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inujin.hatenablog.com
30代後半の頃。 あれほど、人生について悩み続けていた時期はなかった。 今になって振り返れば、30代という体力も気力も十分に残っている時期に、なんであんなに悶々と悩んで身動きが取れなかったのかと思うと、ちょっと惜しいことをしたなあとも思う。 思うけれども、しかしあれだけ悶々としてきたおかげで、今は余計なことを考えずに残りの人生を全うしようと思えるのだから、まあ仕方ないのだろう。 それにしても、なんであんなに悩んでいたのか、その真っ最中では冷静に考えられなかったけれど、今ならちょっとはわかるかもしれない。 ●力を持て余していた これは本当に、とてももったいないことなのだが、ぼくは明らかに当時、自分の力をどこに向ければいいのか、完全に見失っていたと思う。 一番の原因は、ずっと憧れていて、時間をかけてようやくたどりつけた広告クリエイティブの仕事から外されてしまったことだろう。 外されたからといっ
何度か書いている話だが、ぼくは、あの2020年の感染症が拡大した時期(あの頃のことを後世の人はなんと呼ぶのだろう。けっこう気になる)から、これまでとはまったく違う、新しい人生を生きる、と決めた。 具体的には、とにかく以前からやりたかったことに徹底的にチャレンジする、ということを決めた。 とはいえ、ぼくはとても保守的な人間なので、いきなり会社を辞めるとか、家族の反対を押し切ってシンガポールに移住するとか、そういうことは全くない。 今の環境の中でも、できることはいくらでもある、と思って、そういうことをいくつか挑戦をはじめた。 それがようやく今年に入ってから少しずつ実を結びはじめてきた感じがある。 やっぱりすぐに結果は出てこないんだなあと思う。 何事も、やはり3年はかかるのだ。 3年間の中で「ああ、これはうまくいかないな」ということもいくつも出てきた。 むしろ、ほとんどのことがそういう感じだ。
昨日、山奥でキャンプ場を運営している方から話をうかがった際、「偶然、何か面白いことが起こる」というのを大事にしている、とおっしゃっていたのが印象的だった。 何日間も同じ場所に滞在していると、そこで予定していたこととは違う面白いことが起こる。 それは、意外な獲物がワナにかかったとか、珍しい植物が見つかったとか、あるいは突然の雨が降ったせいで美しい虹が見れたとか、色んな形として現れるのだが、とにかくそういう本来予定していたこととは違うことが起こることこそ自然の中で暮らすことの醍醐味だというわけだ。 いやあ本当にそうだなと思った。 ぼくらは普段、とにかく物事が計画通りに進むことばかり気にしている。 目的を定め、目標を決め、それを達成するための予定を立て、その通りに実行できているか、そればかり気にしている。 それじゃあ面白くないに決まっている。 一方で、ぼくがずっと大事にしてきたことも、やっぱり「
先日、合気道の稽古中に「あ、この感じ、なつかしくて、楽しい、この感触って何だろう…」と思う瞬間があった。 冷房も効かない古い道場なのでじっとしているだけで暑いし、年季の入った畳は石のように固いし、おまけに年のせいで稽古する前から体はあちこち痛いし、特に楽しい要素はないはずなのだが、ふとそう感じたのだ。 なんというか、ぼくはいつのまにか、自分のやることに対して「何のためにやるのか」を異様に気にするようになっていたように思う。 この仕事をやるのは何のためか、この勉強をするのは何のためか、という感じで、何かちゃんとした目的がないとダメ、という強迫観念にとらわれてしまっていて、長年やってきた合気道ですら何のためにやるのか、みたいに考えるようになっていた。 いやまあ、表向きには色んな理由は言える。 護身のためとか、健康のためとか、集中力を鍛えるためとか、まあなんとでも言える。 でも、そう考え始めると
しばらく、ひどく忙しかったし、疲れていた。 何がそんなに疲れたのかというと、お金を稼ぐゲームに巻きこまれていたのだと思う。 巻きこまれていた、というとずいぶん被害者ぶった言い方だ。 自分から巻きこまれにいっていた、と言ったほうがいいかもしれない。 お金というものは本当によくできている。 あなたの稼ぎは今月はこれくらいしかありません、とはっきり数字で見せつけられる。 すると不安と焦りでいっぱいになる。 で、必死に努力をして、うまく達成すればとてもうれしくなるし、しかしいくらやってもうまくいかないと、自分の能力や存在価値を疑うようになったりする。 あるいは力のゲームに巻きこまれにいっていた、とも思う。 どっちが強い、どっちが弱い、ということばかり気にして、自分が本当に大事だと思っているほうを選べていなかったようにも感じる。 強いとか弱いとか、そんなことはどうでもいいはずなのに。 あるいはまたも
