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士族に関するshibayan1954のブックマーク (2)

  • 明治政府は士族をどう活用しようとしたのか

    前回は、明治維新のあとで士族の収入が激減した上に徴兵制が開始され、さらに廃刀令が実施されて、彼等の誇りや特権が剥ぎとられたばかりでなく、生活もままならなくなり、家財道具を売る者や、娘を売る者が出てきたことを書いた。 歴史書では「不平士族」という言葉で表現されているが、働く場所が奪われ、収入が9割以上カットされた上に、収入に12%もの新税を課せられては、士族が不平を持たないことのほうが余程不自然である。 また明治政府は、士族のうち家禄を自主的に奉還したものに対しては、起業資金を与える目的で年収の数年分の秩禄公債を与えたことが日史の教科書などに記されているが、「年収の数年分」といっても、士族の家禄が大幅にカットされたことを勘案すれば、藩に仕えていた時代の数か月分の収入程度の資金に過ぎなかったはずだ。 明治政府は、もしかすると、旧士族が反乱を起こすことぐらいのことは始めから覚悟の上ではなかった

    明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/22
    士族はインテリであって、その中には時勢をみるに敏なるものも少なくなかった。 五代友厚、中上川彦次郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一、安田善次郎、藤田伝三郎など武士出身者で経済界の重鎮になった人物が少なくない。
  • 明治維新と武士の没落

    明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。 そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし、諸藩の土地と人民を明治政府の所轄としたのだが、この段階では旧藩主がそのまま知藩事に留まっていたので、江戸時代と実態的には変わっていなかった。 次いで明治政府は、明治4年(1871)に藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣するという大改革を断行している(廃藩置県)。 さらに明治5年(1872)には、

    明治維新と武士の没落
    shibayan1954
    shibayan1954 2018/01/22
    明治5年に発布された徴兵令で軍役の仕事を奪われ、次いで家禄が大幅に削減され、翌年には家禄に高率な税が課されて、40万8千戸、家族を合わせて190万人いたという士族の生活は致命的な窮乏に追い込まれた。
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