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ブラックフライデー
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『氷川清話』の矛盾 勝海舟(かつかいしゅう)は、幕末に最も活躍した「伝説の幕臣」の一人です。 黒船が来航すると、彼は海岸の防備強化を説く意見書をいち早く提出。先見の明が評価され、外国や尊攘勢力との交渉で活躍しました。 また討幕派が勢いづき、新政府軍によって江戸が攻撃されようとしたときも、勝は得意の交渉術で新政府側と互角にわたり合っています。 その結果、西郷隆盛との直接会談を実現し、江戸城の無血開城に成功。江戸が火の海となることを回避した――。こうした功績から、勝は高く評価されてきました。 こうした政治的な実績はよく知らなくても、「坂本龍馬の師匠」や「チャキチャキの江戸っ子」などのイメージで、彼のことを捉えている人は多いでしょう。 しかし現在、勝の評価は大きく見直されています。 上述の通説は勝の証言をまとめた『氷川清話』に多くを依拠していますが、他の史料や証言と照らし合わせると、この証言録に
「三大改革」だけじゃない 十代の頃に学校で学んだ日本史の内容として、「江戸時代の三大改革」を記憶している人も多いでしょう。 この三大改革と呼ばれた事柄は、かつては中学校の教科書には必ず載っていたものです。また高校入試などでも同様の表現で入試でも必ず出題されていました。改めてその三つを振り返ってみると、 将軍・徳川吉宗の享保の改革 老中・松平定信の寛政の改革 老中・水野忠邦の天保の改革 の三つとなります。
『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国については長らく議論が交わされ続けており、学界はもちろんアマチュア考古学者や古代史ファンに至るまで、多くの人々の好奇心をとらえ続けています。
教科書にないッ! 日本史を学んでいるとよく登場する概念に「士農工商」があります。これについては「身分制度」あるいはインドのカースト(ヴァルナ)制度のような「身分序列」として長らく理解されてきました。 今回は、この士農工商の概念に関する誤解と、そもそもの意味などについて前編・後編に分けて見ていきましょう。 「士農工商」という身分制度・身分序列が現実に存在したと一般によく考えられていたのが、江戸時代です。 江戸時代の人々の身分は固定的で、農民が武士になったり、商人が農民となったりするような身分間の移動は許されなかったと長らく考えられてきました。それを表した言葉が「士農工商」だったわけです。 2006(平成18)年時点でも、某有名出版社の教科書では「こうした身分制度を士農工商と呼ぶこともある」と書き、「士農工商=身分制度」という意味合いを含ませた説明が見られます。 しかし、1990年代末には小学
あの偉人の名前が消える!? 歴史の研究も日進月歩で、これまでの通説やその扱われ方が大きく変わることも珍しくなくなりましたね。例えば、鎌倉幕府の成立は1192年ではないとか、「鎖国」という言葉が使われなくなるかもしれない、など……。 そんな状況の中、日本史界隈でまた衝撃的な出来事がありました。高校で使われる歴史教科書から、私たちが知っているある幕末の偉人の名前が削除されてしまうかも知れないというのです。 その偉人とは、他ならぬ坂本龍馬です。 特にエンタメ界隈では、幕末のヒーローと言えば坂本龍馬であり、幕末の歴史は彼を中心として描かれることも少なくありませんでした。私たち日本人の頭の中には「幕末イコール坂本龍馬」という図式がインプットされていると言っても過言ではないでしょう。 その龍馬の名前が、教科書に載らなくなるかも知れないのです。一体なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか? 2ページ
まず、こちらの絵画をご覧ください。 狩野昌運筆『異代同戯図巻』(福岡市美術館蔵)部分 火縄銃をかまえる観音菩薩。まるで現代アーティストが昔の絵巻をモチーフに描いたようなユニークな作風ですが、じつはこの作品は江戸時代前期に描かれたものなのです。 今回紹介するのは、狩野派の絵師によって描かれた絵巻を読み解く『「戯画図巻」の世界 競う神仏、遊ぶ賢人』という書籍です。 「スナイパー観音」としてSNSで話題になった、火縄銃をかまえる観音菩薩が描かれているのは、狩野派の絵師たちの手で描かれた、江戸時代前期の絵巻「戯画図巻」のひとつ、狩野昌運筆『異代同戯図巻』(福岡市美術館蔵)です。 『異代同戯図巻』(福岡市美術館蔵)の場面の例 火縄銃をかまえる観音菩薩と、火縄の準備をする龍女。 この他にも殺生を禁じた釈迦は水辺で漁にいそしみ、怪力無双の弁慶は小さな一寸法師に追い回され、威厳ある雷神は足をカニに挟まれて
