− 1 − 原発産業のカネとヒト 中 野 洋 一 目次 はじめに 1 「原発マネー」と政治家・官僚の天下り 2 「原発マネー」と地方自治体 3 「原発マネー」とマスコミ 4 「原発マネー」と学者 ⑴ 安全規制ガバナンスの欠如 ⑵ 推進側と規制側の癒着構造 ⑶ 大学へ流れた「原発マネー」 ⑷ 各種委員(学者)へ流れた「原発マネー」 5 「原発マネー」と「原発事故責任」 おわりに はじめに この論文は、前回の論文「日本原発の『安全神話』の崩壊 原発産業の研究」 (中野洋一『原発依存と地球温暖化論の策略 経済学からの批判的考察』法律 文化社、2011年に所収)1 の続きである。その後に入手した新しい文献・資料を 基礎にしながら、原発産業のカネとヒトについてさらに深く明らかにする。特 に、「原発マネー」の流れを中心としながら、日本の原発産業の「利益共同体」、 すなわち、原発をめぐる政
... 死の灰詩集』を、戦中に建艦献金運動の一環として刊行された『辻詩集』(日本文学報国会、八紘社杉山書店、一九四三年)と同質だと見なすことで、戦前・戦中と戦後との連続性を指摘したのである。鮎川は国民感情について、「そのような感情は、まずたいてい ...
展示の趣旨 この展示館には、木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品や関係資料を展示しています。「第五福竜丸」は、昭和29年(1954年)3月1日に太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被害を受けました。 木造漁船での近海漁業は現在も行われていますが、当時はこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行ったのです。 「第五福竜丸」は、昭和22年(1947年)に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に出ていました。水爆実験での被爆後は、練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、昭和42年(1967年)に廃船になったものです。 東京都は、遠洋漁業に出ていた木造漁船を実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨事がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。 <東京都 昭和5
<概要> 静岡県・焼津港所属の遠洋マグロ延縄漁船「第五福竜丸」は、1954年3月1日未明(以下、日本標準時)太平洋マーシャル諸島・ビキニ環礁東方海上160kmの公海で操業中に米国がビキニ環礁で実施した水爆実験による放射性降下物(珊瑚礁が破壊された細かいチリと核分裂生成物を含む白い灰で、通称「死の灰」と呼ばれる)に見舞われ、船もろとも白い灰を被り乗組員23名は高濃度の放射性降下物で汚染した。異常を感じた第五福竜丸乗組員は操業を打ち切り、全速力で焼津港に向かい3月14日に帰港した。この間、乗組員は放射線による火傷、頭痛、吐きけ、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など急性放射線症状を呈し、帰港後「急性放射線症」と診断されて東京大学附属病院および東京国立第二病院(現在の国立国際医療センター)に入院した。23名の被ばく線量は個人により異なるが全身線量で最低1.7Gy最大6.9Gyと評価された。通信士の久
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く