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ノーベル賞
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水樹奈々さんの「ビューティフル」帝国劇場、前から4列目のど真ん中で観た。 伊礼彼方くんが水樹奈々さんの相手役をすると言う、 何が何でも観に行かなければ、と勇んで出かけた。 物語は「キャロル・キング」の個人ヒストリー、彼女が作曲し、歌った数々の名曲が歌われる。聞いたことある楽曲や歌手やグループ名が、僕がラジオかじりついて聴いていた同じ時代に、それらが語られ歌われて生まれてくる場所ではこういうことが起こっていたんだな、ってこと、1960年に15歳だった僕が50年以上も経ってから追体験できるって、それだけでジーンとしてしまう。 だから物語には入りやすい、分かりやすい。 水樹奈々さんは素敵だった、かわいかったし、懸命に生きたクリエイターの姿が彼女の歌を通じて伝わってくる。 そこが伝わったので何も問題はない。 でも、僕には少し物足りなかったように感じられた。 そう考え始めたのは、水樹さんはもしかした
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「レ・ミゼラブル」を帝劇で観て来た。 僕のイメージしている「レミゼ」はそこにはなかった。 僕はこの演目が好きで今まで何十回観たか記憶にないほど見慣れている芝居だ。今年もつい数か月前にロンドンで観ていて、ああ「レミゼ」っていいなって思っていたから余計違和感があったのかもしれない。 いつ観ても感動が来る、階層社会の壁と人生の不条理さに立ち向かう人の精神の強さ、階層なんかには価値がなく一人の人間が誠実に生き自分では全うできなかったロマンを次代に託す、ココロ深く届いて幕が下りても椅子から立ち上がりたくないと感じたばかりだった。 今回の演出は見慣れた「レミゼ」をかなり変化させていて、その変え方が何を目的として居るか分からなかった。もちろん演出家には何かしら変える目的があるはずで、それがこの演目の持つドラマ本来の意図をその演出家なりに増幅させたいと思ってのことだとは思うが、そうした意図は残念ながら僕に
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