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本のなかには時に、何冊もの他の本へと誘ってくれるキーとなる本がある。 田中純さんによる『都市の詩学』という一冊もそうだ。 これまで、この本を起点として読んだ(読み途中のものも含め)本には、カルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』、中井久夫『徴候・記憶・外傷』、ホルスト・ブレーデカンプ『ダーウィンの珊瑚』、アルド・ロッシ『自伝』の4冊がある。 どれも『都市の詩学』のなかで紹介されていて読んでみたくなった本なのだが、共通点があるのに気づいただろうか? どれも記憶あるいは歴史といったものを扱っているということに。 ギンズブルグと中井さんの本にはそれぞれタイトルに「歴史」や「記憶」があるからいうまでもないし、ダーウィンを扱ったブレーデカンプの一冊が進化論という大きな自然史を扱っていることもわかるだろう。そして、アルド・ロッシの『自伝』は彼の自分史である以上に、建築の記憶を探る本であったりする。 『都市の
イメージと思考との関係について考えることが好きだ。 言葉にならないものをイメージで表現するといったりする。もちろん、イメージを使えば言葉と異なる表現ができるのだけど、だからといって、イメージが表現しているものを言葉で説明することを怠ったりするのは、あまり好きじゃない。イメージを表現に使うにしても、その背後には思考があってほしい。とうぜん、それが言葉による思考である必要はないし、思考をイメージで表現するのではなく、イメージによる表現自体が思考であればいいのだけれど、そもそもの思考がないなら、それは好みではない。 むしろ、言葉にならないものを表現しているからこそ、イメージそのものが表すものについては、言葉で表現されたもの以上に言語化する方向で思考を巡らせたほうが面白いはずだ。 田中純『歴史の地震計』中の図版「ムネモシュネ・アトラス」のパネルの1枚 だから、アビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・
物事を総合的な視点で見ようとせず、ディテールばかりを見て論じてしまうがゆえに、議論が空虚なものになることは少なくない。議論されている全体を理解できないがゆえ、自分で見えている断片だけを取り上げて、そこだけから全体の評価を行おうとしたりする会話が多くなればなるほど、議論は無意味なほうに進む。 複数人の議論だけではなく、個人の思考においても、全体を見ずに、断片的に切り取った部分の集積だけで云々すると、訳のわからない妄想が生まれがちだ。もちろん、それをあえて文脈を外してスペキュラティブな問いを生み出そうとしているなどの意思があれば全然別の話なのであるが。 そんなことをロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のこんな記述を読みながら思いだした。 文脈から切り離すことは、文脈を消滅させることと同じく、秩序正しい真実あれこれを壊すのに有効である。 ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生け
訳あって九鬼周造の『「いき」の構造』を読み返した。 本というものは面白いもので、どんなタイミングで読むかによって印象が大きく変わる。 今回はひとつ前で紹介したジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』や『内的体験』、あるいは、シェイクスピアの『オセロー』や『アントニーとクレオパトラ』などを読んだばかりだったこともあって、ヨーロッパと日本における恋愛観や性の問題の捉え方、あるいは、自然観(人工観)の違いについて考えることができたように思う。 この本のテーマは、江戸期に生まれた日本人の美意識である「いき(意気)」であり、著者はそれを日本独特の美意識として捉え、哲学的な分析を行っている。 結論からいえば、著者は「いき」をこう定義している。 運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。 九鬼周造/『「いき」の構造』 ようは男女の間(まあ、人によっては同性間の
以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。 人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。 エルネスト・グラッシ『形象の力』 ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。 しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目
難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。 あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。 明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。 企図されたもの。明らかすぎる知識。 わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。 それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。 「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もう
人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。 だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。 例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があ
常々、思う。 たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。 もっと大事なこと。 それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。 知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。 その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。 だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。 そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。 だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって? いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。 もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。 だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。 で
シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』。 その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。 張喩、つまり、誇張表現。 それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。 それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。 まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、ま