■ SNSで話をするのは難しい またTwitterのニュースを見かけた。 今度は長く利用されていない休眠アカウントを削除していくそうだ。 色々と不安定だなあと思う。 だけど、Twitterだけでなく、ぼくらの生活はもはやSNSなしには成立しづらい状況だ。 ところで、そういう大きなSNSというのはとても便利なのだが、淀川の花火大会のようにとても混雑している。 あちらこちらで誰かと誰かのもめごとが花火のように打ち上げられ、それを見物する人たちでいっぱいだし、これは稼ぎ時だと、おいしそうな料理や明日から仕事に生かせそうなノウハウやらを屋台を並べはじめる人たちもたくさんいる。 会場には色んなところに小さなステージがあって、ちょっとした有名人たちが何かを叫んでいて、見物客たちはそれを見て笑ったり、何やらヤジを飛ばしたりしている。 こういう状況の中では、ぼくらは名もなき群衆の一人でしかなくなってくる。
小島アジコさん(id:orangestar)のこのエントリを読んで、アジコさんが描く「はてなブックマークの公式キャラクター」をぜひ見てみたいなあと思うと同時に、いやあ本当に「遊び」がないなあ…と思った。 orangestar.hatenadiary.jp アジコさんは、こうおっしゃっていて。 昔はよかった論だけれども、昔は、インターネットでのやり取りって、どこか『遊び』の部分が大きかったと思う。ネットでいくら大暴れしてもその後ろには日常があって、いつでもそこに帰っていける。今は、インターネットこそが生活において現実で、現実世界の方も現実だけどそこに差異がなくなってしまった。むしろネットでのやり取りの方がリアル(この場合のリアルというのは『生活』がかかってるということ。『生活』には生計だけでなくその他もろもろ含まれる)になっていってるのが今だと思う。 いやあ、本当にそうだなあと思う。 いつか
今日は午前中は全然仕事をする気になれず、これは変に抵抗してダラダラとした時間をすごしてもしかたない、と思って、確認するべきことだけ確認してから、ちゃんと休むことにした。 午後すぐにあった打ち合わせでもまだぼんやりしていたが、そのあとじわじわとアイデアが沸き上がってきて、上司と話しているときに色々とヒントをもらって、おーこれだーという感覚が久しぶりにやってきた。 ぼくの場合、アイデアというのはいきなり降りてくるものではなく、もともと自分の中で何度も検討していたことだったり、強く心に残っていることがあって、何か使えないかなあとか思っているのである。ただ、だいたいの場合はそのままでは使えない。そのあと、色んな出来事があって、試行錯誤があって、壁にぶつかり、さてどうしたものかと思って悩んでいるあいだに、いい感じに発酵しているのを発見して、そうだ、この手があったぞと小躍りする。そんな感じのものなので
2022年は、ぼくにとってはそれなりに良い年だっと思う。 一つ一つのことを取り上げると、いやいやどこが良かったのだ、ひどいことばかりあったじゃないか、とも思えるけど、今年一年でどうだったか、と振り返ると不思議となかなか良かったんじゃないかな、と感じる。 一番大きいのは、長年手探りでやってきた仕事に少しだけ光が見えてきたことだろう。全く余裕はないし、常に失敗し続けているけど、以前のような完全に闇に包まれて、何をやってもうまくいかず、不完全燃焼の日々が続く、という状態からは脱出できたように思う。 脱出に必要なことは色々あるけど、一番は「アホになること」じゃないだろうか。いや、正確に言うと自分が「アホだと思い出すこと」か。 頭がいいようにふるまおうとしたり、物事をスマートにやろうとしたり、そういう「かっこつけ」がぼくにとっては一番危ない。 どう見られるかなど気にする余裕もないくらい必死にもがいて
あまりに当たり前のように使っていたので、考えたことがなかったが、ぼくにとってTwitterとは何だったのだろう。 2000年代前半 ぼくはインターネット的には、遅れてきた人間だ。 学生の頃のインターネットに関する共通の話題といえば2ちゃんねるだったが、自分で書き込んだことはない。 00年代前半の若手時代、担当していた得意先の経営者がやたらと2ちゃんねるの書き込みを気にしていて、自らずっと見ているという話を聞いて、うわ大丈夫かよ、と思ったのを思い出した。 そんなほんの一部の極端な意見を聞いて意思決定しちゃって大丈夫なのかと。 当時、ぼくにとってはインターネットでの匿名の誰かの意見というのは、そういうものだった。 インターネットはとても面白かったし、世の中にこんなに面白いことを考えている人たちがいるのか、というのはすごく刺激的だった。 でも、所詮はインターネット、光の当たらないところで素人がや
