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ノーベル賞
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新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 きょうは、落合地域にも江戸東京にもまったく関係のない、わたしが子どものころ、特に印象に残った“山”がテーマの記事だ。わたしは基本的に山よりも海のほうが好きなのだが、山Click!にもテントや食料、飯盒などを背負ってけっこうキャンプに出かけていた。この記事は、幼い時代の覚え書きということで……。 ★ 子どものころ、少年少女世界のノンフィクションというようなシリーズ本で、標高9,040mもある“謎”につつまれた世界最高峰の山が中国に存在する……という記述があったのを、なぜか急に思い出した。それが、どのような本だったのか探しまわってみたら、金の星社が1967年(昭和42)に出版した「少年少女・世界のノン・フィクション
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 かなり前の記事で、鳥居龍蔵が関東大震災Click!の焼け跡を眺め、東京市街地の随所に築造された多数の古墳を観察・調査してまわったエピソードをご紹介Click!した。それら古墳の多くは、オフィス街や住宅街、道路などの建設によって破壊され、もはや現存していない。山手線の駅名になった大塚(大塚稲荷古墳)も、昭和初期に宅地開発で破壊されてしまった。もともと寺社の基盤として利用されていた古墳は、大震災後に再びそれら境内の下に隠れてしまった。 東京には、旧字(きゅうあざ)として大塚Click!や丸山(円山)Click!、稲荷山、摺鉢山Click!など、いわゆる古墳地名が数多く存在しているが、江戸時代の市街地造成や農地開拓で
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 萩原稲子(旧姓・上田稲子)が、大森のバッケ(崖地=八景)Click!に通う八景坂の途中、首くくり松の木陰で若い画学生の恋人とキスしていたのを、夫である萩原朔太郎に目撃されたのは、1928年(昭和3)ごろのことだった。・・・こういう書きだしではじめると、萩原稲子は夫・朔太郎に離婚されてあたりまえの、ふしだらな浮気女のように感じるのだが、実情はそれほど単純ではなく、まったく異なっていた。萩原朔太郎は、妻が自分以外の男とダンスをし、恋愛関係になるのを眺めることに一種の快感をおぼえる、変態的で奇妙な性癖をしていたのだ。 上田稲子(のち萩原稲子)は、旧・金沢藩の家臣の家柄に生まれ、屋敷は旧・加賀藩上屋敷(そのほとんどが現
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。 当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのもの
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 日本は「漫画大国」だといわれるけれど、その歴史が詳細に語られることは案外少ない。たいがい、1945年(昭和20)の敗戦からスタートするか、せいぜい戦前の『のらくろ』(田河水泡Click!)、あるいは『冒険ダン吉』(島田啓三)や『ノンキナトウサン』(麻生豊)、『東京パック』の北澤楽天あたりまでで、またアニメでは戦時中の「ディズニーを超えるため」に国策として制作された、『桃太郎 海の神兵』(瀬尾光世/1944年)などがたまに登場するだろうか。 もともと新聞や雑誌などに漫画を描く作者たちが、岸田劉生Click!や木村荘八Click!などに象徴されるように、本格的なタブロー画家を兼ねているケースが多かったのと、専業漫画
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 公的な機関や大きな図書館ではなく、学校にきわめて貴重な資料類が残されていることがある。特に設立が古い学校には、公的に保存されたが震災や戦災で喪失した記録、あるいは逆に公的には保存されなかった記録が眠っているケースが多い。これは学校の関係者やOBが寄贈したり、学校自体が独自に調査・研究するために蒐集した例も少なくない。 目白の学習院大学Click!の史料館(あるいは図書館)に残された写真類には、これまでまったく未見のものや、断片的な複写では見たことがあるものの、紙焼きの原版では一度も目にしたことのない写真が数多く保存されている。たとえば、明治期の写真だけでも437点が確認できるが、この数は1945年(昭和20)5