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか? シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。 その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。 無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまって
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、ちょっと調子が悪い。いや、体調ではない。 頭のなかをすっきりさせておくことがむずかしいと感じるのだ。 「保守的なものへの対処法」。 それがここ最近ずっと頭を悩ませてる問題だと思う。 この週末直前、その悩みは結構マックスになってて苦しくなってきてストレスフルなので、何かにすがりつこうと思って、思いついたのがマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』。 有名な『メディア論』が書かれたのが1964年。その2年前の1962年に書かれたのが、この『グーテンベルクの銀河系』だが、僕は整理されすぎた『メディア論』より、タイトル通りの銀河のように様々なキラキラしたテキストがパッチワークされたこっちのほうが断然好き。 もう何年前に読んだかわからないくらい、読んでから時間が経ってると思って
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 1つは、モノや人があちらからこちらに移動したりすることによる変化である。 トランスフォーマーの変形のようなものも同じだ。場所の移動により形態は変化しても、実はそれぞれの要素は何も変わっていないから、理論的には元の状態に戻すこともできる。 その意味では、建物を建てたり、服を作ったりというのも、この種の変化といってよいのかもしれない。部品を加工しちゃうから完全には元に戻せないということはあったとしても、これは可逆的な変化といってよい。 そして、もう1つの変化は、メタオルフォーゼ的な変化。変態だ。 サナギが蝶になったり、子供が大人になったり、蕾ができ花が咲き実になるような変化。これは不可逆的な変化で、元に戻すことはできない。 だから、イノベーションとかもこっちに入るんだと思う。逆
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。 芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。 前回、紹介した、『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。 「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということにな
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。 そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。 創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。 創造のスタートと
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 編集的に思考できる力がいま必要だ。 世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。 ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。 単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。 いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。 逆にいえば、状況を自分
倫理などというものは時代によって大きく変わる。 人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。 なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。 正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。 例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。 そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。 処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。 その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。 本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。 だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「創造」とか「イノベーション」という言葉より、「生成」という言葉のほうが、何かが新しく生みだされる様をその背後のしくみまで匂わせるという観点からはしっくりくる。 ようは前者の人為的なクリエイションがなんとなく陳腐に感じてしまい、後者の自然が何かを生みだす力のほうにより大きなクリエイティビティを感じてしまうのだ。実際、どんなに人工的なものでも、創作の根本には自然の影響がある。創造性を発揮する人間の思考そのものさえも。 もちろん、人為的なクリエイションを否定するつもりなどは毛頭ない。 ただ、人為的なクリエイションを考える際、今後はこれまで以上に、自然の創造力を人為的なクリエイションにどう活かせるか(あるいは、どう影響を受けているか)ということを視野に入れていくとよいのだろうと感
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 カオスを前にして、ただただ混乱してパニックになるだけか、それともカオスをなんとか制御する手立てを発見しようとカオスのディテール、全体の動向を共にみて思考を巡らせるか。基本的には知的に考えるということは、後者のような態度をいうはずだ。 その後者の態度をむずかしくさせるものこそ、すでにわかりきって整理された状態である。 それはもはや制御されすぎていて、どう制御すればよいかを問う余地がないのだから。 その意味ではカオス(混沌)の逆はコスモス(秩序)ではない。真にカオスの反対に位置するのは、操作された状態だろう。 外にあるプログラムを疑うことなく、それに操られて日々スムーズに動き続ける状態。何にも悩まないし、何にも躓くことはない。すべては苦もなく手に入る。 もちろん、そこまで完璧に
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ウリッセ・アルドロヴァンディという16世紀のイタリア・ボローニャで生まれ育った有名な博物学者がいる。1522年に生まれ、1605年に没している。 アルドロヴァンディが有名なのは、自身がイタリア各地で採集した植物を中心として、めずらしい動物や鉱物の膨大な数の標本を集めたミュージアムを開設し、そこに国内外から多くの博物学者が訪問したからだ。 アルドロヴァンディはミュージアムに彼自身が学問的に価値があると捉えた様々な品を集めただけでなく、自らの蒐集品を元に動植物誌の編纂を試みた。そのため、多くの画家に収蔵品を素描させているのだが、その中にはドラゴンや人面鳥などが当たり前のように混ざっている。 これは現代から見れば非科学的で、とても学問的には思えないのだけれど、それがおかしく思える