世の中、「ちゃんとしている人」が前提となっていることが多すぎるな、と思うことがある。 確定申告とかはまさにそうで、あんなに煩雑な作業を誰でもちゃんとやれることが前提になっていると思うとぞっとする。 あるいは車の運転とか、飛行機の搭乗手続きとか、パソコンの初期設定とかもそうだ。 原田宗則さんがエッセイでたくさんの苦手なことについて書いておられたけど、まさにそんな感じで、よくまあみんな、こんなに難しい世の中の仕組みを理解して使いこなしているよな、と感じる。 いや、むしろこの人間社会で生きるということは、社会の仕組みを理解し、そこにインストールされているOSに合わせて自分を順応させ、必要に応じてアップデートさせ続ける、ということを意味しているのかもしれない。 あるいは、普通の人というのはそんなことをわざわざ考えなくてもどんどん自動でアップデートし続けられるのかもしれない。 いずれにしたってそうい
氷河期世代はこれから高齢者になった頃に切り捨てられるのではないか、という話題に対して、本当にそのままでいいのか、というエントリをいくつか拝読した。 p-shirokuma.hatenadiary.com nyaaat.hatenablog.com www.ituki-yu2.net ほうっておくと、本当にそうなるかもしれない 若い頃に、労働組合で「成果主義への移行」を受け入れるかどうかという投票があった。 ぼくは反対票を入れた。 年功序列だからこそ、年を取るまで安心して会社で働ける。 もともと自分は昇給や出世のために働いているのではない。 仕事は好きだから、そんなインセンティブがなくても努力する。 それよりも、自分が年を取ったときのことを想像してみたら、金がなかったら困るじゃないか。 そう思った。 結果は、多くの若者たちが「上のやつらは働いてないのに給料をもらいすぎだ」という理由で賛成に投
なんとなく、朝を中心とした生活を試しはじめている。 朝型に変えづらい一番の理由は、朝の時間は短い、というところだと思う。 夜の場合は、睡眠時間を削れば、極端に言うと朝までずっと確保できる。 いつ終わるかわからないような作業や、たっぷり時間をかけてやりたいことがある場合、夜に手をつけたほうが安心だ。 特に企画をするときなどは、アイデアがいつやってくるかわからないので、できるだけ時間に余裕が欲しい。 というわけで、ぼくはもう何十年も夜型を続けてきた。 それで、あえて無理に朝早くに起きる生活を試してみて思ったのは、朝に向いていることと、そうでないことがある、ということだ。 朝に向いているのは、活動的なことや、前向きな作業だ。 ストレッチや筋トレなど、体を動かして気持ちいいのは断然朝だ。 掃除とか洗濯物を干すとかのちょっと汗をかくぐらいの作業も、朝のほうが圧倒的に爽快だ。 あと、意外だったのは、ア
ぼくは、もともと自分のことはかなり好きなほうで、若い頃はナルシストとか言われることもあった。 だけど、四捨五入で50歳の年齢になってみて、最近はいよいよ自分のことが好きだなあと思うことが増えた。 特にちゃんとした根拠はない。 世の中の人があっというようなすごい功績があるわけでもないし、お金儲けもできていないし、うだつの上がらないサラリーマンでしかない。 特に人間的な魅力があるわけでもないし、人から尊敬されるようなこともしていないし、とにかくただのおっさんである。 なのに、なぜだかいい感じなのである。 なぜなのかなあと考えるに、ぼくは、ぼくの好きなものについて、誰よりも詳しい。 当たり前のことかもしれないけど、それはけっこう大事なことのような気がする。 自分の好きな本、自分の好きな服、自分の好きな靴下、自分の好きな髪型、自分の好きな音楽、自分の好きな文房具、自分の好きなノートの書きかた、自分
