サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
TGS2024
inri.client.jp
■■序章:“ナチ・ハンター”の異名を持つサイモン・ヴィーゼンタール ●1995年1月に、日本のジャーナリズム界を震撼させる事件が起きた。 この事件は、アウシュヴィッツのガス室に疑問を投げかける記事が、雑誌『マルコポーロ』(文藝春秋社)に載ったのがきっかけだった。 ●この記事のことを知った、アメリカのユダヤ人組織「サイモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)」は、ロサンゼルス駐在日本領事の駐米大使に抗議し、さらにその後、イスラエル大使館とともに文藝春秋社に抗議した。 また「サイモン・ヴィーゼンタール・センター」は『マルコポーロ』への広告差し止めを呼びかけ、フィリップモリス、マイクロソフト、フォルクスワーゲン、三菱自動車などが広告出稿を拒否することになった。 (左)『マルコポーロ』廃刊号 (右)問題となった記事 「戦後世界史最大のタブー、ナチ『ガス室』はなかった」 ●結局、文藝春秋社側は一方
■■第1章:ヒトラーは遥か未来を透視していた!? ■三島由紀夫がヒトラーについて語った言葉 「ところでヒトラーね。彼がやったことは世界中の人が知ってる。だけど、彼がほんとは何者だったのか誰も知っちゃいない。ナチの独裁者、第二次世界大戦の最大戦犯、アウシュヴィッツの虐殺者、悪魔……。これがいままでのヒトラー観だけど、ほんとはそれどころじゃない。 彼のほんとの恐ろしさは別のところにある。 それは彼が、ある途方もない秘密を知っていたってことだ。人類が結局どうなるかっていう秘密だ。彼は未来を見通す目を持っていて、それを通じて、その途方もない未来の秘密に到達しちゃった」 「だから五島君。もしきみが10年後でも20年後でも、ヒトラーのことをやる機会があったら、そこんところをよく掘り下げてみることだ。もしきみにいくらかでも追求能力があれば、とんでもないことが見つかるぜ。ほんとの人類の未来が見つかる。やつ
●『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)という本があるが、この本は1941年から1944年にかけて、ヒトラーが側近に語りかけた会話を速記録してまとめ上げたものである。 当時、ヒトラーから最も信頼されていた秘書のマルチン・ボルマンが速記録を訂正、また本人から承認を取り、かつ個人保管していた資料なので、俗に『ボルマン覚書』とも呼ばれている。 (左)ヒトラーに忠実な側近中の 側近だったマルチン・ボルマン大将 (右)『ヒトラーのテーブル・トーク』 ボルマンはドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、 副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるった。 ヒトラーの卓上談義を記録した『テーブル・トーク』は、 「公式記録」として残されたものであり、俗に 『ボルマン覚書』とも呼ばれている。 ●この本の「解説序論」で、イギリスの高名な歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーは次のように書いている。 オックスフォード大学の歴
●19世紀のイギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていたユダヤ人の一家があった。この一家は、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。両親は、車に雑貨品を積んで売って歩く、引き売りの街頭商人として暮しを立てていた。 子どもが11人おり、その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、どの学校に行っても、悪い点ばかりとっていた。といって、彼は頭が悪いというわけではなく、学校の授業システムにうまく合わなかったからである。 ●この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。 そのとき父親は、息子に2つの条件をつけた。1つは、金曜日のサバス(安息日)が始まる前に、必ず母親に手紙を書くことだった。というのは、母親を安心させるためである。2つ目は、父親自身、年をとってきたし、また
