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2011年9月7日のブックマーク (5件)

  • 玄葉外相発言 踏みつけているのは誰か - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

    社説 玄葉外相発言 踏みつけているのは誰か2011年9月7日  Tweet おかしな発言が飛び出してきた。玄葉光一郎外相が米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画について「踏まれても蹴られても誠心誠意、沖縄の皆さんに向き合っていくしかない」と述べた。  報道各社の就任インタビューでの発言だが、これはいわば加害者が被害者であるかのごとく装う、明らかな主客転倒発言だ。 県民は県知事選をはじめ各種選挙で民主的手続きを尽くし、辺野古移設に異議を唱えてきた。にもかかわらず、県内移設反対の声は無視され続け、さらにまた海兵隊の最新鋭輸送機オスプレイの配備で危険にさらされようとしている。日米両政府こそ県民を踏みつけにしてきた張人ではないか。 玄葉外相は外務官僚の説明を全て真に受け、辺野古移設合意を推進することこそが強いリーダーであり、米国の期待に沿うと錯覚、信じ切っているのであろうか。 外相が「

    sarutora
    sarutora 2011/09/07
    玄葉外相発言>「踏まれても蹴られても誠心誠意、沖縄の皆さんに向き合っていくしかない」>加害者が被害者であるかのごとく装う、明らかな主客転倒発言…日米両政府こそ県民を踏みつけにしてきた張本人ではないか
  • 横浜の県立高校 女性教諭が日本史授業でハングル指導 「朝鮮人虐殺現場」見学企画も+(1/2ページ) - MSN産経ニュース

    横浜市にある神奈川県立高校の地理歴史科の女性教諭が日史の授業で生徒にハングルを教えていたことが24日、県教委への取材で分かった。県教委では授業は学習指導要領に定められたものといえず教育内容として不適切と判断。こうした授業をしないよう学校側を指導した。教諭はこのほか、「関東大震災のさいに起きた朝鮮人虐殺現場」を見学するよう企画し、生徒に参加を募っていたことも判明。県教委はこれも指導対象とした。 県教委によると、問題の授業があったのは昨年12月下旬、学期末試験終了後の2年生の「日史B」の時間。1コマ45分を使って、生徒に自分の名刺をハングルで作らせる授業を2クラスで行ったという。 今年8月上旬、授業内容について県教委の考え方をただす電子メールがあり県教委が事実関係を確認。その結果、この教諭は日史の授業でハングルを教えた以外にも夏休みに希望する生徒を対象に行う「夏期講習」の一環で「関東大

    sarutora
    sarutora 2011/09/07
    この授業の何が問題なのか全くわからない。朝鮮学校の「反日教育」がどうのと騒ぐ人がいるが、むしろ、こんなことすら処分される日本の教育こそ「反朝鮮」「嫌朝鮮」の偏向教育ではないか。
  • 朝・日サッカー戦のスタンドから高校無償化問題を考える - 日刊イオ

    先週の金曜日(2日)、埼玉スタジアムで朝鮮民主主義人民共和国と日のW杯3次予選の試合を観戦しました。朝鮮の代表チームが日で試合をするのは6年ぶり。そのときと同じスタジアムです。代表チームのみならず、この間、朝鮮から人は来日していないわけですが…。 スタンドはもちろん、ほとんどが日のサポーターですが、一画を朝鮮のサポーターが赤く染めました。アナウンスでは「朝鮮民主主義人民共和国」と、国名をちゃんと正式名称で呼んでいました。「北朝鮮」と呼んだらどうしようかと、ハラハラしていました。対して日のことは、「サムライブルー・ジャパン」とかなにか、変な呼び方をしていました。 スタンドには朝鮮の国旗がはためきます。そして、国歌斉唱では朝鮮の国歌「愛国歌」が流れました。 試合はご存知の通り、残念な結果でしたが、朝鮮は粘り強く守りよく戦ったと思います。そして、赤いサポーターたちも懸命に応援していました

    朝・日サッカー戦のスタンドから高校無償化問題を考える - 日刊イオ
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    sarutora 2011/09/07
  • 漱石「それから」と秋水、千駄ヶ谷「平民社」 | 山歩き・其の参

    「らかれそ」 石 漱 画像をクリックすると別ウィンドウで少し拡大されます。(平民社に触れた回ではありません) 夏目漱石は一九〇九年六月二七日から十月一四日まで(八月一四日脱稿)『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に連載した小説「それから」にこの官憲の監視状況を描いている。 連載開始は二七日であるが、六月七日、八日に幸徳の友人である朝日新聞の記者杉村楚人冠こと廣太郎が幸徳訪問記を「幸徳秋水を襲ふ」と題し三面に署名記事で書き、幸徳から指摘された官憲の監視の様子を記述している。 漱石は直接、杉村から聞いたのか、また『自由思想』を読む機会があったのかもしれない。 該当部分を引用する。「平岡はそれから、幸徳秋水と云ふ社会主義の人を、政府がどんなに恐れてゐるかと云ふ事を話した。幸徳秋水の家の前と後に巡査が二三人宛昼夜張番をしてゐる。一時は天幕を張つて、其中から覗つてゐた。秋水が外出すると、巡査が後を付け

    漱石「それから」と秋水、千駄ヶ谷「平民社」 | 山歩き・其の参
    sarutora
    sarutora 2011/09/07
    小川(芋銭)は大逆事件に巻き込まれなかったが、弾圧された同志たちと社会主義運動における同伴者であり後年まで幸徳たちへの偲ぶ気持ちは続いていた。
  • 牛久のカッパを追って

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    sarutora
    sarutora 2011/09/07
    碑の説明文には触れられていないが牛久のカッパ画家小川芋銭は幸徳秋水らと交流があり『平民新聞』に盛んに寄稿していた。カッパが「アンニュイ」なのは弾圧された幸徳らを偲ぶ作品だからなのかも?http://nikkan100.exblog.