fujiponさん(id:fujipon)が「煮詰まった中年男性」の気分転換の方法を「緩募」されている。 fujipon.hatenablog.com なので、ぼくも自分の経験をいくつか挙げてみようと思う。 掃除 これは大変おすすめである。 特に、雑巾で床をふくのがいい。 テレワークの時など、5分ほどのすきま時間ができたら、その瞬間にちょっとだけ気になるところをふく。 ちゃんと四つんばいになって、床の状況を見ながらふくと、なかなかの全身運動になるし、5分くらいやっているとちょっと汗も出てくる。 また、掃除をすることに集中できるので、他のことを考えなくてよい。 はじめは、ちょっと仕事のアイデアでも考えながらやるか…という感じではじめるのだが、やっていると汚れているところが気になってきて、これまでのことがすっかり頭から離れていく。 そして何より、きれいになると自分が気持ちいいし、家族も気持ちい
fujiponさん(id:fujipon)の記事を読んで、何か書きたいな、と思いつつ少し時間が経ってしまった。 だけど何か書こうと思う。 冒頭の『はてな匿名ダイアリー』を書いている増田さん(『匿名ダイアリー』の筆者)には、「僕もそんな感じで50年くらい生きているし、人生というやつを俯瞰してみれば『絶対的な居場所がある人間』なんていなくて、『居場所がある』と本人や周囲が信じているかどうかだけではないか」と思うんですよ。 もう50歳のオッサンにもなって、今更なにを言っているんだ、という感じですし、実際のところ、年を重ねていくにつれ、こういう「どこにも自分の居場所がない」という感情は薄れてきたように思います。 それは、克服した、というより、もうどうでもよくなった、というか、どうせそんなに遠くないうちに死んじゃうし、というのも大きい。『いつも「ここにいちゃいけない」気がする』人間として、50年間生
豆象屋さん (id:mamezouya)のこのエントリを読んで、思ったこと。 mamezouya.hatenablog.com 一人になりたい、ということの意味 会社の人たちと、どういうときに幸せを感じるか、という話をしていたら、自分は誰ともつながらずに一人の時間をすごすときに一番癒される、と答えた人がいた。 たしかにぼくらはずっと世界とつながり続けている。 それはすばらしいことなんだけど、いつも他者のことを意識し続け、自分以外の何かについて考え続けないといけない状態は疲れる。 いや、何が疲れるかというと、逆説的だけれども、他者のことを考え続けることを通して、自分のことばかり考え続けないといけないことに疲れる。 こんなことを言ったら気を悪くされるんじゃないかとか、早く返事をしないと不安にさせてしまうんじゃないかとか、こんな文章を書いたら炎上するんじゃないかとか、相手の自分に対する反応を想像
なぜか最近になって「時代は変わったな」と感じることが多い。 それまで、あまりそういうことは少なくて、たぶんそれは、自分自身も時代に合わせて変わり続けるしかなかったから。 「いやあ時代も変わったもんだ」なんて感慨深く思えるような余裕なんてなかったからだと思う。 もちろん今だってそんな余裕はまったくないのだけど、ふとしたできごとについて「変わったな」と感じることが増えた。 まずは、昔はもっと世界が雑だったな、と思うことが増えた。 ゴミの分別は今みたいに細かくなかったし、エアコンも夏はガンガンにつけていたし、インスタント食品とか合成着色料たっぷりのお菓子とかも、何も気にせずに食べまくっていた。 会社にしたって、みんなデスクでタバコを吸ってたし、休日に出社するときはみんな車でやってきて適当にそのへんに駐車していたし、どれだけ深夜まで残業しようと何も言われなかった。 それから、みんなそこまで理屈っぽ
togetter.com orangestar.hatenadiary.jp 友だちをどう作るのか、という話題について。 たしかに年を取ると友だちが作りづらいかも…と思ったけど、よく考えると、もともとあまり友だちがいない。 そもそも、ぼくはとても自己中心的な人間なので、気の合う人がほとんどいない。 いるとしたら、そんなぼくでもやさしく手を差し伸べてくれる、とても心に余裕のある人なので、そういう人はだいたい人気者だし忙しい。 だからあまり深く付き合うところまではいかないので、この人は友だちです、とはっきり言えるのかどうかわからず、ああやっぱりオレには友だちはほとんどいないな…となる。 そもそも、どこまでいけば「友だち」なのだろう。 一緒にごはんに行ったら友だち? お酒を飲んだら友だち? 映画を観に行ったら友だち? タメ口で話せるようになったら友だち? 一緒にお泊りしたら友だち? 退屈なときに
