150年前に米国から日本に野球が伝来した当初、「ベースボール」に訳語はなかった。「野球」と訳したのは誰なのか。 愛媛の有名な俳人が名付け親かと思ったら、実はお隣の徳島ゆかりの人物だった。 徳島県西部の山あいにある脇町高校。野球部が練習するグラウンドへ足を運ぶと、高さ3メートルはある石碑が立っていた。 「中馬庚(ちゅうまんかのえ)先生野球の碑」と刻まれ、裏には「旧脇中第四代の校長中馬庚先生は日本の学生野球育ての親であり、また文字通り野球の名付け親であった」と記されている。 1996年発行の「脇町高校百年史」によると、中馬庚は1870(明治3)年に鹿児島県で生まれた。第一高等中学校(後の旧制一高)を経て東京帝国大学を卒業。教育者となり、新潟、秋田の旧制中学校の校長を経て、1915(大正4)年に脇町中学(現・脇町高)の校長となった。 中馬がベースボールを「野球」と訳したのは、第一高等中学でベース
