タグ

2006年8月22日のブックマーク (4件)

  • 「耳をすませば」にミンデルを見る - アンカテ

    ミンデルの概念を使うと「耳をすませば」がよくわかるし、逆に「耳をすませば」でミンデルを理解することもできる。 「耳をすませば」では主人公の雫の日常生活が一次プロセスである。一次プロセスであるから、室井滋が母親の声を演じ、雫の住む公団住宅の狭さなどをリアルに表現する必要があったのである。そして、二次プロセスとしてのバロンの物語がその中に立ち現れて来る。一次プロセスと二次プロセスは、表面的には全く独立で、互いの関係を持たずに動いているが、何かの拍子に両者が突然交錯する。その瞬間を描いたのが「耳をすませば」である。 そして、二次プロセスとしてのバロンの物語は、断片的にしか出てこない。それは未完なのではなく、向こう側では最初から完成しているのである。しかし、今の雫には、その物語を完全な形で引っぱりだすことはできない。おそらく、最後に雫が書きあげた物語は、人が言うように不完全なものである。その物語

    「耳をすませば」にミンデルを見る - アンカテ
    santaro_y
    santaro_y 2006/08/22
  • ハウルの軽やかな獣性とソフィーの清らかな鈍重さ - アンカテ

    ハウルは、二つの相反する特性を持った存在です。ひとつは軽やかさ。それは飛翔する場面や時空を通り抜ける魔法の数々として表現されています。もうひとつは、魔王に変身したハウルによって象徴される全てのものを解体しらい尽くす恐しい力。 この二つの特性は、Web2.0における集団知が重ねあわせて持っているものでもあります。集団知は、固定した視点や特定の原理に縛られません。常に、多面的に物事に対処し、軽やかに新しい立場を創造し続けます。そして、それがスタティックな物事を解体する力となった時の作用には、恐しいものがあります。その破壊的な力を留められる力はありません。 このような一致が起こるのは偶然ではないでしょうが、宮崎さんがネットやWeb2.0を熟知して、その物語の構造にそれを投影したわけでもありません。そうではなくて、どちらも現代社会の背後にある集団的な力を反映しているのだと思います。Web2.0と

    ハウルの軽やかな獣性とソフィーの清らかな鈍重さ - アンカテ
    santaro_y
    santaro_y 2006/08/22
  • 神話とワイドショー - アンカテ

    ワイドショーと神話はすごくよく似ている。ヒーローやヒロインのことを語っているフリをして、実はどちらもエグい話ばかりだ。不倫、殺人、グロ系のオカルトなど暴力や嫉妬をベースにした話題が多い。嘘だと思うなら、古事記でもギリシャ神話でも読んでみろ。何故か女性週刊誌に多い奇形児や障害者なんかもよく出てくるし、ミッチーサッチー顔負けのオバタリアンやら叶姉妹みたいな正体不明の怪しげな美女とか結構「濃い」人物が多いことに驚くだろう。最近の流行りで言えば、クスリを使った強姦未遂や強姦致死もあるし確か死体遺棄もあったはずだ。 何より共通しているのが、マッチポンプ原理がベースとなっていること。神々しい人物が意外に俗っぽかったりズルかったり馬鹿だったりするという構造が基的なストーリーの基盤になっている。まず、その人がどれだけ偉い人か詳しく説明しておいてストンと落とす。最近で言うと高橋尚子がやられたあれです。 人

    神話とワイドショー - アンカテ
  • 加速する神話形成プロセス - アンカテ

    すごく大昔の人が、今の南京事件にまつわる騒動を見たら、きっとそれを「神々の戦い」と表現すると思う。 日軍をいいものにする物語と、日軍を悪者にする物語があって、二つの物語が戦っている。大昔の人がこれを見たら、この戦いの主体は物語であって、物語が人々を駒として動かしているという見方をする。そして、その物語のことを神と呼び、それぞれの神に従う人々が神の意思を受けて戦っているのだと考える。この議論に決着がつけば「一方の神が勝った」と言い、膠着状態が続けば「神々が共存している」と言うだろう。 日書記や古事記とかは、そんな風にして歴史を物語として決着させたものだ。大和朝廷をいいものにしたい人たちと、悪者にしたい人たちがいて、前者の神が勝って後者の神を配下とするプロセスが、そこに神話として表現されている。おそらく大昔の人は、この21世紀初頭の日で、それと同じプロセスが進行していると見るだろう。

    加速する神話形成プロセス - アンカテ