このところ、いっぱい恥をかいている。 だけど、はじめから「よし、恥をかいていこう」と思ってやっているので、あんまりダメージを受けないというか、むしろ想定よりも大丈夫だったな、ということが多い。 ということはその逆もあるということで、「ここはかっこつけなきゃ」と思っているときに恥をかくと、想定以上にダメージを受けてしまうように思う。 別にかっこつけることがダメだとはまったく思わない。 ただ、ぼくの場合はなんというか、かっこつけることに向いてない。 子どもの頃から、かっこいいやつ、というのはいた。 普通にしているだけでかっこいいし、何もしてないのにモテるし、ダサいことは絶対にしない。 で、たまに一言だけ面白いこと(いや、たいして面白くもないこと)を言うだけで、みんながキャーキャー言う。 そういうやつに憧れて、自分もわざと渋い声でしゃべろうとしたり、何か難しいことを考えているフリをしたり、表面的
同年代の方々の、40歳になってからの人生について書かれている文章を読ませていただいた。 どうせ俺らは早く死ぬ - phaの日記 生きに生きて40歳、俺らは結構長く生きた - シロクマの屑籠 『自由』が『虚無』と化した先の人生の生きがいについて(あるいは個人主義と共同体主義の狭間で) - 自意識高い系男子 自分の人生に飽きたくない - インターネットの備忘録 40歳という年齢を前向きにとらえるのか、後ろ向きにとらえるのかについて、それぞれちょっとずつ見解が違う感じで面白かった。 一方で「40代っていうのは体力も気力も落ちてくるよね…人生も後半だって感じるよね…」というところはみなさん共通の見解のようだ。 それで、読んでいてふと「みんな、ズルいな」と思った。 自分のこれからの人生をどうとらえるのかは、その人次第であって、それは20代でも30代でも40代でも変わらない。 だけど40歳というのは「
シロクマ先生(id:p_shirokuma)のこちらの記事を読んで、ちょっと思ったこと。 p-shirokuma.hatenadiary.com たしかに50代になって、わかりやすく褒められなきゃ不安な人…というのは、先生の書いているとおり、うまく大人になりきることができなかった人のような印象も受けるし、あるいはまあまあちゃんと大人になれたにも関わらず、あらためてそういうものを必要とするくらい追いつめられている状況にある人なのかもしれない。 いずれにしても、ぼくは自分が50代になったときに、そのどちらにもなりえるなあと感じた。 まず自分が50代になったときに、うまく大人になりきることができているかどうか。 これについては、まったく自信がない。 というのにはちょっと背景があって、そもそもぼくは30代の後半からつい最近まで、割と真剣に大人になる方法を探り続けてきた。 大人、というよりも「ちゃん
自分が若い頃、年を取った人たちとどんな風に付き合っていたのかを思い出していた。 なんというか、今までは年を取った人への尊敬の念、といったものが貨幣のように流通し、それなりに機能していたような気がする。 当時は年を取れば誰でも管理職にはなれた。 専任部長とか、なんとかディレクターとかいう便利な肩書きがあって、実際は平社員と何も変わりはない仕事をしていても、なんとなく偉い人というイメージをまとうことができ、また、後輩たちにしょっちゅう食事をおごることができるぐらいの手当もついていた。 だからぼくらは、この先輩は訳あってラインからは外れているけど本当はすごい人なんだ、という尊敬の念を持つことができた。 また、本人も若い人たちから一目置かれているからにはちょっといいところを見せなくちゃ、と思ってがんばってかっこつけようとしていたようにも思う。 あと、長いあいだ同じ会社で働き続けることにも、良いこと
narushima1977さんの「50代の人が何を考えているか知りたい」という問いに、もうすぐ50歳を迎えるfujiponさんが答えていて、とても面白かった。 narushima1977.hatenablog.com fujipon.hatenablog.com こういう話になるとふと思うのは、定年退職をしていった先輩たちのことだ。 もちろん、定年を迎えてもさっさと次の仕事を作ったり、大学の先生などをやって、ますます精力的に活動する人もたくさんいる。 だが、現役時はトップクリエイターだった人が引退したあとはとても静かな暮らしをしていたり、家にこもってゲームばかりして妻に叱られていたりするのを見ていると、ああ仕事なんてそんなものなんだな、と思う。 そのポジションから一歩卒業してしまえば、本当にただの人なのだ。 どんなにすごい人でも年を取るし、いつかは引退する。 あるいは引退しないまま寿命を迎
