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shibayan1954のブックマーク (244)

  • 赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2

    前回の記事で赤穂浪士の吉良邸討ち入りも、吉良上野介が大悪人でなければただの殺人行為となってしまって物語が成り立たないことを書いた。 この討ち入りについて「主君の仇討ち」という言葉がよく使われるのだが、松の廊下では浅野内匠頭の方が吉良上野介を殺そうとして斬りつけたのであって、吉良が浅野を殺そうとしたのではない。普通に考えれば、浅野の家臣である赤穂四十七士が吉良邸に討ち入りすることを「仇討」というのはどこかおかしい。 そもそも浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた理由がよくわからない。『忠臣蔵』の物語には吉良がひどく浅野を苛めたことがいろいろ創作されて書かれているのだが、当時の記録からはそれらしき理由が見えてこないのだ。そして肝心の赤穂浪士もその理由がよくわかっていなかったとしか思えない。 刃傷事件の当日の浅野内匠頭に関する記事は、現場にいて後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼

    赤穂浪士の処刑をどうするかで、当時の幕府で大論争があった~~忠臣蔵2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    赤穂浪士討入りの後、志士に対する同情と​讃嘆が白熱し、助命嘆願書が提出されていた中で、志士を死罪とするか切​腹させるか助命するかで幕府が随分対応に苦慮したようだ。この時の​議論を読むとなかなか面白い
  • 浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

    毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。 子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。 Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは 「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。 ただし忠臣蔵は、かなりの演

    浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。
  • 「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3

    前回までは「文永の役」について書いたが、結論として「文永の役」については鎌倉武士はよく元・高麗連合軍と戦い、「神風が吹いて敵軍を追い返した」という説は元・高麗・日の史料を読む限りは考えにくいということだ。 では二回目の元寇である「弘安の役」についてはどうなのか。この戦いについては、『元史』も『高麗史』も「暴風」があったことを明確に書いているのだが、なぜ敵軍は台風の多い時期に日に来たのかずっと疑問に思っていた。 この時遠征軍は数の上では14万人もの大軍で、中身は蒙古、(旧)南宋、高麗の混成軍である。内訳は東から日を攻める蒙古・高麗の『東路軍』4万人と、南から日を攻める(旧)南宋の『江南軍』10万人だ。 『八幡愚童記』によると、蒙古は日を占領しそこに移民するために、穀物の種や農耕具までを大量に船に積込んでいたと言う。 『高麗史』を読むと、東路軍が朝鮮半島の合浦を出発したのは(弘安4年

    「弘安の役」で5月に出港した蒙古連合軍が台風に襲われたのは何故か~~元寇その3
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    shibayan1954 2017/11/06
    三ヶ月も戦いが長引いたために台風シーズンに突入したことを考えると、蒙古軍の作戦失敗などもあるのだが、ここまで戦争を長引かせた日本の武士の頑張りを、もっと正当に評価すべき事ではないだろうかと思う。
  • 熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2

    前回は、蒙古軍が最初に日を攻めてきた「文永の役」については、元や高麗の史料を見る限りでは「神風」が吹いて蒙古撤退させたとは考えにくく、最近の教科書では「神風」が出てこないことを紹介した。また当時の日側の史料には「神風」が吹いて蒙古軍を撤退させたとする記録があるのは、幕府にとっても、また幕府の要請を受けて「蒙古退散」祈祷してきた寺社にとっても、「神風」があったことにした方が都合が良かったからではなかったか、ということを書いた。 いつから教科書の内容が変わったのかは良くわからないが、私も含めて、二度とも暴風雨が蒙古軍を退散させたと学んだ世代にとっては、元寇については大規模な戦闘は行われなかったし、わが国には大きな被害はなかったというイメージが強いのではないかと思う。 しかし「文永の役」に「神風」が吹かなかったことを知ってから、「元寇」のことをもう少し詳しく知りたくなって調べてみると、日

    熾烈を極めた「文永の役」の戦闘でよく闘った鎌倉武士たち~~元寇その2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    文永の役について『元史』では蒙古軍の撤退の理由を「統率を失い、また矢も尽き」と書いている。武器が底をつけば、これからまだまだ繰り出される日本軍には全滅することになると考えるのは当然ではないのか。
  • 「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1

