換えできるインスタントカメラを発売したんですね。(デジカメ時代の流れに取り残され、2012年に一度、破産しています。ライバルだった富士フィルムは事業転換に成功して生き残り、今や健康医療分野で大チャンスを掴みつつありますね) コダック・インスタント・カメラのカクカクしたデザイン 開幕前日の新聞広告 松下館のパンフレットから 家具調テレ
目が光る太陽の塔 後にも先にも、日本のイベント史で最大のものはEXPO70、大阪万博(正式名称:日本万国博覧会)でしょう。 1970年3月14日から9月13日までの半年間(183日)の会期期間に6,400万人。計算では1日平均35万人の入場者を大阪千里の会場に集めました。 会期終盤に60万人以上の人出で大混雑で親に反対され、行くのを断念した記憶があります。 (なおこの入場者数は、最高を記録した2019年度(一年間)の、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーの2パーク合計の入場者数(3250万人)一日平均約9万人の4倍の過密さです) 今から考えると、当時の設備や技術で、大混雑が続くなか、よくぞ重大事故を起こさなかったものだと驚きを禁じ得ません。 とはいうものの、会場内では、それなりに事件・事故がありましたので、少しだけ紹介します。 太陽の塔・アイジャック事件(4月26日~5月3日) 赤軍派
アメリカン・ファーストフードという黒船の来航 マクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、ミスタードーナッツ・・・ いずれも日本第一号店のオープンは大阪万博翌年の1971年。 それには理由があります。 万博会場には、各国政府館(パビリオン)のレストランのほか、飲食施設がありました。 中でも、アメリカン・パーク(コカコーラ館)やペプシ館(エキスポランド、遊園地)で提供されるアメリカンスナックは、混雑する会場で手軽に短時間で食べられること、何よりも、すきっ腹にガツンと来るおいしさのインパクトは大きく、この(会場での家族)体験が、日本のファーストフード業界の普及と発展の基礎になりました。 左:アメリカン・パーク、中:ペプシ館どちらも万博協会HPより しかし、私は一人で会場に何度も足を運ぶ万博坊主だったのですが、母親から『あんなもんは高いし体に悪いから食べるな』と、爆弾おにぎり2個と水筒の麦茶を持た
太陽の塔と岡本太郎 近代建築の大屋根をノビノビ・ヒロビロと突き抜ける 祭りの魅力 岡本太郎 (全文、昭和45年3月8日、毎日新聞掲載) 祭りもいよいよ目前だ。すべてのパビリオンが装いをこらして、幕あきを待つ。こころよい緊迫感が千里の会場全体にみなぎっている。 私がはじめてテーマ展示プロデューサーを引き受けたころ、いったい万国博とはどんなものなのか、みんなが手さぐりの状態だったし、二年やそこらで出来るだろうかという懐疑的な気分が大勢を占めていた。 それにもまして、当事者がいちばん気にしていたのは、外国人に見られて恥ずかしくないもの、世界に対してみっともなくないものが出来るだろうか、という心配。モントリオールに負けるな、とコチンコチンになっているように見えた。 私はそんな考えには大反対だ。だから公言した。及第点をとろうとアクセクするなんて卑しい。失敗した方がいいんだ。そのくらいの気構えで、ベラ
万博発掘シリーズ2回目。 未来都市感たっぷりのEXPO70会場を、華やかに彩ったのが、総勢3000名のコンパニオンのおねえ様方。 当時、私は中1の坊主ですから、もちろんおねえさんです。 1970年3月8日、万博開幕1週間前の全国紙記事より要約します。 文字起こしすればよかったんですが、今どき、使ってはいけなさそうなクダけた表現もありますので、開物訳で紹介します(全国紙ですが) 1970年3月8日新聞記事(開幕1週間前)合成してます 万博の1年前から争奪戦 いかにパビリオンや展示に大金をつぎこみ、技術の粋を傾けても、やはり『女性の存在』は大事ということで、各館が競って女性を募集したといいます。 敬語(日本語)の使い方、接客のしかた、表情の作り方、食事マナーから立ち居振る舞いまで『詰め込んだ』のですが、 教育したあげくにライバル館に引き抜かれてしまったり、万博エスコート役に抜擢されたということ
