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来年はガリレオ・ガリレイの生誕450周年ということで、それに合わせていくつもの研究書が出版されているようです。そういう研究書の多くは、新たに公開されたバチカンの異端審問関連資料を使ったもの。 とはいえ、その資料から明らかになったのは、まあ、あの時代、あの状況で、ガリレオにああいう態度(ポリティカルにあまり賢明とは言えない態度)を取られたら、ローマ・カトリック教会としては、ああするしかなかったよね……という、「ガリレオがもう少し賢く立ち回ってくれていたら、あんな無体なことはせずにすんだのに」的な教会サイドの言い分に共感したくなりそうな状況だったもようです。 しかし、それを言ったらおしまいなんですけどね。所詮は、「大人しく言うことを聞けば、手荒なことはしない」という脅しなわけで……。あの裁判が複雑微妙できわめて政治的だったことは間違いないにせよ、「教会は拷問で脅してガリレオに自説撤回を強いた」
戦争責任者の問題伊丹万作 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから
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今回(2008/6/22)は、「秋葉原連続殺傷事件」がテーマでした(次回「秋葉原無差別殺傷事件」予告編 (文化系トークラジオ Life))。 メモ書きです。チャット(文化系トークラジオlife20080622(only in Japanese) (at Lingr) > Archives > June 23, 2008)の内容をほぼ採録しました。 文句ばかりになってしまった…… それだけ取り上げるのが難しい問題なんだろうナァ、と思う。 ちょっと長いですが、おつきあいください。(長すぎたので4分割しました) 物語の怖さについて 個別具体的な事件を、「物語」として語ってしまう怖さについては、その通り。 何らかの手近な「原因」を、今回の事件に当てはめてしまうことで二次災害が引き起こされる。 「俺も加藤になっていたかも」→模倣犯 「危険な歩行者天国は中止せねば」→ゲーテッドシティ化 「派遣社員はヤ
今回(2008/6/22)は、「秋葉原連続殺傷事件」がテーマでした。 非常に難しいテーマに取り組まれたと思います。 「Life」が、このテーマに取り組まれること自体が非常に重要なことだと思います。 自分の思うところをメールしたので、ここにも公開しますね。 事件を「理解」してはいけないのではないか 今回の事件については、「理解」をしてはいけないという気がしました。 まず、単純に、加害者について、「理解」が出来ませんでした。 派遣社員で非常に不安定な環境にいたことや、対人関係で「承認して欲しい」という欲求があった、などの「背景」が語られていますが、だからといって「無差別殺人」を起こせるのか、理解が出来ませんでした。 「自分ももしかしたら加害者になっていたかも知れない」という言葉をネット上で結構聞きましたが、普通はやらないです。出来ないです。ハードルが高すぎます。 だから、ほとんど僕にとっては「
「なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080204に質問をいただいたので、解説してみる。 「物語」とはなにか まず「物語」とはなにか。それは動物と違う「人間」とはなにか、ということです。動物は「世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」世界を生きています。簡単にいえば、代替可能性です。自分がいなくなっても、誰かが代替するだけのことです。 しかし人間は、代替可能性を受け入れることはできません。たとえば子供を失った親は、違う子供で入れ替えることはできないということです。親にとって子供は唯一の存在です。そしてこの代替不可能性を支えるのが、その人の「物語」です。その人にはその人だけの物語があるのです。「自分の物語では自分が主人公」という歌がありましたが、人間であるということは、「
友人から借りた以下の本をとっくに読了していたが、何も書いていなかったのでメモ程度書いとく。 哲学者は何を考えているのか (現代哲学への招待Basics) ジュリアン バジーニ ジェレミー スタンルーム Julian Baggini えーと、何にしろ非常に啓発的で刺激的な本であった。この春秋社の現代哲学への招待シリーズは現代の英米哲学に関する本を多数出版していて非常にありがたいのだが(それも結構装丁がかっこよい。フランス系現代思想の本に負けず劣らずw)、中でもこの本は異色である。というのも、これは単独な哲学者の本ではなく『ザ・フィロソワーズ・マガジン』という雑誌に掲載された大物哲学者のインタビュー集なのである。 インタビューの内容はとにかく、このような雑誌が存在すること自体が、我々日本人には驚くべきことなのだが、これは英米系の知識人の素養をうかがわせる。『ザ・フィロソワーズ・マガジン』という
1月22日に行われたシンポジウムのまとめ。当日のメモを元にした主観からのまとめであるため、発言者の意図を完全にくんでいるわけではないことをご了承ください。オフィシャルな議論のテクストは、『思想地図』に掲載されると思われるので、この議論に興味を持たれた方はそちらを購入しましょう。 第一部:報告編 東 『思想地図』創刊にあたって考えていたこと。思想は政治性を持たなければならない。95年以降、思想が具体的な実効性を問われる言葉に縮減していったと認識している。だが思弁的な言葉で考えてもいいはず、そういうものを取り戻したい。現実との繋がりは「あればいい」けど、ことさらに強調する必要はない。ほかの論壇誌ではできない、抽象的だけど具体的な思考を載せていきたい。 「日本」と「国家」というのは、どっちも生活に関わるものでありながら抽象的なテーマ。まずはそれぞれの報告を経て、ディスカッションを行う。会場からの
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