    学生時代に学んだ歴史では二度にわたる蒙古襲来を終息させたのはいずれも「暴風雨」だったと記憶しているが、こんな国難の時に二度にわたり自然の力に救われたことは、人知を超えた偉大な力によって奇跡的に国が守られたようなイメージを多くの人が持つことだと思う。 「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があってはじめて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力なのだそうだ。 たとえば、市販されている山川出版社の高校教科書『もう一度読む山川日史』では、文永の役に関する記述は昔の教科書とは異なるようである。 「元寇」の復習も兼ねて、この教科書を引用してみる。 「1274年(文永11年) 、元は徴発した高麗の軍勢をあわせて対馬・壱岐をおかし、九州北部の博多湾に上陸した。太鼓やどらを打ちならし、毒をぬった矢や火薬をこめ

    「文永の役」で蒙古軍を退却させたのは「神風」だったのか~~元寇その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/06
    「神国思想」は二度の蒙古襲来時に二度とも「神風」が吹いたと言う話があって初めて成立するような考え方だと思えるのだが、最近の研究では第一回目の文永の役では「神風」は吹かなかったという説が有力である。
  • 秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

    天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・糧を運びながら、なぜ、能寺の変からわずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思う。 能寺の変は6月2日の朝だが、そもそも信長が死んだという情報が届かなければ秀吉は動けない。しかし秀吉が毛利と和睦したのは2日後の6月4日である。能寺の情報は6月3日か4日の未明時期には秀吉の手元に届いていたことになるのだが、この情報が届くのがそもそも早すぎるし、また毛利との交渉がまとまるのも早すぎ

    秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5
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    shibayan1954 2017/11/05
    秀吉の「中国大返し」。情報入手ののち毛利軍との和睦交渉をまとめたうえで、武装した集団が武器・食糧を運びながら、なぜ、本能寺の変からわ​ずか10日で山崎に着くことができたのだろうかと誰しも疑問に思​う。
  • 家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

    歴史の定説では、「能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」) また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名跡を継いだ人物である。 家康に関する小説やドラマを見ても、またブログの記事を見ても大半が同様な内容になっている。 前回記事で、当時の史料を読むと家康と光秀はつながっていた可能性が高いことを書いた。 ある読者から質問が来て、もし家康と光秀とがつながっていたとしたら光秀軍が襲ってくることはありえないのだから、家康生涯の最大の危機と言われている「神君伊賀越え」というのは何だったのかという質問を受け

    家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    本能寺の変を知った家康は、落武者狩りなどの遭遇を回避するために、僅かの供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、命からがら三河に帰ったことになっているが、当時の記録では家康にそのような危険はなかった。
  • 明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

    能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。 能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日史」では 「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の能寺に宿泊中、家臣の明智光秀に攻められて敗死した(能寺の変)」(p.142) と、きわめて簡単に書かれているだけだ。 他の教科書も大同小異だが、共通しているのは光秀の単独犯行らしき書き方をしている点と、光秀が謀反を起こした動機については何も書かれていないという点である。 前回記事で信長暗殺が光秀の単独犯行説とは考えにくいような当時の文書がいくつも残されていることを紹介したが、そもそも光秀はなぜ信長を討つこ

    明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3
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    shibayan1954 2017/11/05
    本能寺の変で光秀は​なぜ信長を討つことを決意したのか。多数説は光秀の信長に対する怨恨説​だが、この説はつまるところ明智光秀の単独犯行説で、死んだ光秀に原因のすべてを擦り付ける意図がある可能性が濃厚だ。
  • 本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2

    前回の記事で、イエズス会のフロイスが書いた能寺の変に関する記述の一部を紹介した。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。 「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。 …兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。このようにして、信長が都に来るといつも宿舎としており、すでに同所から仏僧を放逐して相当な邸宅となっていた能寺と称する法華宗の一大寺院に到達すると、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。…」(中公文庫「完訳フロイス日史3」p.147) 明智軍は毛利攻めへの出動を信