前に、友人のフランス人女性が言っていた「日本語には美味しいを示す言葉のバリエーションが少ない」という言葉が記憶に残っている(正確には、その女性がそう言っていると彼女のパートナーの日本人男性が教えてくれた)。 一方、フランス語には、美味しいを表すたくさんの表現があって、例えば、 C'est bon !C'est délicieux !C’est succulent !C’est excellent ! のような表現がある(日本語にしようとしても、どれも「美味しい」になってしまいそう)。 もちろん、これに très をつけて、C'est très bon !(とても美味しいです)と言ってみたりもするから、確かに日本語にはない「美味しい」の言い分けのバリエーションができる。 「美味しい」という言い方にバリエーションなんてなくてもいいじゃないかと思うかもしれない。けれど、そうじゃない。 フランスで
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 定形をデフォルトとみるか、はたまた変形のほうを常ととらえるか。 後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。 そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。 起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。 エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。 ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事
文脈がわからなければ「わからない」。 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』の著者・西林克彦さんはそう言っている。 言い方を変えれば、「わかる」とは、既知の文脈に、その直前までわかっていなかったことがピタッとあてはまることで起こる心の動きだということができる。 いや、わかっていなかったことじゃなくてもいい。 すでにわかってたことでも、それが今までの理解とは別の文脈にあてはまり、別の意味がそこから見えてきたときも人は「わかった」となるはずである。 西林さんもこんなことを書いている。 文脈の交換によって、新しい意味が引き出せるということは、その文脈を使わなければ、私たちにはその意味が見えなかっただろうということです。すなわち、私たちには、私たちが気に留め、それを使って積極的に問うたことしか見えないのです。それ以外のことは、「見えていない」とも思わないのです。 既知の事柄でも、それを理解
「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」 そう。わかりにくいのは対象そのものに宿る問題ではない。むしろ、対象に向かう側の姿勢の問題である。 わかる力がないことが、何かがわからないという際の根本的な問題なのだ。 では、どう、問題なのか? 「理解力が無いと、自分がすでに持っているものしか求めない」 そう。わかっているものしかわからない。 つまり、わかるということ自体、最初から最後まで対象の問題ではなく、わかる側自身の問題なのだ。 対象についてわからない場合だけでなく、対象についてよくわかっている場合でも、わかるということはわかる側のものなのだ。 「だから」と、『サイスの弟子たち』という未完の小説のなかの一連のセリフの最後をノヴァーリスは締めにかかる。 「それ以上の発見にはけっしていたらないのさ」と。 発見のなさとは自分自身の殻にとじこもり、知的冒険に赴こうとしない、不可解
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ぼんやり過ごしすぎてはいないだろうか。 自分がどんな状況にいて、その状況が自分にどう見え、感じられているかをちゃんと自覚しているだろうか。 自分の行動や感情がそれら状況にどう影響され、あるいは、逆に自分の存在、言動、感情が周囲の状況にどう影響を与えているのか。そういうことをどれだけ自分自身で認識しており、その制御が可能な状態になっているだろうか。 認識すること、そして、その認識を言葉をはじめ、なんらかの技術を用いて表現できるようにすること。 それが世界とうまくやっていくための基本である。 対人関係であろうと、仕事一般のことであろうと、自然を相手にした科学であろうと同様である。 対象の観察からそれを自分にどう見え、感じられているかを理解し、それを自分の言葉なり、その相当物に移
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ルーヴル美術館ドゥノン翼の2階、俗にイタリア回廊と呼ばれるギャラリーには、長いまっすぐな廊下の両側にルネサンス期以降のイタリア絵画の名作がずらりと並んでいる。アンドレア・マンテーニャなどの初期ルネサンスの作品をはじめ、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリ、ラファエロ・サンティなどの盛期ルネサンスの画家の作品、そして、マニエリスム期に入ってのポントルモなど、どれもこれも日本の美術館での企画展なら主役級の作品ばかりで圧巻だ。 ただ、当然ながら、その時代の絵画は多くの作品が宗教画なので、キリスト教の物語に疎い日本人には解説なしだとどう見ていいかわからなくてちょっととっつきにくい部分があるだろう。 そんな中、異彩を放つのが綺想の画家アルチンボルドによる連作「四季」なのだが、それ
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前回、リサーチをテーマに書いていてみた。 リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。 だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。 自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること。 そういうことが本来、リサーチという活動の根本的な動機としてあるのだろうと感じる。 そんな風に自分の好奇心に従って、自分自身の頭やからだを動かしてみること。 人生において、そういう時間の割合をどのくらい、作ることができるかどうか。そんなことがこれからますます問われてくるん
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、「リサーチ」について考えている。 どちらかというと「研究」という意味でのリサーチ。でも、もうすこし曖昧に「知りたいことを知ろうとする活動」という意味でリサーチというものを捉えている。それは学術的な意味でのリサーチであっても、産業分野でのリサーチ、デザインリサーチでもいい。あるいは個人的な趣味の範囲でのリサーチも含めて、とにかく「知りたいことを知る」ための活動としてのリサーチがこれから、どう変化していくのか(あるいは、すでに変化しはじめているか)ということに興味がある。 まさに、「これからのリサーチ」についてのリサーチをしたいという思いである。 そんなことをあらためて考えはじめるようになったきっかけの1つは、"我々人類は変わりつつある。人類は自分の創り出したものとあまり
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「ヴィッラの庭園には、ユーモラスな彫刻や、お人好しの訪問客を冗談にずぶ濡れにする剽軽な隠し噴水や、ユーモア満点に彫刻や絵画を詰めこんだ奇矯でウィット満点の人工洞窟があった」。 これが『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』で著者のポール・バロルスキーが描くルネサンス文化のイメージだ。 ユーモラス、冗談、剽軽、奇矯、ウィット……。 ルネサンスと聞いて、すぐさまこれらの印象を思い浮かべる人がどれだけいるだろうか。 それくらい、バロルスキーが教えてくれるルネサンスのイメージは、通常のルネサンス像とは距離があるように思う。そして、この距離感こそが僕の興味をひいたものの正体だ。僕は違和感に興味をひかれる。 「この剽軽精神のすべてを一点に凝集した感のあるのが、シエ
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