明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家「神坂雪佳(かみさかせっか)」。江戸時代に芸術分野における一大流派であった光琳派(琳派)の画風を学び、花鳥画をはじめとする多くの作品を残しました。 雪佳はさまざまな図案集も手掛けており、それらの作品は以前Japaaanでも紹介してきましたが、
ところが最近の研究では、実は幕府側はこの江戸城の明け渡しについて、あまり重く考えていなかったことが分かっています。 詳しく言えば、当時の幕府側は、江戸城を明け渡すのはあくまでも一時的なものだと考えていたのです。城はいずれ返ってくるだろうし、徳川慶喜の地位も保証されるに違いないと思っていたのです。 これは、明け渡された江戸城が、幕府寄りだった尾張藩預かりになったのも大きな理由でした。いずれ城は返還されるだろうという噂も、幕府内では流布していたといいます。 この思惑があったため、かの勝海舟は、一度は江戸城の返還を大総督府に意見したほどでした。 2ページ目 明け渡し後も続いた混乱
「倒幕はしない」同盟だった? 幕末の歴史物語の名シーンとして語り継がれているのが、薩長同盟が結ばれたシーンです。 薩長同盟とは、それまで犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩が、いがみ合っていた過去を水に流そう、そして同盟を結ぼうということで1866年に成立したものです。 特に、この薩長同盟締結の場面は、坂本龍馬の物語の中で描かれることが多いです。坂本は両藩の仲介を果たした人物で、彼のおかげで薩長は結束することができ、「新しい日本」を作るための起爆剤となった――というストーリーで認識されているからです。 ただ、この薩長同盟の目的については、最近は通説と異なった見方も出ています。 薩長同盟は京の薩摩藩邸で行われていますが、この時に交わされた同名の条文には倒幕に関する記述は存在していないのです。 その後の歴史を見ると、実際には薩長連合が武力によって倒幕を果たしています。また、歴史物語の中でも、薩長同盟は
美青年の逸話 歴史上屈指の美青年とされる人物で、名古屋山三郎というのがいます。 彼は安土桃山時代の武将で、蒲生氏と森氏に仕えていました。また母親は織田信長の縁者である養雲院だったといわれています。 彼はとにかく若い頃から美少年として有名で、成長してからも著名な伊達者として名を馳せており、流行歌にまで歌われるほどでした。 彼について残る逸話はいくつかありますが、妻はかの出雲阿国だという話まで存在しています。これは内容的にちょっと眉唾ですが、とにかくそうした伝説が残るほどの有名人だったということでしょう。 また、もうひとつの逸話として、彼は豊臣秀吉の側室である淀君と密通しており、実は豊臣秀頼の実父だったのではないかというのもあります。 ただ、歴史学者の磯田道史によると、実際には山三郎と恋に落ちたのは淀君ではなく、秀吉の側室である京極竜子(西丸殿・松丸殿などと呼ばれることも)だそうです。 京極竜
日本由来の神は一人だけ 12月もあっという間に進み、すっかり年の瀬ですね。元旦からの初詣の企画もされている方も多いでしょう。このときだけ七福神巡りをする方もいるのでは? 一年に一回、ご利益に預かりたいものです。 ちなみに七福神のお名前をすべて言えますか? 「布袋、毘沙門天、福禄寿、寿老人、大黒天、弁財天、恵比寿」 ですね。 この七福神、神社によく祀られていますが、お寺にも祀られているような…一体仏教由来なのか神道の神なのか、疑問に思ったことはありませんか? それもそのはず、実は、この中で日本由来の神様はなんと一人だけなんです! それは恵比寿! 恵比寿様だけが神道由来の神様なんです。 様々な歴史の由来を持つ神が、日本に伝わる際に他の神と習合したり役割が変化して、七福神として崇められるようになったのですね。 では、他の神は元々はどのような宗教の由来なのでしょうか? 一人ずつ紐解いていきましょう