■クリミア半島のハザール人 ●ハザール王国は極めて国際的な国であった。ハザール王国は近隣諸国と盛んに交易を行い、ハザール商人は中継貿易をしていた。7世紀末にハザール王国に併合されたクリミア半島の港町カッファ(現フェオドシア)は、交易の拠点として特に重要な都市であった。ここを拠点にして、ハザール商人はイタリアのジェノバやベネチアにも進出していった。 11世紀から16世紀にかけてジェノバやベネチアの商人たちは、クリミア半島のことを「ハザリャ」とか「ガザリア」と呼んでいたが、これは「ハザール」に由来している。また、ジェノバとベネチアの商人のほとんどはユダヤ人であった。 10世紀初頭のハザール王国 ●1243年、ハザール王国の首都だった場所に「キプチャク汗国」が誕生したが、ハザール人の一部は、王国崩壊後もクリミア半島に残り続けた。ハザール王国の交易の拠点として特に重要な都市であったカッファは、依然
●第二次世界大戦におけるヒトラーの行動は「謎」に満ちている。 大戦初期の第三帝国は大いに戦果をあげ、ほぼ全ヨーロッパを手中にした。 ところが、1941年以降、ヒトラーは不倶戴天の敵である共産主義国家のソ連への無謀な侵攻、世界一の強国であるアメリカに対する無謀な宣戦布告と、いわゆる「自滅政策」を取り始める。 これにより第三帝国は徐々に劣勢へと追い込まれるわけだが、なぜヒトラーが「自滅政策」を取ったかは今もって謎とされている。 ヒトラーは最初は“ドイツの救世主”として多くの国民に愛された。 しかし1941年を境にしてヒトラーの人生は急速に「暗転」している。 この年、ソ連侵攻と真珠湾事件がきっかけで米ソに宣戦布告したのである。 ※ ヒトラーはソ連への侵攻を短期決戦で終わらせる予定であったが、目論見 通りいかず、泥沼化。現場は撤退を進言するが、ヒトラーはそれを容れず 戦線を維持しろと叫ぶばかりであ
■■序章:はじめに ●一般にヒトラーは「キ○ガイ」の代名詞であり、“20世紀最大の悪魔”とも称せられる。 ヒトラーは性的変質者で睾丸がひとつしかなかったなどとまことしやかに言われ、彼が精神異常者であるという印象はごく自然に多くの人に受け入れられている。 アドルフ・ヒトラー ヒトラーは1889年4月20日、 オーストリアのブラウナウで生まれた。 1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、 翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した。 ●ナチスの迫害を受けていた精神分析学の創始者であったユダヤ人ジークムント・フロイトは、ヒトラーを「狂人がなにをしでかすか予想できない!」の一言で片付けてしまったように、 ナチス第三帝国崩壊後、多くの精神医学者もヒトラーを「精神病」と見なしてきた。 ジークムント・フロイト ※「精神分析学」を創始した オーストリア生まれのユダヤ人で、 1938年にナチスに
●ヒトラーがまだ無名だった時代、その出現と災禍を予告したオーストリア人がいた。 その男の名は人智学の創始者ルドルフ・シュタイナー。 そしてまた、ヒトラーのオカルト的精神が最も敵視したのが、同じ神秘主義の世界に生きたこのシュタイナーだった。シュタイナーは、ヒトラーが「唯一、完全に抹殺したい」人間であったと言われている。 ルドルフ・シュタイナー (1861~1925年) ●思想家、教育家として著名なルドルフ・シュタイナーは、1861年、オーストリア・ハンガリー帝国のクラリェヴェックに生まれた。日本では、シュタイナーは教育者として非常に著名な存在である。現在でも彼が提唱した「シュタイナー教育」と呼ばれる全人教育は、実践者も多数存在し、高い評価を得ている(現在、「シュタイナー学校」は全世界に500校近くある)。 ●シュタイナーは40歳までは、リベラルな文芸評論家として活躍していた。文芸雑誌を編集し