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 また、非常に貴重な戦時資料をある方からいただいた。淀橋区(現・新宿区の一部)が密かに作成した、空襲に備えた防火帯造りのために住宅街を打(ぶ)ち壊す「淀橋区建物疎開地区図」(秘)だ。おそらく、この計画図はサイパン島の陥落が予想され、東京が長距離爆撃機の空襲圏内に入りそうな1944年(昭和19)の春以降に策定がスタートし、同年夏には具体的な計画案として区民に発表され、秋以降には順次実施へ移されたとみられる。新宿区の資料DBにも登録されていないので区にも保存されていない、たいへん貴重な戦時資料のようだ。 「建物疎開」が幅20mにわたって行なわれた、目白通りClick!の南側と長崎の目白バス通りClick!(練馬街道)
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 東京西部の郊外Click!から静養もかね、藤沢・鵠沼に引っ越した岸田劉生Click!は1923年(大正12)9月1日、関東大震災Click!に遭遇している。関東大震災は、相模湾のプレートへもぐりこんでいるフィリピン海プレートの海溝部(相模湾トラフ)が震源のため、地震の予兆は東京地方よりも湘南海岸のほうが、より顕著に表れていたのではないかと考えた。鵠沼時代の劉生は、日記を毎日欠かさずつけていたので、その予兆を記録している可能性が高い。 10万5千人の生命を奪う巨大地震の予兆は、どのようにして現象化していたのだろうか? 1923年(大正12)になって、さっそく劉生日記には地震の記録が登場する。1979年(昭和54)
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 関東大震災が語られるとき、下町の被害が大きかったせいか、山手(やまのて)の被害が語られることはほとんどないに等しい。事実、武家屋敷町だった山手線内側の旧山手、および山手線の両側にあたる明治期以降の新山手は、下町の罹災者たちが地震の直後から大勢避難してきており、大学のキャンパスや公園、橋の下などにはテント村や仮設バラック住宅ができていた。 たとえば、新宿区の下落合・目白界隈を見てみると、明治期末より東京府営住宅が建てられ、大震災の前年である1922年(大正11)からは目白文化村(第一・第二文化村)が開発されていたにもかかわらず、全壊家屋はたった2棟Click!と、きわめて軽微な被害にとどまっている。この2棟の住宅
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 現在、高田馬場駅Crick!の南側を東西に走る諏訪通りで、補助72号線(補助74号線)※のトンネル工事が行われている。諏訪通りは、1979年(昭和54)から拡幅工事が実施されたのだが、西武新宿線と山手線をくぐるガード(アンダーパス)のところが従来のままの道幅となっていたため、ガード幅を明治通りへと抜ける諏訪通りと同じ幅に南側へ拡げよう・・・というのが、今回の工事の主旨だ。 ※当初、本記事に登場する諏訪通り(東西道)の工事を補助72号線としていましたが、同線は山手線アンダーパスの東側交差点を南北に、新宿東口から高田馬場駅前を経て、新目白通りまで貫通予定の拡幅予定線のことで、諏訪通りの東西道工事は補助74号線計画で
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 またしても、気になる動きが目立ってきている。1972年(昭和47)より落合地域にずっと建っている新宿区立中央図書館が、早稲田大学理工学部の南隣り、旧・西戸山中学校の跡地へ移転するというのだ。落合地域から大きな図書館がなくなってしまうのは、いつも利用しているわたしとしてもたいへん残念だ。もし、中央図書館が移転するとなると、新宿区の西北部の落合地域には、中野区との境界に近い小規模な西落合図書館のみとなり、図書館の空白地帯が生じてしまいかねない。逆に、旧・戸山ヶ原とその周辺には、大久保や早稲田を含めて多くの図書館が東西に並ぶことになってしまう。でも移転の懸念は、そんなところにだけあるのではない。 現在、豊島区の郷土資
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 新宿歴史博物館で、「佐伯祐三-下落合の風景-」展覧会Click!の準備が着々と進んでいる。当初は、佐伯祐三Click!とその周辺にいた関わりの深い画家たちが、その作品とともに紹介される予定だったのだが、佐伯作品が想像以上に集まり、また関連資料もいろいろと充実してきたため、歴博の企画展示室は佐伯作品と資料とでいっぱいになってしまいそうなのと、下落合(新宿)に住んだ佐伯ゆかりの画家たちの数も多いため、一気に展覧会を開いてしまうのではなく、将来的に順次継続して、グループや表現系統ごとに美術展を企画していきましょ・・・ということになった。落合地域をはじめ新宿界隈に住んでいた、佐伯に直接関係のない画家たちまで視野を拡げれ