「生水(なまみず)に気をつけるんだよ」 ふた昔し、み昔しくらい前は、よくそんな事を耳にしました。 ピンと来ない方向けに説明すると、生水とは川や井戸などからくんだままの(沸騰させない)水のこと。キレイに見えても細菌や寄生虫など、時には生命を脅かす危険があります。 だから飲む前に必ず沸騰させるのが鉄則。しかし見ただけでは分からないため、うっかり飲んで大変な事態を招くことも多かったようです。 そこで今回は鎌倉時代、生水が原因で生命を落とした北条時子(ほうじょう ときこ)のエピソードを紹介。果たして、どんな最期を遂げたのでしょうか。 不義密通を疑われ…… 北条時子は生年不詳、後に鎌倉幕府の初代執権となる北条時政(演:坂東彌十郎)の娘として生まれました。 名前は時子と伝えられているものの出典は不明。時政の娘だから政子(演:小池栄子)と名付けられた姉妹と同じ要領でそう呼ばれるようになったのでしょう。
サイクロトロンとは? 終戦直後、GHQ(General Headquarters:連合国最高司令官総司令部)は日本にあるさまざまなものを破壊しましたが、理化学研究所にあった「サイクロトロン(円形加速器)」もそのひとつです。 しかしこれは、GHQの無知といい加減さによる「暴挙」だったことが明らかになり、後に世界の科学者たちから非難されました。 事の経緯を追っていきます。 サイクロトロンとは、高周波電場と電磁石を使った荷電粒子加速器のことです。原子核物理学上の重要装置の一つでした。 原子核物理学は私たちの生活にも大きく関わる学問で、医療や農業、セキュリティなど幅広い分野で活用されていますが、1945年当時の日本にはサイクロトロンが複数台存在し、そのうち東京の理化学研究所にあったものは世界最大級のものでした。 これを製作した理化学研究所の仁科芳雄博士は、戦後サイクロトロンを使って放射性同位体を作
かつての日本の政権では、重要な官職を得るためには位階とそれなりの家柄が必要でした。 戦国時代の武将たちは、単に戦で武功をあげることのみならず、高い位階と官職を得ることに執心していたようです。 その一例としてよく知られているのが、徳川家康の源氏改姓問題です。 1566年、三河統一を成し遂げた家康は織田信長との同盟を背景に戦国大名への道を歩み出していました。その年の暮れに家康は従五位下・三河守への官位認定と、松平から徳川への改称を申請しました。 ところが、正親町天皇は「先例にないため公家には出来ない」とのことからこれを拒否。そこで、家康は浄土宗の僧侶を通じて関白の近衛前久から協力を仰ぐことにしました。 すると、当時近藤家に仕え、神祇官でもあった吉田兼右が万里小路家で旧記から源氏の新田氏系の得川(とくがわ)氏の流れで藤原の姓になったという先例をみつけだし、懐紙に写し取りました。 それを前久が清書
日露戦争の勝敗を大きく分けたとも言われている「日本海戦」。 ロシア率いる世界最高峰のバルチック艦隊に追い詰められていた日本ですが、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)と言う男の機転によって勝利を掴みます。 今回は、東郷平八郎の人物像や日本海戦で日本を勝利へ導いた幻の戦術についてみていきましょう。 日本海戦 日本海戦とは、日露戦争中の1905年5月27日と28日の2日間、日本海軍とロシア海軍の間で起こった海戦のことです。 日本人が「バルチック艦隊」と呼んでいたロシア海軍は、最新鋭戦艦を4隻も保有していました。そのため他国の間では、「日本海戦において、日本の勝ち目はないだろう」と言われます。そのような中、日本を勝利へと導いたのが、東郷平八郎です。 東郷ターン(T字戦法) 平八郎は、東郷ターンと呼ばれる戦術を用いて、バルチック艦隊を退けます。 東郷ターンは、東郷平八郎がとった戦法のことで、丁字また
Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今回は19世紀後半、主に長崎や熊本から東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人娼婦「からゆきさん」の悲しい歴史について前後編に分けてご紹介します。 からゆきさんの歴史 からゆきさんの歴史を遡ると江戸時代まで辿る事ができます。1639年(寛永16年)ごろに西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生。 江戸幕府は出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していましたが、丸山遊郭の遊女は例外として許されていました。 日本人男性相手の「日本行」の遊女とは明確に区別され、出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と称されました。「唐人行」とは中国人を相手にする遊女らを指したもので、それが「からゆきさん」の語源となったのです。 ちなみに実際には江戸時代からすでに長崎の外国人貿易業者により何万人もの日本人女性が妻妾や売
”トーハク”の愛称で親しまれている東京国立博物館が令和4年(2022)で創立150年を迎えたことを記念して、とんでもない特別展を開催します。 なんと東京国立博物館が所蔵する国宝89件をすべて公開するという、その名も特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」。 同館は明治5年(1872)の発足以来、日本でもっとも長い歴史をもつ博物館として、日本の文化を未来へ、そして世界へ伝えていく役割を果たしてきました。 本展では、150年の間に積み重ねられた約12万件という膨大な所蔵品の中から、国宝89件すべてを含む名品と、明治から令和にいたる150年の歩みを物語る関連資料を通して、東京国立博物館の全貌を紹介。 東京国立博物館が所蔵する国宝89件すべてを展示(会期中展示替えあり)するのは150年の歴史上はじめての奇跡的なことで、メモリアルイヤーにふさわしい展示となることでしょう。 なお、国宝となっている刀剣全
命を賭した戦法 乱世の戦国時代がいよいよ終わりつつあった1600年、かの関ヶ原の戦いで、島津義弘が企てた「捨て奸(すてがまり)」という戦略がありました。 これはなんと、敵軍の中を正面突破して、とにかくいくら犠牲を払ってもいいから敵をできるだけ長い時間足止めし、本隊だけは逃れさせるというものでした。 当時は、徳川家康と石田三成が、それぞれ大名たちを動員して東軍・西軍に分かれて戦いを繰り広げていました。島津は西軍です。しかし次第に形勢不利になっていく中で、撤退戦略として採用されたのが「捨て奸」だったのです。 部隊の最後尾を務めるしんがりの中から、さらに少部隊を置き、追ってくる敵を食い止めるために死ぬまで戦わせます。 小部隊が全滅したらまた新しく小部隊を置き、敵を食い止める。これを繰り返し、その間に本隊と大将が逃げることができれば成功と見なす、という戦法でした。 島津隊は退路に配置した銃を持つ兵
私事で恐縮ながら、子供のころ、夕食後にテーブル下の米粒(食べこぼし)を拾い集めるのが日課でした。 集めた米粒を庭先にまいておくと、それを翌朝、雀が食べに来るのです。 「雀にご飯をあげようね」 自分では食べられないけど、雀なら食べてくれる。少しでもフードロスを減らすための工夫ですが、似たような習慣を平安時代の貴族たちも行っていました。 その名も「とりばみ」。漢字で書くと鳥喰、食べることを喰(は)むとも言いますね。 しかし他にも執喫・執咋・取食などの漢字表記が。意味は執=取、喫=咋=食と同じです。 取る(執る)という行為は基本的に手で行うものですが、鳥には翼こそあれ人間のような手を持っていません。 となると平安貴族の言う「とりばみ」は、鳥だけに行うものではない……とすれば、いったい何をするのでしょうか。 食べきれぬたくさんの料理を…… 「あぁ、食うた食うた」 平安時代、貧しい暮らしをしていた庶
「縄文時代」といえば誰でも何かしらのイメージを持っていると思いますが、実はこの縄文時代は“一万年以上も続いた時代”だということをご存知ですか? 日本の縄文時代に類似した生活形態を持っていたのは、世界中を探しても北アメリカ北西海岸の一部先住民族のみで、縄文時代は日本独自の文化であり、日本人のルーツを探るのに必要不可欠な時代なのです。 そんな「縄文時代」は現在でもさまざまな議論が活発に交わされています。 縄文時代とは一体どんな時代だったのでしょうか? 研究者でさえまだ最終結果が出ていない、縄文時代の流れについて今回は少しゆるーくご紹介していきたいと思います。そのためには100年前後の事象のズレがあることをご承知おき下さい。 なぜなら縄文時代は今でも研究者・学者の間でも喧々諤々の論争を生んでいる時代なのですから。 歴史上で時代が変わるということの意味 縄文時代とは紀元前に10,000年以上も続い