    本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2
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    shibayan1954 2017/11/05
    本能寺の変は決して明智光秀の単独行動ではない。当時の史料には​明智軍の兵士たちは家康を討ちにいくと考えていた​記録がいくつかあるが、信長自身が罠を仕掛けていて、それ​を光秀と誰かに逆手に取られたのだ。
  • 本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

    上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。 秀吉によって移転され再建された能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。 天正10年6月2日、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都の能寺で主君信長を襲った「能寺の変」については何度もドラマ化されて、知らない人がいないくらい有名な事件だが、この事件で織田信長の遺体が見つからなかったという記録があることを最近になって知った。 信長は能寺で自刃したことになっているのだが、遺体が見つからないのになぜ自刃したと言えるのか、誰が自刃するのを見たのか、なぜ死んだと言え

    本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    なぜ信長の遺体が見つからなかったのだろうか。木造建築物が火事になった場合の温度は1000度程度だ。「生きながら焼死」したのがわかっているのであれば、この温度で骨が残らないのは不自然だ。
  • 「明治天皇すり替え説」を追う

    2年以上前にこのブログで「明治の皇室と仏教」という記事を書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-125.html 内容を簡単に振り返ると、明治政府は明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、上古以来、宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である京都の泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃することになった。その時に3人の皇族の女性が明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否したことを記事の中で紹介したのだが、皇族の男性が反対したことがなぜか見えて来ないのである。 私はこの記事でこのように書いたのだが、その気持ちは今も同じである。 「皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇に

    「明治天皇すり替え説」を追う
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    土佐藩出身の田中光顕が「明治天皇は孝明天皇の皇子ではない」と述べ、学習院院長を務めた元宮中顧問官の山口鋭之助氏も、元首相の岸信介氏も同様のことを述べているという。明治天皇はすり替えられたのか。
  • 戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

    前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。 「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬をべることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。 それよりも、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」という秀吉の問いの方が私には気になった。 秀吉の質問に対するコエリョの回答では「彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅した。」とキリスト教信者が勝手にやったことだと言っているのだが、キリスト教の信仰を始めたばかりの信

    戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/05
    「伴天連追放令」を読むと、寺社の破壊が伴天連追放の理由の1つになっている。当時キリスト教徒が寺社を破壊したことは、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが詳細に書き残している。誰が寺社を破壊させたのか。
  • 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現 習近平とパックンが支那人犠牲者数を3500万人とか1000万人~2000万人とか出鱈目を主張

    ↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓ 嘘吐きパックン「日の皆さんは知らない方が多い。大戦で中国やアジアの方は何人くらい亡くなっているか?」 習近平国家主席が国連総会で初の演説「日帝国主義との戦いで3500万人の中国人が犠牲になった」戦勝国の立場を強調! http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2600699.html 中国・習主席が国連演説 “戦勝国”の立場強調 9月29日05:07、TBS 中国の習近平国家主席は、国連総会で初めての一般討論演説に臨み、第二次世界大戦での戦勝国との立場を強調しました。 「歴史は鏡です。歴史を教訓にしなければ、失敗は繰り返されます」(中国 習近平 国家主席) 習近平国家主席は、「日帝国主義との戦いで3500万人の中国人が犠牲になった」と主張し、第二次大戦の戦勝国だとの立場を強調しました。その上で、「歴史

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    shibayan1954 2017/11/04
    支那民衆を大量に殺害した犯人が日本軍ではなく支那軍だったことは、ルシアン・ビアンコ著『中国革命の起源』や郭沫若自伝『抗日戦回想録』や劉震雲著『温故一九四二』などにも明確に述べられている。
  • 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4

    前回の記事で、龍馬を斬った人物とされる今井信郎の証言をもとに甲斐新聞の結城礼一郎記者が明治33年(1900)に「近畿評論第17号」に寄稿した記事の一部を紹介した。(下の画像は暗殺現場となった「近江屋」) 前回記事では、今井信郎の他に京都見廻組の誰が加わり、誰からの指示で斬ったのかという部分を紹介できなかったが、「近畿評論第17号」で結城はこう書いている。 「それで11月15日の晩、今夜はぜひというので、桑名藩の渡辺吉太郎というのと、京都の與力で桂迅之助(桂早之助)というのと、他にもう一人、合計4人で出かけました。私は一番の年上で26歳、渡辺は24歳(実際は26)、桂は21(実際は28)だったと思います。」 「渡辺ですが、松村とも言っておりました。なかなか胆の据わった男で、桂も若さに似合わぬ腕利きでありました。惜しいことに2人とも鳥羽で討ち死にしてしまいました。 (この時記者は他にもう一人と

    坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その4
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/04
    もし京都見廻組が京都守護職の指示により龍馬を仕留めたのならば「暗殺」ではなく「公務」であり、記録に残っていないのはおかしい。幕府方が関与したのではなくむしろ維新の中心勢力が関与したと考えるべきである。
  • 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3

    以前、龍馬を暗殺したのは誰かについて2度にわたりこのブログで書いた。 そこでは、この事件の黒幕がいたかどうかについては諸説があるが、暗殺の実行犯については京都見廻組で、龍馬を斬ったのは今井信郎だというのが定説になっていることを書いた。しかし今井の言うことを全く信用しなかった土佐藩の谷干城(たにたてき:第二代学習院院長、初代農商務大臣)もいる。どちらが正しいのだろうか。 明治33年(1900)に今井信郎は甲斐新聞の記者・結城礼一郎の取材に応じ、自分が龍馬らを斬ったことを詳細に語った記事が「近畿評論第17号」という雑誌に掲載された。その記事の一部を次のURLで読む事が出来る。 http://www.ryomadna.net/ryoma-ansatsu/20070907000004.php 今井信郎は仲間の三人とともに、松代藩士を騙って近江屋の二階に上がってからの部分をしばらく引用させていただく

    坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか~~その3
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    shibayan1954 2017/11/04
    薩摩関与説は龍馬暗殺直後から噂され、その年の「肥後藩国事史料」にも12月11日「坂本を害候も薩人なるべく候事。」という記述があるという。事件直後に公文書で薩摩関与説の記録が残っている事は注目して良い。
  • 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2

    前回は、坂龍馬暗殺の実行犯が京都見廻組の可能性が高いことと、黒幕がいるとする諸説の中で薩摩藩黒幕説について書いた。今回は別の黒幕説を書こう。 龍馬の出身である土佐藩にも、黒幕とされている人物がいる。良く名前が出てくるのは後藤象二郎だ。 大政奉還のアイデアは龍馬のものであることは今では多くの人が知っているが、当時土佐藩参政であった後藤象二郎は、龍馬が発案した策をそのまま受け入れて、藩主山内容堂の承認を得た後、慶応3年10月3日に、徳川慶喜公に進言した。1カ月後に土佐に戻り、山内容堂から破格の賞与を授かり家老格に抜擢されるのだが、当時は大政奉還の発案は後藤によるものと考えられており、龍馬によるものであることを知る人は少数であったらしいのだ。 後藤象二郎説は、龍馬のアイデアのパクリが山内容堂公らに発覚するのを恐れて龍馬を暗殺したという話なのだが、もしそのことが理由ならば、龍馬の発案であることを

    坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~その2
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    shibayan1954 2017/11/04
    政治的な動機や個人的な動機ではなく、経済的動機で龍馬が殺されたと考える説もある。龍馬が暗殺されて巨額の富を手にした人物が臭いという考え方である。 「いろは丸」事件で巨富を手に入れたのは誰か。
  • 坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~ その1

    先日友人と飲んでいたら、たまたま坂龍馬の暗殺に誰が関わったかが話題になった。友人は私の知らない話をいろいろ披露してくれて少し興味を覚えたので、龍馬の暗殺事件についてちょっと調べてみた。 坂龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋の二階で暗殺されたのは慶応三年(1867)11月15日だが、誰が殺したかについては当時から諸説がある。 当初は新撰組が疑われていたが、後に京都見廻組の佐々木只三郎外数名であるとし、龍馬を斬ったのはその中の今井信郎であるというのが今では定説になっている。 上の写真は佐々木只三郎だが、京都見廻組とは幕末期に幕臣により結成された京都治安維持のための組織で、新撰組とともに反幕府勢力を専門に取り締まっていた。 上の写真が今井信郎だが、戊辰戦争を生き抜き箱館戦争で取り調べを受けた今井信郎の明治3年の証言では、自分は見張り役だったと主張し、禁固刑を経て釈放されている。 ところが今井は、明