■Part-1 ヒトラーから厚い信頼を得ていたトップ・スパイのベラスコによると、ナチス製原爆の完成はアプヴェーア(ドイツ国防軍情報部)長官のヴィルヘルム・カナリスと、SS情報部長官のヴァルター・シェレンベルクから直接耳打ちされた情報だったという。 そしてベラスコによれば、これまで歴史家が伝えるロンメル将軍の自殺の原因は、ヒトラー暗殺未遂事件のかどでとされているが、実際は「ナチス製原爆横流し」の罪だったという。 ベラスコからの報告書「原爆ノート」によれば、ベルギーに保管中の原爆の管理責任者はロンメル将軍で、彼が連合軍最高司令長官のアイゼンハワー将軍に原爆を渡した、とある。その裏切り行為が発覚してロンメル将軍は処罰されたという。 (左)“砂漠の狐”の異名をとるエルヴィン・ロンメル将軍 (右)ドワイト・アイゼンハワー将軍(後の第34代アメリカ大統領) ベラスコが語る「ナチス製原爆」の真相を大雑把
■■第1章:いつからシオニズム運動は暴力的な運動になったのか? ●一般にシオニズム(Zion主義)とユダヤ思想の違いはあまり意識されることはない。 そのため、シオニズムとユダヤ思想は同じものだと思っている人が多い。しかし本質的に、シオニズムとユダヤ思想は別物である。 また、シオニズム運動は、現在のような人種差別的なイデオロギーと軍事思想に基づいたシオニズム以外にも、幾つかの流派があり、初期のシオニズム運動は比較的穏やかな性格のものであった。しかし、次第に強硬路線を唱える者たちに乗っ取られていく。 この点を理解しておくのは非常に大事なので、シオニズム運動の歴史を少し振り返ってみたい。 (左)聖地エルサレム=シオン(Zion)の丘 (右)エルサレム旧市街 シオニズム運動とは一般的に「ユダヤ人がその故地“シオン(Zion)の丘”に 帰還して国家を再建する運動」と解されている。ここでいう“シオンの
●ナチス体制下ではSS(ナチス親衛隊)を中心として「ゆりかごの数が柩(ひつぎ)の数を常に上回る時にのみ輝かしい将来がある」と考えられ、出産が奨励された。また「ドイツ女性はすべて花嫁になれるとは限らないが、母親ならば全員がなれる」ともいわれた。 ヒトラーは女性の役割について、きわめて保守的な考えを持っており、 「女性の本分は主婦と母親にある」と考えていた。そのため、男子の場合は 未来の戦士の養成に主眼が置かれていたのに対し、女子の場合は 単に未来の母親を育てることのみが強調された。 ●1935年12月、ナチス・ドイツの首都ベルリンに「レーベンスボルン(生命の泉協会)」が設立された。協会長にはSS全国指導者個人幕僚本部のマックス・ゾルマンSS大佐が就任した。 「レーベンスボルン」はSS隊員と関係をもった未婚の女性が出産する施設で、生まれる子供は人種・遺伝的に問題がないとされた。これは人種政策が
●1996年1月末、エチオピア系ユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。 さらにイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。 ●これに対して、エチオピア系ユダヤ人たちは、「エイズ感染の危険性は他の献血にも存在する。我々のみ全面破棄とは人種差別ではないか!」と猛反発。 怒り狂ったエチオピア系ユダヤ人数千人は、定期閣議が行われていた首相府にデモをかけ、警官隊と激しく衝突した。 イスラエル国内は騒然とした。あるユダヤ人たちは言った。 「この騒ぎは、かつてのアラブ人たちによるインティファーダ(蜂起)に匹敵するほどのものであった」と。 1996年1月29日『朝日新聞』 ●このニュースが流れたとき、エチオピア系ユダヤ人とは一体何者か? なぜエチオピア系のユダヤ人