ぼくがブログを書き始めたころ、インターネットは現実から隠れて自由になれる場所だった。 目の前の現実では、ぼくはいつも自分のことをごまかしていた。 ぼくの現実にはいつも評価があった。 得意先の要望に応えるべく努力しているか、会社の収益を上げるための工夫をしているか、家庭の一員として役割を果たしているか、まともな人間として世の中の役に立とうしているか、そして他にはない自分だけの生き方をできているか。 ぼくはそういうことに何度かまともにぶつかってみた結果、まったくうまくいかなくて、物事に本気で取り組むのを恐れるようになった。 本気でやらないから力もつかないし、力がないのがわかるから勝負事を避けるようになった。 そうやってどんどん自分で自分を窮地に追いやっていることがわかっていたので、そのこと自体がダメージとなって蓄積し、身動きが取れなくなっていた。 はてなブログで文章を書いているあいだ、ぼくはそ
ブログを書きはじめた頃、ぼくが抱えていた悩みは、このめまぐるしく変わりゆく世界の中でどのように自分らしさを保てばいいのか、といったことだった。 それからも色んなことが変わっていったし、特にこの1年でそのスピードは増した。 特に、離れている人とオンラインで話をすることが当たり前になったのはとても大きな変化で、おかげでわざわざ遠くまで出かけなくても共通の関心を持つ人と話がしやすくなった。 もちろん、実は仲良くなれるはずの人と偶然出会う、という機会は減ったように思うが、それは別に以前からそうだった気がする。 人は何かが変わったとき、そのせいで失われたものを数えがちだが、いざ数えてみると思っていたほどたくさんのものを失ってはいなかったりする。 ぼくに限っていえば、得たもののほうが多いと思う。 何よりも、ぼくはこのブログを書きはじめた頃からずっと、自分が色んなものを失い続ける様子を見つめ続けてきて、
シロクマ先生(id:p_shirokuma)の新著『何者かになりたい』(イーストプレス,2021)をきっかけに、「何者かになる」あるいはアイデンティティに関する文章がいくつも書かれていて、面白い。 特に、池田仮名さん(id:bulldra)のこんな文章が印象的だった。 『令和元年のテロリズム』の読書会において、「強制スクロール」という言葉が話題になった。学校があって就職があって昇進があって結婚があって育児があって、それぞれの困難とそれを乗り越えるための成長や価値観のアップデートが求められていくのが人間社会なのだけど、どこかで任意スクロールに転じやすくなったのが現代である。若い女性にアタックし続けるおじさんは価値観の任意スクロールと年齢の強制スクロールに挟まれたなれ果て - 太陽がまぶしかったから 仮名さんは「何者かになる」という文脈ではなく、大人になると自分の価値観のアップデートを社会から
若い頃のぼくの夢は、書くことを仕事にすることだった。 もっと言うなら、やりたいことと、やらなければいけないことを完全に一致させたかった。 本当にやりたいことは別にあるのだけど、今は難しいから色々と我慢しているんだと言い訳をしながら生きたくなかった。 そういう、若者特有のある種の潔癖さにこだわっていた。 しかし実際に仕事をしてみると、そういった完全一致の瞬間というのはほんのわずかしかないし、それ以外のほとんどの時間は本当にやりたいことでも本当にやらなければいけないことでもどっちでもない、なんだかよくわからないもののために費やされてしまって、気がつくとすっかり年を取ってしまっていた。 いや、それは自分に対してあまりに不当な評価だ。 ぼくはぼくなりに、なんとか両者を合致させようともがき続けてきた。 そして今、若い頃とはまったく違う状況の中にいて、当時の理想とはかけ離れた仕事をしているけれども、年
なんとなく感じていることにすぎないのだけれど。 ぼくたち人間や世の中にとって何が大切か、というような話をしていると、機嫌が悪くなる人がいる。 そんなことを考えていたって1円の稼ぎにもならないと言ってイライラしはじめる。 一方で、どうやったらお金が儲かるか、あるいは節約できるか、という話をしていると、機嫌が悪くなる人もいる。 そういう人は、あからさまに不機嫌になるというよりも、大切な話をしているのはわかっていますよ、と物分かりのいいふりをしながら、しかし心の中で舌を出している感じがする。 あるいは、多くの人は、状況や場面次第で、その両方の立場になる可能性があるようにも思う。 かく言うぼく自身がそうだ。 基本的には、お金のことなんて気にせずにどうでもいいことをずっと考えながら暮らしたいのだけれども、いざ儲かりそうな話があると夢中になったり、あるいは結果的には大して給料に反映されることもないとい
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