大阪万博当時、大人たちの間で難しい議論が交わされていたようです。 曰く『日本万博は伝統表現を通して日本文化を発信するのか、世界の潮流、商業主義に乗っとって未来技術を発信するのか。』 世界の万国博覧会に付きまとう永遠のテーマのようですね。 もちろん当時子どもの私の興味は、古河パビリオンの七重塔や、お寺・神社のような松下館(現在のパナソニックグループのパビリオン)にはありませんでしたが。 左)中宮寺本堂(現在) 右)大阪万博の松下館(当時) www.zero-position.com 松下幸之助さんが投じた一石 大阪万博に出展することにした松下グループ。 当初、現場は他の多くの企業パビリオンと同じく、自社の最新~未来機器の展示を中心に考えていたそうですが、大阪万博3年前の昭和42年7月、創業者・松下幸之助さんが「万国博は宣伝の場ではなく、企業あるいは企業グループとしてではなく業界単位として出展
EXPO70、大阪万博の広大な会場には、斬新なデザインの各国政府館や企業パビリオンが所せましと立ちならび、半年間、つかの間の未来都市が地上にあらわれました。 開会式直前の万博会場 夕景 未来的で奇抜な姿形の建物群に目を奪われる中、奈良時代に存在した『七重の塔』を忠実に再現した古河パビリオンは、むしろ地味な存在だったという、今思うとゼータクな話。 日ごろ、四天王寺さんの五重の塔を見慣れた子どもの私には、見学の優先度が低いパビリオンのひとつでしたが、パンフレットが残っていたのは幸いでした。その中から。 (戦後解体された古河財閥の流れの企業グループで、古河三水会という、今のホールディング(持ち株会社)未満の親睦組織が出展しました) 古代の夢、東大寺七重の塔(文字起こし) 古代の夢と現代の夢というテーマを七重塔とコンピュートピアで表現します (グループの中核企業のひとつが富士通(FACOM)ですね
日本館 夜景 大阪万博期間中の人気投票では『国内パビリオン52館中、一位が松下館、二位が古河パビリオン、三位が日本館、四位が三菱未来館』となりましたが、ここでは三位に選ばれた日本館(日本政府館)の日本史展示について。 シンボルマークの桜の花びらデザインの建物で1~5号館の5つの建物で構成されていました。 それぞれの関心と所要時間に合わせてコースを選べるスタイルで、当時としては新しかったと思います。 万博の桜のシンボルマークデザインのパビリオン コース案内 日本館パンフレット 1号館:日本の歴史の紹介(パンフレットのページ順) 縄文・弥生時代の紹介がなく、古墳時代のはにわの展示だけだったようです。 1号館レイアウト やまとの夜明け~はにわの群像~奈良 画像(6ページ)右の方。奈良の文化の紹介の中。朱塗りの柱群。 そのひとつが、法隆寺の百済観音(くだらかんのん)像。たいへんスタイルの良い仏様。
前回(松下館の紹介)の続きです。 www.zero-position.com 松下館の目玉は、斑鳩の中宮寺をモデルにした天平の景色でしたが、子どもの私が興味をひかれたのはタイムカプセル。 松下館パンフレット(当時)より 「未来に伝えたいモノ」の選定では、国内外(世界36ヵ国)の有識者に呼びかけたほか、国内で「五千年後の人類への贈り物」として12万通のアイデアを公募。その結果、自然科学・芸術・社会の三分野で2068点が収納されることになりました。 自然科学からは腕時計、小型カメラ、人工心弁、人工血管、植物の種子、避妊具、紙おむつなど、 芸術分野からは日本現代小説、わらべ歌のテープ録音、松下館の BGM に使用されたレコード盤など。 他には、ベビー服や出産届、死亡届と香典袋のほか、万博コンパニオンさんに提供された最新のメイクアップ(アイシャドウ、マニキュア、口紅、コンパクトなど)も入りました。
いやぁ、大阪府知事、ニューヨークのクオモ知事並みに人気をつかみつつあるのでしょうか? 政治家には平時に強いタイプと有事に強いタイプがいることを身をもって知りました。 イヤミでいうと平時にしか務まらない政治家の多いこと多いこと。ほんと。 お気づきの方も多いと思いますが、胸の『EXPO2025』の文字。 来る2025年(令和7年)大阪では2回目の万博が開かれます。 1回目の大阪万博・EXPO70、テーマは『人類の進歩と調和』でした 1回目は、今からちょうど50年前、私が初々しい(笑)中学生になったばかりの年、3月15日から大阪千里で万博が始まったんです。 引越前・断捨離中の押入れの奥から、開会前日~当日の新聞、パビリオンのパンフレット、入場券などがひとかたまりで出てきました。 しばらく在宅ワークせざるを得ぬ身、ブログネタに困る昨今『ちょうどいいや』と少し、シリーズで書きたいと思います。その1回