■■序章:はじめに ■1991年のソ連崩壊に伴い独立したウクライナ ●1991年に「ウクライナ」という国が旧ソ連から独立した。温暖な黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い国である。この国南部のステップ地帯には、黒土(チェルノジョーム)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていた。 ウクライナの国旗 ※ 旧ソ連時代にウクライナはロシアに次ぐ 第2の共和国として経済的・人材的にソ連邦を支えた ●1986年、この地域で「チェルノブイリ原発事故」が起きた際には、唯一の被爆国である日本から多くの専門家が派遣されて話題になったが、一般にウクライナは日本人にはあまりなじみのない国といえよう。 (左)ウクライナの地図 (右)1986年4月にウクライナ北部の チェルノブイリで原発事故が起き、世界を震撼させた ●しかし、東欧ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナの歴史を知ることは非
■■第1章:ハザール人と「ハザール王国」の誕生 ■北コーカサス地方で最も力のある種族となったハザール人 ●ハザール(英語で「Khazar」、カザールともいう)の揺籃の地は、カスピ海沿岸の草原の地である。この草原には多種多様な民族が居住し、東方の旅行家・地誌家も、またビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家も、これら諸民族が絡む様々な事件・事変について記録を後世に残している。 ↑今でも民族紛争が絶えない黒海とカスピ海の周辺地域 ※ 文明の十字路に位置するコーカサス(ロシア語でカフカス)地方は 5000m級の山が連なるコーカサス山脈を境に北と南の地域に分かれる ●ただし、ハザール人がいつ頃登場したのか具体的な記録はない。448年、ビザンチン帝国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、「戦士民族」としてのハザール人が登場している。この時期のハザール人はフン族の配下で活動していたようである。
■■第1章:“世界の片田舎”としてのヨーロッパ暗黒時代 ●1490年代は、ヨーロッパ人にとって画期的な時期であった。イタリアン・ルネサンスが最高潮に達し、一方では、1492年以後、コロンブスなどがカリブ海の島々を発見し、新大陸への道が切り開かれたからである。 一般に、1492年から1520年代までは「大航海の時期」だといわれている。そして、この時期から輝かしいヨーロッパの時代が始まり、近代が開幕したといわれている。と同時に、この頃から世界は連動し、一体化し始めたといわれる。 ●しかし残念ながら、これは誤りである。ヨーロッパは、長年(18世紀の半ばに至るまで)“世界の片田舎”の存在として、歴史の主要舞台に登場することができなかった。アメリカにいたっては、建国自体が18世紀の末である。ある種のロマンをもって語られがちなヨーロッパの中世と近世は、じつは戦争と飢餓と疫病に苦しめられ、オスマン・トル
●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」(MIC)を形成している。 ●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。 そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。 「ロスアラモス研究所」 この研究所は1943年、原爆の開発を目的として ニューメキシコ州
