アーレントによれば、真に人間的であるのはアクションであり、コミュニケーションということになる。 ただコミュニケーションには、レイバーやワークに従属しているものもある。しかしそれは真のアクションではない。真に人間的なものは、レイバーやワークから切り離された、コミュニケーションの為のコミュニケーション(としてのアクション)である、とされる。 しかし、今私たちが直面しているのは、これとは全く違った事態だろう。 アーレントのいう「真に人間的なもの」であるアクションを、どこまでも純化してみたら、つまりコミュニケーションのためのコミュニケーションを、レイバーやワークとの関係から解放してしまったら、それは人間的じゃなく動物的なものになってしまった。 「象徴の貧困」とは、コミュニケーションをワーク――職人的な創造や芸術的な創造から切り離してしまったようなものではないのか。 (参考:東浩紀,大澤真幸:『自
セクシャルなことのメタファーに満ちた暮らしが、日本人にとってふつうのことだったのかもしれません。(三砂ちずる:『オニババ化する女たち』:p167) 図:ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p53 浅草寺における子宮的構造について 人類の抱いた最初の哲学的謎は「子供はどこからやってくるのか」という質問なのであった。すると女性の股間の洞窟は「無」への入り口なのであるから、それを人目にさらして、子供はここからやってきましたと言うことは、「無」を裏切ってしまうことになる。(中沢新一:『アースダイバー 』:p195-196) 浅草寺のご本尊である観音様は、ご開帳されたことのない絶対の秘仏であり 「無」である。地元の方々は見たら目が潰れると教えられているので本当に誰も見たことがない――しかしこれが浅草の象徴である――。 それを私はありがたく日々拝んでいるわけなのだが、中沢新一は、そのこと(見えない観音様)
原初抑圧 人間を原初抑圧をするものにはまず、「ことば」がある。 原初抑圧とは鏡像段階にある子供が一人前になっていく過程であり、真っ白だったた左脳(言語脳)にことばが寄生する――ミームの寄生。 これによって人間には抑圧が加えられ、象徴界が構成され、社会性がもてるようになる。 日本人――日本語で考える人の場合、原初抑圧装置は「日本語」である。 デコード 日本語のをデコードすれば、単純にはこうなるだろう。 「漢字」「平仮名」「片仮名」は、それぞれに原理をもつ。 以下は、石川九楊の『縦に書け!』の第二章『「日本」とは「日本語」のことである』のまとめ的記述である。 漢字 漢字は中華帝国からの外来語である。 例:「漢委(倭)奴国王」。 中国(漢)から「倭」と呼ばれる地方があった。 その中に中国の柵封体制(中国が周辺の諸国に称号を与えることで従属させる体制)に組み込まれた「奴国」という小国があった。 日
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