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芸術に関するquagmaのブックマーク (4)

  • miike-coalmine.org

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    quagma
    quagma 2010/09/21
    すごい逸話。戦後10年くらいの歴史って忘れ去られすぎなのでは(私が知らなさすぎなだけなのか?)。
  • アートシーンではなく<文化>を! - 泥沼通信

    VOL 3号に『 ポスト・ノー・フューチャーにとって政治とはなにか──シーンなきアートの現場から (by 工藤キキ)』というインタビューが掲載されている。工藤キキさんという人については全く知らないのだが、このような雑誌に載っていることからみて、左翼系の人たちと何かつながりがあるのだろう。しかしこのインタビューの内容は、アンチ・キャピタルなVOLの編集方針と大きく隔たっており、第3号のテーマとされている「アートとアクティヴィズムのあいだ」という問題に対する混乱と無理解を象徴しているものではないかと思う。 このインタビューで工藤氏は会田誠(参考)、岩愛子(参考)、Chim↑Pom(参考1,2)などのアーティストを例にとりながら、日の新しいアートムーブメントの政治性ついて語っている。その特徴として、「虐げられているという前提からの抵抗」のようにリアクティヴなものではないことや、特定の表現メデ

  • 芸術の脱構築(書きかけ) - 泥沼通信

    われわれが力を尽くすことを望むのは、世界の終焉のペクタクルのためではなく、スペクタクルの世界の終焉のためなのである。  『芸術の消滅の意味』(アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第3号) 問題は、拒否のスペクタクルを作り上げることではなく、スペクタクルを拒否することにばかならない。スペクタクルを破壊する諸要素が、SIの定義した新しい真正な意味で芸術的に練り上げられるためには、それら諸要素はまさしく芸術作品たることをやめねばならない。シチュアシオニスムなるものも、シチュアシオニスト的芸術作品なるものも存在しない。ましてや、スペクタクル的シチュアシオニストなど存在しない。断じて否である。(イェーテボリでのSI第5回大会におけるラウル・ヴァネーゲムによる基調報告) このシチュアシオニストと芸術の関係を語った言葉は、シチュアシオニストを評価し、インスパイアされた人にもけっこう理解されていないんじ

    quagma
    quagma 2010/06/25
    ←というタグ付けは、この文章の内容に反しているかもしれないが、あくまでも便宜的に。すごく面白い。興奮させられる。
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●物語というのは、ちょっと気を許すとすぐに恋愛の方へひっぱられてしまうと誰かが書いていたのを読んだ気がするのだが、それともう一つ、物語はちょっと気を許すとすぐに「対戦(対決)」の方へひっぱられてしまうと思う。恋愛も対戦もなしで物語を成立させるのは困難であろうし(しばしば、恋愛と対戦とは別のものではなかったりさえする)、逆に、簡単に恋愛や対戦に着地する物語はバカっぽい。そして、ここで物語とは、まさに「現実」を動かしている力のことでもある。だとすれば、決して安易には物語に「対戦」を持ち込まないということは、そのまま、そのような現実へ向けての働きかけでもあろう。 ●格闘技というもののもつ矛盾。格闘家が実際にやっていることは、ものすごい量の情報を、ものすごい速さで処理して状況判断(駆け引き)をし、それをもとに、ものすごい精度で制御された身体運動へと変換してゆくという、ものすごく複雑かつ高度な行為で

    ■ - 偽日記@はてなブログ
    quagma
    quagma 2010/03/27
    ”決して安易には物語に「対戦」を持ち込まないということは、そのまま、そのような現実へ向けての働きかけでもあろう。”対決型思考への違和感。この文章にすごく共感する。
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