●ヒトラーは早い段階から南極大陸に目をつけていたことで知られている。 当時、南極大陸は無主地(有効に支配する国が存在しない土地のこと)で世界のどの国も南極大陸に対して所有権を主張するものはなかった。1930年代後半まで実際に探険されたのは全大陸の15%に過ぎなかった。 ●1938年、「南極を獲得するぞ!」というヒトラーのかけ声とともに、ナチス・ドイツの南極探検が開始された。 ヒトラーは腹心のアルフレート・リッチャーに南極遠征を命じた。それを受けて、リッチャーは総勢57名(探検隊員33名と船員24名)の遠征隊を組織し、カタパルト船シュワーベンラント号で南極を目指した。 (左)ナチス・ドイツの南極遠征隊 (右)遠征隊の 隊長を務めたアルフレート・リッチャー カタパルト船シュワーベンラント号 ●1938年12月17日にハンブルクを出発した船が、南極クイーンモーランド沖に投錨したのは翌1939年1
●日本には、いかに考古学上貴重な場所であろうと、決して発掘調査を行うことの許されない禁断の「聖域」が幾つかある。仁徳天皇陵をはじめとする、天皇家の秘密に触れる場所がそれに当たる。 そのため、現在の正史における古代日本の姿は、神話と伝説が入り交じり合っていて、かなり不明瞭なまま放置され続けている。 ●ところで、日本史には人類学的にも文化的にも大激変が起きている時期(4世紀前後)が存在しているのをご存じだろうか? 顕著なのが「墓」で、それまで丘に過ぎなかった墳墓から前方後円墳など複雑な形へと変化し、弥生時代の祭祀用具の代表であった「銅鐸」が、突然、製造中止。青銅が中心だった金属器も、「鉄器」が使われるようになる。さらに彫りが深くがっしりした縄文人に近かった体型が、彫りが浅い大陸系の体型に変化し、なぜか、それまで行われていた「入れ墨」の習慣が消滅。 そして4世紀後半になると、この文化的大革命の様
●モサドはイスラエルが世界に誇る情報機関である。 1948年に独立した時、イスラエルには情報機関が5つあった。 第1は「シン・ベト」(別名「シャバク」)で、主に国内保安を司る機関でアメリカのFBIに匹敵する。 第2は「アリア・ベト」。当時アラブの国々から新生イスラエルに逃げてくるユダヤ人は多く、彼らの脱出を援助したのがこの機関である。 第3は外務省の情報部。第4は警察の情報部。第5が「シャイ」と呼ばれる対外諜報を専門とする機関だった。 イスラエルの国旗 ユダヤ人の国イスラエルは、 戦後1948年5月に中東に誕生した ●1951年に情報界の再編成によって「シャイ」は解体され、2つの機関に分かれた。その一つが軍諜報の「アマン」で、もう1つが「モサド」だった。 「モサド」とはヘブライ語の「諜報及び特別工作」の略である。主に国外での情報収集を任務としている。 各情報機関は、首相も出席する「インテリ
■■第1章:ヒトラーの少年時代 ■極めて裕福な家庭で育てられていたヒトラー少年 ●ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアのブラウナウで誕生した。 赤ん坊時代のヒトラー ヒトラーには自分を含めて6人の兄弟がいたが、 彼と妹パウラを除いた他の4人はことごとく幼児や 乳児の時に夭折(ようせつ)してしまった。早死にの “血の系譜”に生まれたことに対する恐怖心はヒトラーの 無意識に取り憑き、生涯彼を苦しめたといわれている。 ※ ちなみに、ヒトラーには腹違いの兄と姉がいた。兄の アロイス2世は、14歳(ヒトラー7歳)の時に家出して、 以後、二度とヒトラーの家に現れなかった。姉のアンゲラは 娘ゲリの死後、エヴァ・ブラウンと対立し、1935年に 「ヒトラーの山荘」から退去。その直後に、マルティン・ ハミッチュ教授と再婚したが、アンゲラは異母弟の ヒトラーに拒絶された恥辱で苦しんだという。 ●ヒトラー
… ヘブライの世界へようこそ … 当館は「明と暗」を含む古今東西の ヘブライ情報を豊富に用意しておりますので お好きなフロアでゆっくりしていって下さい PENTAMAN (HN:フェニックス) …「初代管理人」→引退 … 「INRI委員会」(旧・INRI2039委員会) 活動休止前に新「バージョン2」を作成(増築) 旧「ヘブライの館」→「ヘブライの館2」=復刻版 ※ 現在は「ヘブライの館」復刻委員会が 役割分担して管理運営しています ■ごあいさつ ●「ヘブライの館」に訪れていただきありがとうございます。 20世紀は2つの「世界大戦」が起こり、人類は過酷な体験をしました。21世紀はさらに激動の時代になると予感していますが、再び世界が「暗闇」で覆われた時代に逆戻りすることがないよう、人が人として個性的に生きられる「明るい社会」が末長く続くことを願っています。 当館では、現在世界で取り沙汰されて