明治時代にサンタは日本にやってきた 日本で最初にサンタクロースの絵が描かれた文献は、1900(明治33)年に教文館から発行された「さんたくろう」という小説。 「さんたくろう、誰www」・・・まあ、そうなりますよね。漢字で書くと、「三太九郎」。当時は「サンタクロース」という言葉に全く馴染みがなかったので漢字で当て字をし、私たちにより親しみやすくしたようなのです。 三太九郎のルックスはというと、帽子ではなくベールのような布をかぶっていますね。郵便配達人のようなバッグを斜めにかけ、手にはなぜかミニチュアクリスマスツリーを持っています。隣にはロバにも見えるトナカイ(?)、その背中にはカゴを背負い、中から大量のプレゼントが覗きます。 ちなみに「さんたくろう」の物語は国立国会図書館のデジタルデータで公開されています(記事末にリンクを貼っておきます)。 同じ頃に、東京銀座の明治屋という高級食材店が「クリ
なぜ日本は「除名」「経済制裁」を受けなかったのか? 戦前の日本史について「なぜ日本はあの戦争を避けられなかったのか」というテーマで調べていると、満州国の建国を国際連盟が認めなかった、という話が必ず出てきます。 関東軍が「暴走」して作ってしまった満州国。これが侵略と言えるかどうかが当時の国際連盟で議論され、その結果、連盟は満州国での中国の主権を認めて日本を非難する「非難勧告」を決議しました。 歴史の教科書では、この「非難勧告」を受けて頭に来た日本全権団が、席を立ち椅子を蹴って、「国際連盟から脱退する!」と宣言してその場を後にした……みたいなニュアンスのことが書かれています。 しかしそれが本当なら日本は国際連盟から脱退して、国際社会で孤立して、西欧諸国と対立していたはずです。それなのにその後、経済制裁も何も受けていません。この時本当は一体何があったのでしょうか? 日本と国際社会の関係は、悪化し
奉行が判決を下しうなだれるお白洲の被疑者。時代劇でど定番の光景ですね。考えてみたら屋外だと、雨天のときは役人も濡れてしまいます。 きょうは雨だから取り調べなし~なんて、いい加減なことは曲がりなりにも「お役所仕事」であるはずがありません。 奉行所には、奉行が着座する「裁許所」の前に「上縁・下縁」という二段の板縁があり、その前方下に公事場(お白洲)があります。 天保13年の「町奉行所図」には「仮白洲」部分に「此上仮屋根」とあり、図面では公事場は裁許所と同じ色に塗られています。屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いているというのが実情のようです。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧たることも なしと思へば」 【意訳】この世界は私のために存在していると思っている。まるで満月が欠けることがないように…… 平安時代、権勢の絶頂を極めたことで知られる藤原道長(ふじわらの みちなが)。 気に入らなければ天皇陛下さえも退位に追い込んだという道長は、まさに向かうところ敵なし。 憎まれっ子、世に憚る……そんな道長が、ボコボコにされたことがあると聞いたら、少し痛快に思えるでしょうか。 今回はそんなエピソードを紹介したいと思います。 か弱い女官が道長の胸倉を…… 時は長保2年(1000年)、道長が療養していた姉の藤原詮子(せんし)を見舞いに行った時のこと。 「姉上、お加減はいかがでしょうか?」 「えぇ。今日は少し気分がよくて……」 今上陛下(第66代・一条天皇)の生母としてしばしば「国母専朝事(朝事=国政をほしいままに専横する)」などと批判され、
「征夷大将軍だから鎌倉幕府を開けた」はウソ!? 皆さんご存じの源頼朝(みなもとのよりとも)と言えば、「1192年に鎌倉幕府を開いた人物」として有名ですね。 そしてそれは、「征夷大将軍というポジションに任命されたことで、軍事のトップに立ったから幕府を開くことができた」という流れで現在に至るまで認識されてきました。 ところが、この流れが真実を言い当てているのかどうかは、ちょっと怪しいようです。 征夷大将軍=軍事のトップ=鎌倉幕府、ではないんですね。 一体どういうことでしょう? この記事では、その真実に迫りたいと思います。 朝廷が与える肩書きは「名前だけ」 「征夷」とは、僻地の人々を征服するために軍事力を振るうこと。そしてそれを承認された大将軍が、征夷大将軍だとされています。 しかし朝廷で内大臣を務めた中山忠親による『山槐記』によると、頼朝はこの「征夷大将軍」のポジションには興味がなかったようで