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 木村荘八Click!のエッセイを読んでいたら、ちんやか今半か、ももんじ屋かあるいは別の店だかは忘れてしまったけれど、子供のころに連れられて入ったすき焼き屋Click!の女中さんが、白足袋ではなく青足袋をはいていたのを思い出した。青足袋は、もちろん男用の足袋であり女性がはくことはありえないのだけれど、すき焼き屋あるいは牛鍋屋などの肉料理屋の女中さんのみが青足袋をはく“お約束”になっていた・・・という、木村の文章を読んで思い当たったのだ。わたしが小学生のころだが、いまだ戦前の(というか明治・大正期の)東京の習慣が、そのまま伝わって残っていたのだろう。子供心にも、それは違和感のある光景として記憶にこびりついたにちがい
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 明智小五郎と怪人二十面相の闘いを読んでいると、つい笑ってしまうことがある。文字どおり「笑って」しまうのだが、このふたり、自身を誇示しようとするとき、あるいは自分のほうがアタマがよく、先読みができて余裕のあるところを相手に思い知らせようとするとき、必ず「ははは・・・」と笑うのだ。1979年(昭和54)の講談社版『江戸川乱歩全集』から、ふたりのやり取りを引用してみよう。 ● 「ははは・・・・・・、きみはすこし興奮しすぎているようですね。ぼくには、こんなことは、いっこうにめずらしくもありませんよ。だが、二十面相君、きみにはすこしお気の毒ですね。(中略)」 そんなふうにいうものの、明智もなかなかたのしそうでした。ふかく
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 1927年(昭和2)7月29日、朝鮮から中国を経てシベリア鉄道で二度めのパリへと向かうために、佐伯祐三Click!と米子・弥智子の家族3人は下落合のアトリエをあとにした。途中、京城の親友で画家仲間の山田新一Click!の家へ立ち寄るのだが、そのとき一行は倍の6人になっていた。パリへと向かう佐伯一家には、ひとりの女の子が同行している。佐伯家の長女・杉邨(佐伯)文榮の娘で、パリで洋裁の勉強をしようと留学を考えた、のちにハーピストとなる杉邨ていだ。 京城の山田新一邸へ立ち寄った6人とは、佐伯一家の3人と杉邨てい、さらに見送りにきた佐伯祐三の兄・祐正と杉邨ていの父・章作だった。杉邨ていは、パリ14区のプールヴァール・デ
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 わたしが15歳まですごした神奈川県の海っぺりでは、北条政子Click!の存在感がきわめて大きい。源頼朝よりも、地元でははるかに“有名人”かもしれない。湘南の中央に平塚という街があるが、政子さん(たぐい稀な存在なので、つい「さん」付けで呼んでしまうクセがある)が死去したとき、巨大な墓塚が築かれたのだけれど、もともと砂丘地帯だったために風化で平らになってしまい、それ以来「平塚」と呼ばれるようになった・・・などという、まことしやかな伝承がある。もちろん、江戸期あたりに作られた出来の悪い付会だろう。政子さんの伝承やエピソードは、学校の授業や資料にもたびたび登場した。それだけ彼女の存在感が神奈川の、ことに南部では大きいの
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 『東京10000歩ウォーキング』シリーズ(明治書院)の編著者である籠谷典子氏より、ご丁寧な手紙をいただいた。尾崎翠の旧居跡について、ご自身でも検証・確認され訂正くださるとのこと、同シリーズが当初出版された牧野出版時代からの愛読者のわたしは、とってもうれしい。 ★ 1927年(昭和2)4月から翌1928年(昭和3)6月にかけ、尾崎翠Click!が暮らした上落合三輪850番地の2階家Click!の写真が手に入った。といっても、写っているのは1930年(昭和5)5月から入居していた林芙美子で、尾崎翠ではないのが残念だけれど、家の風情や部屋の様子はなんとかわかる。おそらく、1階に洋間の書斎(客間?)を備えた造りで、2階
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 わたしの江戸後期の先祖には、どうやら町火消しがいたようなのだが、それが纏(まとい)を預かるほどの規模だったのか、それともいずれかの町火消しに属して家内の何人かが加わり活動していたものか、詳細はわからない。なにしろ、江戸はしょっちゅう火事にみまわれていたのだから、なにかの書付や書物など記録の類は、なかなか街中では残らない。明治以降も、関東大震災Click!や東京大空襲Click!で多くの貴重な資料が灰になった土地柄だ。 最近、「江戸歴史検定」とかいうのが盛んで、江戸時代をテーマにした“試験”までが存在するそうだ。そういう試験やTVクイズなどで、よく出されそうな問題に町火消しのテーマがある。「享保年間に南町奉行の大
