本多秋五の”落ち穂拾い”をはじめて三〇年になろうか。先達の評論家のような確たる研究は、力量不足でおよばない。名古屋タイムズでの新聞記者時代、いまは亡き木全円寿さん(同人雑誌『北斗』前主宰者)の「地元・挙母に残した本多資料を探せ」との指導で、同級生らを尋ねあるくことに専念した。 一〇数人にあった。鬼籍に入られている小学時代の同級生、羽田倉三さんには親切にしてもらった。 「役に立てばもっていけ」といただいたのが、本多先生が挙母にのこした唯一の仕事である『挙母文化』という雑誌である。いまのところ、後にも先にも挙母に残した”活字”はこれしか見たことがない。全集にも収録されているが、実物は本多先生の手元にもなかったと聞く。 「文学は小人婦女子の業であるなど」と題された小品がそれである。昭和二四年一月二〇日、挙母文化発行所が発行元になっている。創刊号が出たきりで、続刊されなかった。 奥野健男さん流にい