個人的にスウィーティは毎日食べていたというほど、青春のフレーバーです! 発売当時、人気フレーバーだった板ガムたちが、当時の味とデザインでよみがえりました。これらの復刻板ガムは現在、DAISOで先行復刻発売中。Japaaanでさっそくゲットしてみましたので、その味わいを紹介します。 まずこのパッケージデザインが懐かしいですよね。食べたことが無い人でも、きっとこのデザインが記憶に残っているひとはきっと多いはず。 ちなみに「スウィーティ」は1995〜2006年、「アセロラ」は1989〜1995年、「スペアミント」は1954〜1997年の発売。 どのフレーバーも、パッケージを開封した瞬間に懐かしの香りがガツンときますね。この”濃い香り”が、昔ながらの板ガムの特徴とも言えるでしょう。
明治時代中頃の全国の郡・市の範囲をシェープファイルに収録したデータ『郡地図 Ver 1.0』が無料ダウンロード公開されました。だれでも自由に利用することができます(使用条件等あり)。 今月公開された『郡地図 Ver 1.0』は、明治時代中頃(市制及町村制施行の頃)における郡・市の範囲を、シェープファイルに収録した、郡地図研究会による無償公開データとなります。 シェープファイルの利用においては特別なソフトウェアや知識などが必要となりますが、なんと『郡地図 Ver 1.0』のデータを利用して、Google Map上に郡地図データを表示するGoogle マイマップバージョンも公開してくれているのです。 Google マイマップバージョンは、レイヤー数および容量制限のため、地域別に公開されていますが、誰でもブラウザ上ですぐに郡地図データを確認することができます。 自分の住んでいる地域や出身地など縁
幕末は暗殺が横行した時代。特に有名だったのが、「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれる四人の暗殺者でした。 前半では、四大人斬りのうちの二人、「田中新兵衛」と「河上彦斎」の末路について紹介します。 なぜ暗殺は繰り返されたのか? 幕末は刀で時代を変えようとする志士達によって、暗殺が繰り返されました。桜田門外(さくらだもんがい)の変で大老の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の名もなき志士達によって時代が動いたのをかわきりに、尊王攘夷の大義のもと天誅(天皇に代わって悪人を成敗する)と称して、要人がその刃の対象となりました。 自分達の中では、「暗殺で時代を変えるのが正義」と信じて疑わなかったのでしょう。 幕末の四大人斬り 1 田中新兵衛(たなかしんべえ) 元薩摩藩士の田中新兵衛が、まず暗殺したのが島田左近(正辰)。島田左近は、井伊直弼の右腕であった長野主膳に協力して、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧していました。
かつて武家の棟梁として室町幕府を開き、その初代将軍として天下に号令した源氏の名門・足利尊氏(あしかが たかうじ)。 しかし時は流れ、第15代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長(おだ のぶなが)によって京都を追われると、幕府は滅亡してしまいます。 これで足利氏も歴史の表舞台から姿を消してしまった……と思われがちですが、武士の世が終わりを告げる明治維新まで大名として存続した家がありました。 今回はそんな喜連川(きつれがわ)藩のエピソードを紹介したいと思います。 尊氏の次男・足利基氏の末裔 喜連川は足利一族の故地として知られる下野国塩谷郡(現:栃木県さくら市)にあり、足利尊氏の次男・足利基氏(もとうじ)の末裔である足利国朝(くにとも)が、時の天下人である豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から400貫(3,500石)の所領を与えられた(※)のが始まりです。 (※)元の所領であった下総国千葉郡小弓城(
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