新聞万華鏡(9) 『仮名読新聞』と守屋正造 守屋正造(『かなよみ』576号 明治11年1月27日) 『仮名読新聞』は、明治8(1875)年に仮名垣魯文の編集で横浜毎日新聞会社が創刊した、明治時代の代表的な小新聞の一つです。編者である魯文については、多くの研究書が取上げていますが、魯文を取り巻く人々の1人であった守屋正造についてはほとんど知られていません。この人物は『仮名読新聞』の横浜での販売店(売捌所)をしていましたが、新聞を見ていくと正造についていくつか記事がありますので、紹介したいと思います。 守屋正造は、初めは高島町二丁目の住所で新聞に載っています。明治9年2月21日の記事には、高名写真入辻占新聞御菓子(なだかきしゃしんいりつじうらしんぶんおんかし)「浜手箱」の販売広告を載せています。21日から3日間だけ売り出した、新聞にちなんだ菓子だったようです。 上の挿絵は、明治11年1月27日
明治十年前後の小説界について、思い出すままをお話してみるが、震災のため蔵書も何も焼き払ってしまったので、詳しいことや特に年代の如きは、あまり自信をもって言うことが出来ない。このことは特にお断りして置きたい。 一体に小説という言葉は、すでに新しい言葉なので、はじめは読本(よみほん)とか草双紙(くさぞうし)とか呼ばれていたものである。が、それが改ったのは戊辰(ぼしん)の革命以後のことである。 その頃はすべてが改った。言い換えれば、悉(ことごと)く旧物を捨てて新らしきを求め出した時代である。『膝栗毛』や『金の草鞋(わらじ)』よりも、仮名垣魯文(かながきろぶん)の『西洋道中膝栗毛』や『安愚楽鍋』などが持(も)て囃(はや)されたのである。草双紙の挿絵(さしえ)を例にとって言えば、『金花七変化』の鍋島猫騒動(なべしまねこそうどう)の小森半之丞に、トンビ合羽(がっぱ)を着せたり、靴をはかせたりしている。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く