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平野富二に関するschriftのブックマーク (3)

  • ギタさんにぶちあたる - 日本語練習虫

    日公開分が、徳永直『光をかかぐる人々』続編、『世界文化』連載分の、最後の節になる。 http://d.hatena.ne.jp/HikariwokakaguruHitobito/ 末尾は次の通り。 「――記録がのこつていないけれど、昌造翁が、門人を上海にやつたというのは、ほんとか知れませんね」 ある日、芝白金三光町に、平野義太郎氏をたずねてゆくと、そういつた。おだやかなこの學者は、昌造の門人で、その後繼者であつた平野富二の孫にあたるのである。 「その頃になると、長崎と上海の往來は、いま記録にのこつてるよりも、何倍もひんぱんだつたらしいですからね」 卓のうえには、私のために、祖父富二翁ののこした當時の日記や、短册や、いろんなものがひろげてある。大福帳型に、こくめいにしるされた筆文字をめくつてみても、そこから昌造の門人のうち、だれが、いつ、どういう風にして、美華書館へちかずいていつたかはわか

    ギタさんにぶちあたる - 日本語練習虫
  • huchi28

    貴族院議員に勅撰されたにもかかわらず、渋沢栄一はほとんど議場に顔を出さなかった。政治から距離を置きたいという気持ちが強かったのは事実である。しかし、そもそも国政にかかわる余裕がなかった。恐慌に翻弄されるなかで、関係する多くの会社が経営難におちいり、それに対処することに日々追われていたというのが実情だった。 たとえば栄一が相談役を務めていた日製帽は、巨額の赤字をかかえこんでいたし、京都織物は早くも倒産の危機に見舞われていた。日煉瓦製造や東京人造肥料も事情は変わらない。栄一はそれらの会社の救済のために文字どおり東奔西走している。 ほかに、こんな会社もあった。 長崎出身の平野富二(とみじ)は、1876年(明治9)に東京・石川島にあった元政府造船工場の敷地を海軍省から借用し、平野造船所を営んでいた。その経営は思わしくなく、資金繰りでいつも苦しんでいた。 平野は栄一のもとをしばしば訪れ、造船の重

    schrift
    schrift 2009/03/25
     「平野造船所が必要とする資金はとどまるところを知らず、栄一の出資した4万円(現在の感覚では4億円)はたちまちどこかへ消えていく。やむなく栄一は宇和島の伊達家や佐賀の鍋島家を説得し、ふたつの旧大名家か
  •  1877(明治10)年11月20日 石川島平野造船所 【『石川島重工業株式会社108年史』(石川島重工業, 1961)掲載】 - 情報資源センター・ブログ

    第1回内国勧業博覧会に鉛版活字を出品し内務卿大久保利通から賞状授与さる 『石川島重工業株式会社108年史』 >> 社史紹介「い」を別窓で開く 1876(明治9)年石川島平野造船所を起こした平野富治(ひらの・とみじ、1846-1892)は、長崎で木昌造(もとき・しょうぞう、1824-1875)から活版印刷所を引き継ぎ、1872(明治5)年東京神田に活版製造所を創立していました。丁度太陽暦への切り替え時期で、「平野の印刷した改暦の印刷物が、太政官から全国に配布されて活版の効用も認められ」た、と『石川島重工業株式会社108年史』p.208に記載されています。造船所内の鋳造場で鉛版活字が作られたのではないかと考えられます。 参考:6.内国勧業博覧会 殖産興業と博物館 〔東京国立博物館〕 http://www.tnm.jp/jp/history/06.html http://www.tnm.jp/

     1877(明治10)年11月20日 石川島平野造船所 【『石川島重工業株式会社108年史』(石川島重工業, 1961)掲載】 - 情報資源センター・ブログ
    schrift
    schrift 2009/01/03
     「造船所内の鋳造場で鉛版活字が作られたのではないかと考えられます」。印刷機械は製作されていた。活字鋳造も可能性はある。
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