    坂本龍馬の暗殺は誰がやったのか ~~ その1
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    shibayan1954 2017/11/04
    坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたのは慶応三年11月15日だが、誰が殺したかについて当初は新撰組が疑われたが後に京都見廻組であるとされ、龍馬を斬ったのは今井信郎であるというのが今では定説になっている。
  • なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3

    前回まで2回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。 通説では犯人は安重根という事になっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、伊藤の最も近い位置にいた室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。室田の証言が正しければ、安重根が撃った5発の弾はいずれも伊藤には当たらず、伊藤は別の人物によって上方から狙撃され命中したものが致命傷になったことを意味する。 室田義文は詳細な証言を残したのだが公式書類から抜き取られて、前回紹介した若狭和朋氏の論文(「伊藤博文暗殺■安重根は犯人ではない」)の表現を借りると、わが国政府はこの事件を「安重根の凶行として幕にした」、ということになる。 他にも同様な証言があったようなのだが、ではなぜ

    なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/04
    伊藤博文の近くにいた室田義文をはじめ、暗殺犯人は安重根ではないことの証言があったにもかかわらず公式書類から抜き取られてしまった。なぜわが国政府は室田らの証言を隠蔽して幕引きをはかったのだろうか。
  • 伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2

    韓国最大の発行部数を誇る「朝鮮日報」という新聞の日語サイトに、今年の3月24日付で「安重根の公判記録を隠した日」という記事が出たようだ。この記事は多くの人が注目して、2ちゃんねるやさまざまなブログなどで紹介されている。 今回のテーマに関わる部分なので、記事の肝心な部分を引用しておく。記事の全文は、次のURLで読むことが出来る。 http://asia-news.doorblog.jp/archives/24925872.html 「今月26日に没後103周年を迎える安重根の公判記録のうち、3分の2以上(68%)を日が隠していたことが分かった。 隠された記録の中には、安重根の遺体の行方を明らかにする手掛かりとなる死刑執行報告書も含まれていた。 国史編さん委員会の李泰鎮(イ・テジン)委員長は20日『現存する旅順の裁判所(関東都督府地方法院)の安重根に関する公判記録は、計173件のうち55

    伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/04
    ロシア兵に取り押さえられた安重根は7連発式のブローニング拳銃で狙撃し、撃ったのは5発であった。しかし伊藤博文の体内に残っていた弾丸は、二発のフランス騎馬銃の弾丸であった。暗殺犯人は安重根ではないのだ。
  • 韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1

    わが国の初代首相であった伊藤博文は、明治42年(1909)10月26日にハルビン駅頭で、韓国の独立運動を進めていた安重根によって射殺されたというのが定説になっている。 韓国では、安重根は抗日戦争の英雄と評価され、1970年にはソウルに「安重根義士記念館」が建設されるなど、まるで韓国の国民的英雄扱いだ。 しかし、伊藤博文を暗殺した犯人は安重根でないという説が、随分昔からある。 そもそもこの時に伊藤博文の随行員として事件現場にいて、自らも5発も銃弾を受けたものの一命を取り留めた貴族院議員の室田義文(むろたよしあや)が、「伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない」と断言しているようなのだが、なぜこのような重要な証言が永年無視されてきたのかと疑問を持たざるをえない。そもそも安重根が撃った銃弾は5発なのだ。伊藤、室田の他にも4名の随行員が撃たれているのだ。 室田義文の証言の話に入る

    韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
    shibayan1954
    shibayan1954 2017/11/04
    伊藤博文は、明治42年10月26日にハルビン駅頭で、韓国の独立運動を進めていた安重根によって射殺されたとされている。暗殺事件の翌日に韓国皇帝(高宗)は伊藤のことを「韓国の慈父」だと述べたのだがそれはなぜか。