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南北朝に関するshibayan1954のブックマーク (1)

  • 後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか

    前回は、奈良県吉野郡川上村で匿われていた後南朝の皇子の命が奪われた事件のことを書いた。この事件は「長禄の変」と呼ばれていて、決して川上村だけに残された伝承ではない。今回は、後南朝の歴史をもう少し詳しく記すことにしたい。 教科書や通史では、南北朝時代の戦乱が続いたのち、明徳3年(1392) に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について和約(「明徳の和約」)が成立して、南朝の後亀山天皇が吉野から京都に帰還して、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位して南北朝の合一が図られたことが記されていても、それから後も対立が続いたことについては何も書かれていない。しかし実際には15世紀の後半まで対立が続いたのだが、和約が成立していたにもかかわらず、何故こんなに長い間対立が続いたのかと誰でも思う。 【足利義満像】 Wikipediaの解説をしばらく引用する。 「そもそもこの和約は義満ら

    後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/12/17
    室町幕府にとっても北朝方にとっても、反幕府勢力が南朝の皇子を担いで挙兵するようなことが何度もあっては困るので、南北朝の合一でもって両統の対立がなくなったとする物語を描き、後南朝の歴史を闇に葬った。
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