●ヒトラーの命令で、ナチス・ドイツは南極探検を実施していた。 ナチス・ドイツの南極探検について興味のある方は、当館作成のファイル「ナチス・ドイツの南極探検」をご覧下さい。 (左)アドルフ・ヒトラー (右)ナチス・ドイツの旗 ●当時の各国は、ナチス・ドイツが南極に軍事基地を作るとは考えていなかった。場所が南極では、ヨーロッパから遠く、あまりに不便な土地であるため、効果よりも費用のほうが大きいことは明らかだったからである。 ナチス・ドイツの南極進出は少なくとも「現在の脅威」ではなかった。その証拠に、南極地方でのドイツ軍の動きに注意を払う国はほとんどなかったが、北極地方(ヨーロッパからは近い)におけるドイツ軍の軍事拠点づくりには、多くの国が過敏に反応していたのである。 (左)1938年、南極にナチス・ドイツの旗を立てる遠征隊の科学者たち (右)ナチスの南極遠征隊に与えられたバッジのデザイン ●と
No.A7F_rosicrusian 作成 1998.2 「薔薇十字団」の謎 薔薇が象徴的に描かれた 薔薇十字文書『至高善』の扉絵。 上の文字は「薔薇は蜜を蜂に与える」 と訳すことができる。 ■■■第1章:人々を熱狂させた「薔薇十字団」の登場 ■■ドイツで噂になっていた「薔薇十字団」がパリにも出現? 30年戦争という混迷の時代に突入した1623年のパリの街で、不思議な事件が起きた。「薔薇十字団長老会議長」という署名の入ったポスターが、一夜にしてパリの街中の壁に貼り出されたのである。そのポスターには次のような意味不明の言葉が記されていた。 「我ら薔薇十字団の筆頭協会の代表は、賢者が帰依する、いと高き者の恩寵により、目に見える姿と目に見えない姿で、当市内に滞在している。われらは、本も記号も用いることなく滞在しようとする国々の言葉を自在に操る方法を教え導き、我々の同胞である人類を死のあやまちから
●1971年7月に、全てのパレスチナ・ゲリラ組織が最終的にヨルダンから追い出されて以来(「ブラック・セプテンバー事件」)、PLOはその本部をレバノンのベイルートに移した。 そしてレバノン南部を活動基地としてイスラエルに対するゲリラ攻撃を展開し続けた。 レバノンはイスラエルの北に位置する国である(右は中東全体の地図) ●一番困ったのはレバノン政府である。 突然のパレスチナ人の大量流入とイスラエルの執拗な報復攻撃は、レバノン内部で築かれていた微妙な勢力バランスをぶち壊した。イスラエル政府はレバノン政府に対して、PLOのテロ活動をどうにか止めさせるよう圧力をかけるが、弱小なレバノン政府には到底無理なことだった。レバノン政府は1万5000人の軍隊しか持っていなかったため、ヨルダン国王のような強い態度をPLOに示すことはできなかったのである。 レバノンの国旗 ●そこで、レバノン政府はPLOとある合意
■■序章:“大いなる秘密”を探し当てた神秘の超人グルジェフ ■強烈なカリスマ・エネルギーを放射 「彼は20世紀最大のオカルティストであった」──G・I・グルジェフをそう呼んだのは、彼の評伝を書いたコリン・ウィルソンである。 実際、グルジェフは人に圧倒的な印象を与える人物だった。 1917年のロシアで彼に初めて会ったアンナ・ブトコフスキーは言っている。 「相手の心を刺し通すような(といって不愉快な感じではない)目つき……生き生きとした言葉……私はここに座り、遂に一人の導師の前にいるのだ、と感じたのだった」 また、1920年にコンスタンチノープルで彼に会ったJ・G・ベネットは「私はそれまで見たこともない不思議な目を見た。その2つの目ひどく違っていたので、明かりのいたずらではないかと思った」といい、1948年のパリでグルジェフに会った医師ケネス・ウォーカーの夫人は、さらにはっきりこう言い切ってい