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 いまの東京では、「すき焼き」と「牛鍋」の概念がごっちゃになっている。おそらく大正末ぐらいだろうか、誰かが東京の「牛鍋」を見て「すき焼き」と勘違いし、東京の「すき焼き」は割下を先に入れて肉を焼かない・・・なんて、トンチンカンなことを言い出したようだ。この早合点、またしても三田村鳶魚Click!風に言わせてもらえば、「知れなかったから穿鑿して了解したのであらう。明白に請取れる解説でない」ということになる。江戸/東京の一部をピンポイントで見ても、それが「東京では・・・」とすぐに一般化することはできないのだ。 東京の「すき焼き」は割下を先に入れる・・・という“神話”は、おそらく関東大震災で復興が遅れた地域(主に濹東地区
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 いつもナカムラさんが貴重な情報をお寄せくださる、画家・竹中英太郎の下落合暮らしについて、ちょっと書いてみたいと思う。ある出版社の編集者の方から、わざわざ竹中英太郎に関する資料をお送りいただいた。2006年に出版された、備仲臣道の『美は乱調にあり、生は無頼にあり~幻の画家・竹中英太郎の生涯』(批評社)だ。 竹中英太郎は、1923年(大正12)の関東大震災で大杉栄と伊藤野枝、そしてわずか6歳の橘宗一が憲兵隊に虐殺Click!されたのを知ると、当時暮らしていた熊本で激昂する。口の中を噛み切り、出血するほどの怒りだったようだ。竹中は、大杉たちを殺した権力へ報復するために、要人暗殺を決意し懐中に匕首を呑んで、同年の12月
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 竹久夢二が、愛人の笠井彦乃と逢瀬を重ねるため、人目につかないようひそかに下落合で暮らしていたことは、ほとんど知られていない。日本橋の西河岸延命地蔵Click!の裏に開店し、離婚の話し合いが進む妻・たまきに経営をまかせていた「港屋絵草紙店」を飛び出して、彦乃との本格的な同棲生活が始められるよう、夢二はまず目白駅の外側、下落合に仮住まいを探した。そして、この仮住まいで夢二と彦乃は結ばれている。 1915年(大正4)の春、夢二が借りた下落合の家がどのあたりだったのか、はっきりとはわからない。下落合に住んだ夢二は、わずらわしい外界とのコミュニケーションを断つかのように、笠井彦乃との甘い生活に没入していった。だから、手紙
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 最近、ラッシュ時に走る「女性専用車両」が目につく。地下鉄ではあまり目にしないので、地上線に多いようだ。あるいは、導入されている区間や時間帯にもよるのだろうか? チカン対策あるいは混雑時の危険防止なのだろうが、わたしは地下鉄を利用することが日常的に多いので、朝たまたま地上線に乗ったりするとめずらしくて気がつく。きょうは女性の乗客がやたら多いな・・・と思っていると、知らずに女性車両のホーム位置へ並んでいたりする。 「女性専用車」の発想は、別に新しいものではない。東京では、明治期の鉄道から導入されていたしくみだ。早くから取り入れられたのは、「甲武線電車」すなわち現在のJR中央線だった。しかも、当時は車両の一部を女性専
新宿の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用については一報いただければ幸いです。無断使用はご遠慮ください。 これまで拙サイトには、岡田七蔵Click!のネームが4回ほど登場している。最初は、築地にあった作家で翻訳家の桑山太市朗邸Click!に滞在し、その際、宮崎モデル紹介所Click!からモデルを呼んで、三岸好太郎Click!らとともに裸婦のタブローを描いたエピソードだ。ちょうど草土社が解散して、同社のメンバーが春陽会へ合流した時期と重なり、画家たちは草土社風の画風から脱却しようと試みていた時期にあたる。 次いで岡田七蔵が登場したのは、鈴木良三Click!が証言する『芸術無限に生きて―鈴木良三遺稿集―』(木耳社/1999年)に記録された、吉田博・ふじをアトリエClick!(下落合2丁目667番地)のある不動谷(西ノ谷
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