2015年12月4日のブックマーク (4件)

  • 心の本性は善でも悪でもないとする、陽明学の無善無悪説 | 煉誠館ブログ

    世界に対する信頼の形 人間関係における判断基準の一つとして、「人の性は善であるか、悪であるか」というものがあります。 日常会話の中でも、よく「性善説」「性悪説」といった単語が出てきますが、これは、 「人は善に傾きやすく、利他の心で行動するであろう」と推測する判断基準を「性善説」。 「いや、人は悪に傾きやすく、私利私欲で行動するであろう」と推測する判断基準を「性悪説」。 といった意味合いで使われているのだと思います。 ※この二つの言葉は、元々は儒教に由来する言葉であり、性善説は「孟子」、性悪説は「荀子」が唱えたものです。来の意味は、上の例とは少し違った意味がありますが、とても一言で語れるものではありませんので、ここでは触れません。 これらの判断基準は、個々が持っている「世界に対する信頼の形」とも言えます。世界を信頼している者ほど性善説を支持し、世界を信頼せず疑う者ほど性悪説を支持している

    心の本性は善でも悪でもないとする、陽明学の無善無悪説 | 煉誠館ブログ
    renseikan
    renseikan 2015/12/04
    物事を善悪二元論で考えてしまうと、正義と正義のぶつかり合いになり、衝突はさけられません。陽明学の四句教で示される無善無悪の思想には、それを乗り越えるためのヒントがあります。
  • 武術は暴力を磨くための方法ではない | 煉誠館ブログ

    武術を「思想」として定義する 前回は、武術を戦闘技術として捉えた場合、意外と早く限界が見えてくるということをお話ししました。 ⇒【前回:戦闘の手段としての武術の限界】へ 実際、現代の日で、物事を解決するために武力が用いられるシーンはほぼ皆無であり、それを目的として武術を学んでも、得られるものが少ないのは自明であります。 であれば、武術など、学ぶだけ時間の無駄なのでしょうか? そうではないと、私は断言します。 そもそも、全ての問題を暴力で解決しようというのは、時代を問わず歪んだ思想であり、狂気であります。また、ほとんどの武術者は、そのような思想に基づいて稽古に励んでいるわけではありません。 武術の稽古は、見た目こそ戦闘行為の予行練習のように思えますが、中身は全く違います。もちろん、戦闘行為の習得を目的とすれば、それを高めていくことはできます。が、修行の日々の中で精神が変わってくると、敵を倒

    武術は暴力を磨くための方法ではない | 煉誠館ブログ
    renseikan
    renseikan 2015/12/04
    武術の稽古で、自他の関係性を感じ取る努力をしたり、命と向き合ったり、人間としての「あり方」を求め続けることで、貴重な気づきを得られます。それこそが、武術の魅力であり、大切なことだと思うのです。
  • 戦闘の手段としての武術の限界 | 煉誠館ブログ

    武術と聞いて世間一般の方が持たれる印象としては「戦闘の手段」というものが大半を占めるのではないでしょうか。スローガンとして精神論を説いている者はいるけれど、結局は暴力だろう、と。 しかしながら、それは断じて否であります。 少なくとも煉誠館では、戦闘の手段としての目的を第一義としておりません。 大東流にも様々な会派があり、それぞれ思想が違っています。その中でも、当会に伝わる大東流合気武術は、「武士の嗜み(たしなみ)としての一面」を重視するものであります。私は、そのように教わりました。 武術の原点である、戦闘において敵を制するという目的を軽視しているわけではありません。技術は当然磨くべきであり、精神のみに終始しては、武術としてのアイデンティティを失います。 ただ、原理主義的に武術という字面を捉えるばかりでは、社会に適応しない「道場内だけでしか通じない閉じた思考」を作り上げてしまいます。そのよう

    戦闘の手段としての武術の限界 | 煉誠館ブログ
    renseikan
    renseikan 2015/12/04
    単純に「暴力のみに長けている狂人は、現代の世に必要とされていない」。磨くべきは「社会の一員として、人間として如何に生きるか?」という命題に対する部分でありましょう。
  • 生きる目的とは何だろうか | 煉誠館ブログ

    若かりし頃、私が武術を始める根の原因は何だったかと振り返れば、まず最初に「なぜ生きているのか?」「生きる意味とは何か?」という疑問があったように思います。 思春期になれば、そのような考えを持つ人も少なくないと思いますが、凡夫たる私もご多分に漏れず、そんな疑問に日々悩んでいました。このような疑問も持たず、最初から生きる目的を知っていたならば(例えそれが勘違いであったとしても)、ここまで武術に入れ込んではいなかったでしょう。 生きる意味を求めて迷走したあげく、世界に対する偏見をこじらせて、武術の道に入ったというのが、正直なところです。周囲の人間は、みな敵だったので、強くなろうとしたのが最初です。 ですので、私にとって、「武術」と「生きる目的」というのは、決して切り離せないものです。 世の中には、かつての私のように、生きる目的を求めている方もいらっしゃるかと思います。 修行中の我が身で差し出が

    生きる目的とは何だろうか | 煉誠館ブログ
    renseikan
    renseikan 2015/12/04
    人間にとって、自分が生きる意味を探るというのは、とても大きなテーマだと思います。修行中の我が身で差し出がましいのは承知しておりますが、生きる目的について、少し書かせていただきました。