■■序章:自動車が大好きだった独裁者アドルフ・ヒトラー ●ヒトラーは自動車が大好きだった。 国政で多忙をきわめていた彼は、ストレス発散のためにしょっちゅうドライブにも出かけている。 ちなみに愛車はメルセデス・ベンツ。 彼がベンツを好んだ理由は、一度交通事故に遭ったとき、頑丈につくられた車体のおかげで無傷ですんだからだった。それ以来、彼はどこへ行くときもベンツに乗り、1932年の大統領選挙の時には、特別につくらせた青いベンツのオープンカーで遊説した。 メルセデス・ベンツに乗るアドルフ・ヒトラー ヒトラーはパワフルな車が大好きだったが、貴族的なマイバッハよりも スーパーチャージャーつきメルセデスを大いに愛用した。当時、メルセデスの スーパーチャージャーは独特な「メルセデスの悲鳴」と呼ぶ甲高い耳ざわりな 音を発生したが、それをワルキューレ(ワーグナーの楽劇)の悲鳴になぞらえる 人が多かった。ヒト
■■序章:はじめに ●今となっては意外に思われるかもしれないが、初期のヒトラー(1939年の第二次世界大戦勃発まで)は当時のドイツ国民から多大な信頼と支持を受けていた。 実際、ヒトラーはクーデターとか非合法的に世論を完全無視する形でドイツを“乗っ取った”のではなく、いちおう合法的民主的手続きを経て首相に就任し、政権の座についたのである(1933年1月30日)。 1933年にドイツ国民の選挙で誕生したヒトラー政権 ※ 第一次世界大戦の敗北による領土の喪失、天文学的な賠償金、 世界恐慌による失業者の著しい増大、共産主義者や無政府主義者の 騒乱による社会不安──。こうした状況下でドイツ国民は力強い メッセージを表明するヒトラーを支持していくことになる。 ※ ヒトラー率いる「ナチ党」は、1932年の選挙で 第一党となった。その際、議席は過半数には 満たなかったものの、保守派と連立して 1933年に
●ヒトラーにユダヤ人の血が混じっていたとの説がある。 この噂は1930年、ナチ党が一挙にドイツ第2の大政党に躍進したときに広まり始めたものであった。 ヒトラー自身もこの疑惑を抱き、その年の末、ナチ党法律局長のハンス・フランクに、自分の血統を念のために極秘に調べてくれと頼んだという。 すると、彼の父親が「私生児」であったとの事実が判明したそうだ。 (左)1933年に誕生したヒトラー政権 (右)アドルフ・ヒトラー(1889~1945年) ヒトラーは1889年にオーストリアのブラウナウで 生まれた。1933年に43歳の若さでドイツ首相に選ばれ、 翌年に大統領と首相を統合した「総統」職に就任した。 ●このハンス・フランクは、後にドイツ軍占領下のポーランド総督となり、ニュールンベルク国際軍事裁判で絞首刑に処せられたヒトラーの側近である。彼は死刑を待つ間に、『死に直面して』という本を著わしたが、その中
■■第1章:アメリカ社会の白人至上主義者 ●アメリカでは1960年代における「公民権法案」の成立以来、人種を理由にした差別は法律で禁じられてきた。「公民権法案」の成立により黒人への差別は違法化され、多くの黒人議員や市長が当選することとなった。 エンターテイメント業界においても、黒人のスーパースターが多く誕生し、黒人の地位は格段に向上。アメリカの人種差別は消滅したかに見えていた。KKKのような人種差別組織も、「公民権法案」の成立と共に勢力をなくして過去のものとなったかと思われていたのだ。 ●しかし、現実は違っていた。 彼らはその後も表面だった動きこそ控えるようになったものの、依然としてアメリカ社会の中に深く潜行し、巨大な勢力を温存していたのである。 ●白人至上主義者といっても、その実態は様々である。 彼らを構成する人々は、少々古臭い考えを持った主婦から金融業界で働くビジネスマン、軍服に身を包
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『inri.client.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く