東西冷戦の中、最前線だったヨーロッパ(参加していない国・地域はシロヌキ) EXPO70参加国 ヨーロッパ・アフリカ 大阪万博会場 手前の白いドームのある建物がアメリカ館、奥の赤いタワーの建物がソ連館 ソ連館の高さは100メートル、万博会場では一番高い建物で、赤く鋭いデザインは発展するソ連を表現したものだったそうです。 EXPO70当時は、東西冷戦の真っただ中。 しかし『鉄のカーテン』の向こう側からソ連がパビリオンを出展し、国際的な緊張緩和(デタント)も期待されました。 ただ、ソ連を中心としたいわゆる「ヨーロッパの東側諸国」では、チェコスロバキアとブルガリアが参加しただけ。 左)チェコスロバキア館のボヘミアンガラスの川の展示 ドイツは当時『ベルリンの壁』で西と東に分断されていて、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が参加しました。 ドイツとともに、ベルギー、フランス、イタリア、オランダは各国パビリオ
EXPO70 会場コンパニオンさんたち 大阪万博では総勢3,000人のコンパニオンさんが活躍しましたが、それは、この国で普通の女性が普通に活躍する社会が始まる象徴的な出来事でした。 www.zero-position.com 女性が社会に進出することで美容やファッション産業が生まれ、急成長。 開幕日の様子を伝える新聞より 万博開幕前後の新聞広告 阪急 三越 美とファッションをテーマにしたパビリオン ファッショナブルな女性のライフスタイルを提案 せんい館 せんい館のコンパニオンの制服は『動き』を重視したデザイン 一館としては最多の種類 サンヨー館 未来の入浴・キッチンスタイル 古河パビリオン キャッシュレスでお買い物 タカラビューティリオン 未来のヘアサロン(写真は万博協会サイトより) 大阪万博で、資生堂は化学工業館に、女性専用のおそらく日本史上初のパウダールーム(お化粧室)を設置。 多数の
「EXPO’70パビリオン」は、1970年日本万国博覧会当時の出展施設であった鉄鋼館を利用、博覧会の記念館として、2010年3月13日にオープン。 なんとなく大阪万博がどういったものだったかが分かる施設。 EXPO’70パビリオン2F まずは2Fからスタート。 大きな構造物は今も人を圧倒する。 全体的に通路は赤、日の丸をイメージか。 宇宙空間のようなステージ。 外国体験。 ガラスを突き破って未来への咆哮や躍進を感じる太陽の塔。 モード。 1970年にこんなにもたくさんの施設があったんですね。 今ではほぼ無く、太陽の塔くらいが残っています。 潰すないとダメだったの? もったいな気がします。 古いような未来的、当時の活気が伝わる2Fでした。 次は1Fへ。 EXPO’70パビリオン1F ケロちゃんは珍しくない、『けいおん!』豊郷小学校にもいます。 2F最後の位置にいた所が見えます。 70年代の若
これらの映像を2025年大阪・関西万博への機運醸成に繋げたいと考え、ABCグループで活用の方向性を検討し、当時のパビリオンやイベントが閲覧できるアーカイブサイトを開設しました。 このアーカイブサイトをキッカケに1970年万博の素晴らしさを伝えられればと思います。 タイトルは「EXPO'70映像アーカイブ~6000万人が見た未来~」 来場者約6000万人が見た未来は私たちが生きている今です。 開催から約半世紀が経過しても当時のパビリオンや展示は引けをとりません。 EXPO'70で登場した「動く歩道」やスマホの祖先ともいうべき「ワイヤレステレホン」、会場内を走った「電気自動車」など、映像を通して、未来予想の”答え合わせ”をすることも可能です。 「EXPO'70映像アーカイブ~6000万人が見た未来~」では半世紀前の映像をなるべく画質を落とさず公開しています。 当時を知っている世代だけではなく、
EXPO'70狂騒曲 その6 ついに開催された万博(どこまで続くのやら) 北大阪急行(別名エキスポ急行)は、万博会場前に駅を作った。 万博終了後、駅は消滅した。 太陽の塔の作者・岡本太郎氏。 太陽の塔の作成意図について。 「意味なんかあるもんか。わからんところがいいのだ。わかってしまっては頭に何も残らないのだ」 そして人々の頭に何かが残ってしまったため、様々な現象が起きた。 とある少女は、夢の中に太陽の塔が出てきてしまい、おねしょをした。 3歳児は、太陽の塔の絵を描いた。 岡本太郎の作品と出会うたびに立ち止まる人が出てきた。 太陽の塔の顔面部分に籠城する人が出た(4月26日)。 その人は、太陽の塔の目玉部分にいたため「目玉男」と呼ばれるようになった(アイジャック事件)。 太陽の塔の目玉はライトになっており、夜になると点灯することになっていたが(アイ・ビーム)、使用すると目玉男が焼け死ぬ恐れ
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