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日本由来の神は一人だけ 12月もあっという間に進み、すっかり年の瀬ですね。元旦からの初詣の企画もされている方も多いでしょう。このときだけ七福神巡りをする方もいるのでは? 一年に一回、ご利益に預かりたいものです。 ちなみに七福神のお名前をすべて言えますか? 「布袋、毘沙門天、福禄寿、寿老人、大黒天、弁財天、恵比寿」 ですね。 この七福神、神社によく祀られていますが、お寺にも祀られているような…一体仏教由来なのか神道の神なのか、疑問に思ったことはありませんか? それもそのはず、実は、この中で日本由来の神様はなんと一人だけなんです! それは恵比寿! 恵比寿様だけが神道由来の神様なんです。 様々な歴史の由来を持つ神が、日本に伝わる際に他の神と習合したり役割が変化して、七福神として崇められるようになったのですね。 では、他の神は元々はどのような宗教の由来なのでしょうか? 一人ずつ紐解いていきましょう
「生水(なまみず)に気をつけるんだよ」 ふた昔し、み昔しくらい前は、よくそんな事を耳にしました。 ピンと来ない方向けに説明すると、生水とは川や井戸などからくんだままの(沸騰させない)水のこと。キレイに見えても細菌や寄生虫など、時には生命を脅かす危険があります。 だから飲む前に必ず沸騰させるのが鉄則。しかし見ただけでは分からないため、うっかり飲んで大変な事態を招くことも多かったようです。 そこで今回は鎌倉時代、生水が原因で生命を落とした北条時子(ほうじょう ときこ)のエピソードを紹介。果たして、どんな最期を遂げたのでしょうか。 不義密通を疑われ…… 北条時子は生年不詳、後に鎌倉幕府の初代執権となる北条時政(演:坂東彌十郎)の娘として生まれました。 名前は時子と伝えられているものの出典は不明。時政の娘だから政子(演:小池栄子)と名付けられた姉妹と同じ要領でそう呼ばれるようになったのでしょう。
サイクロトロンとは? 終戦直後、GHQ(General Headquarters:連合国最高司令官総司令部)は日本にあるさまざまなものを破壊しましたが、理化学研究所にあった「サイクロトロン(円形加速器)」もそのひとつです。 しかしこれは、GHQの無知といい加減さによる「暴挙」だったことが明らかになり、後に世界の科学者たちから非難されました。 事の経緯を追っていきます。 サイクロトロンとは、高周波電場と電磁石を使った荷電粒子加速器のことです。原子核物理学上の重要装置の一つでした。 原子核物理学は私たちの生活にも大きく関わる学問で、医療や農業、セキュリティなど幅広い分野で活用されていますが、1945年当時の日本にはサイクロトロンが複数台存在し、そのうち東京の理化学研究所にあったものは世界最大級のものでした。 これを製作した理化学研究所の仁科芳雄博士は、戦後サイクロトロンを使って放射性同位体を作
かつての日本の政権では、重要な官職を得るためには位階とそれなりの家柄が必要でした。 戦国時代の武将たちは、単に戦で武功をあげることのみならず、高い位階と官職を得ることに執心していたようです。 その一例としてよく知られているのが、徳川家康の源氏改姓問題です。 1566年、三河統一を成し遂げた家康は織田信長との同盟を背景に戦国大名への道を歩み出していました。その年の暮れに家康は従五位下・三河守への官位認定と、松平から徳川への改称を申請しました。 ところが、正親町天皇は「先例にないため公家には出来ない」とのことからこれを拒否。そこで、家康は浄土宗の僧侶を通じて関白の近衛前久から協力を仰ぐことにしました。 すると、当時近藤家に仕え、神祇官でもあった吉田兼右が万里小路家で旧記から源氏の新田氏系の得川(とくがわ)氏の流れで藤原の姓になったという先例をみつけだし、懐紙に写し取りました。 それを前久が清書
日露戦争の勝敗を大きく分けたとも言われている「日本海戦」。 ロシア率いる世界最高峰のバルチック艦隊に追い詰められていた日本ですが、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)と言う男の機転によって勝利を掴みます。 今回は、東郷平八郎の人物像や日本海戦で日本を勝利へ導いた幻の戦術についてみていきましょう。 日本海戦 日本海戦とは、日露戦争中の1905年5月27日と28日の2日間、日本海軍とロシア海軍の間で起こった海戦のことです。 日本人が「バルチック艦隊」と呼んでいたロシア海軍は、最新鋭戦艦を4隻も保有していました。そのため他国の間では、「日本海戦において、日本の勝ち目はないだろう」と言われます。そのような中、日本を勝利へと導いたのが、東郷平八郎です。 東郷ターン(T字戦法) 平八郎は、東郷ターンと呼ばれる戦術を用いて、バルチック艦隊を退けます。 東郷ターンは、東郷平八郎がとった戦法のことで、丁字また
Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今回は19世紀後半、主に長崎や熊本から東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人娼婦「からゆきさん」の悲しい歴史について前後編に分けてご紹介します。 からゆきさんの歴史 からゆきさんの歴史を遡ると江戸時代まで辿る事ができます。1639年(寛永16年)ごろに西洋との唯一の窓口として栄えた長崎に丸山遊廓が誕生。 江戸幕府は出島や唐人屋敷への出入り資格を制限していましたが、丸山遊郭の遊女は例外として許されていました。 日本人男性相手の「日本行」の遊女とは明確に区別され、出島へ赴く遊女たちは「紅毛行」、唐人屋敷へ赴く遊女たちは「唐人行」と称されました。「唐人行」とは中国人を相手にする遊女らを指したもので、それが「からゆきさん」の語源となったのです。 ちなみに実際には江戸時代からすでに長崎の外国人貿易業者により何万人もの日本人女性が妻妾や売
”トーハク”の愛称で親しまれている東京国立博物館が令和4年(2022)で創立150年を迎えたことを記念して、とんでもない特別展を開催します。 なんと東京国立博物館が所蔵する国宝89件をすべて公開するという、その名も特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」。 同館は明治5年(1872)の発足以来、日本でもっとも長い歴史をもつ博物館として、日本の文化を未来へ、そして世界へ伝えていく役割を果たしてきました。 本展では、150年の間に積み重ねられた約12万件という膨大な所蔵品の中から、国宝89件すべてを含む名品と、明治から令和にいたる150年の歩みを物語る関連資料を通して、東京国立博物館の全貌を紹介。 東京国立博物館が所蔵する国宝89件すべてを展示(会期中展示替えあり)するのは150年の歴史上はじめての奇跡的なことで、メモリアルイヤーにふさわしい展示となることでしょう。 なお、国宝となっている刀剣全
私事で恐縮ながら、子供のころ、夕食後にテーブル下の米粒(食べこぼし)を拾い集めるのが日課でした。 集めた米粒を庭先にまいておくと、それを翌朝、雀が食べに来るのです。 「雀にご飯をあげようね」 自分では食べられないけど、雀なら食べてくれる。少しでもフードロスを減らすための工夫ですが、似たような習慣を平安時代の貴族たちも行っていました。 その名も「とりばみ」。漢字で書くと鳥喰、食べることを喰(は)むとも言いますね。 しかし他にも執喫・執咋・取食などの漢字表記が。意味は執=取、喫=咋=食と同じです。 取る(執る)という行為は基本的に手で行うものですが、鳥には翼こそあれ人間のような手を持っていません。 となると平安貴族の言う「とりばみ」は、鳥だけに行うものではない……とすれば、いったい何をするのでしょうか。 食べきれぬたくさんの料理を…… 「あぁ、食うた食うた」 平安時代、貧しい暮らしをしていた庶
「縄文時代」といえば誰でも何かしらのイメージを持っていると思いますが、実はこの縄文時代は“一万年以上も続いた時代”だということをご存知ですか? 日本の縄文時代に類似した生活形態を持っていたのは、世界中を探しても北アメリカ北西海岸の一部先住民族のみで、縄文時代は日本独自の文化であり、日本人のルーツを探るのに必要不可欠な時代なのです。 そんな「縄文時代」は現在でもさまざまな議論が活発に交わされています。 縄文時代とは一体どんな時代だったのでしょうか? 研究者でさえまだ最終結果が出ていない、縄文時代の流れについて今回は少しゆるーくご紹介していきたいと思います。そのためには100年前後の事象のズレがあることをご承知おき下さい。 なぜなら縄文時代は今でも研究者・学者の間でも喧々諤々の論争を生んでいる時代なのですから。 歴史上で時代が変わるということの意味 縄文時代とは紀元前に10,000年以上も続い
なぜ日本は「除名」「経済制裁」を受けなかったのか? 戦前の日本史について「なぜ日本はあの戦争を避けられなかったのか」というテーマで調べていると、満州国の建国を国際連盟が認めなかった、という話が必ず出てきます。 関東軍が「暴走」して作ってしまった満州国。これが侵略と言えるかどうかが当時の国際連盟で議論され、その結果、連盟は満州国での中国の主権を認めて日本を非難する「非難勧告」を決議しました。 歴史の教科書では、この「非難勧告」を受けて頭に来た日本全権団が、席を立ち椅子を蹴って、「国際連盟から脱退する!」と宣言してその場を後にした……みたいなニュアンスのことが書かれています。 しかしそれが本当なら日本は国際連盟から脱退して、国際社会で孤立して、西欧諸国と対立していたはずです。それなのにその後、経済制裁も何も受けていません。この時本当は一体何があったのでしょうか? 日本と国際社会の関係は、悪化し
奉行が判決を下しうなだれるお白洲の被疑者。時代劇でど定番の光景ですね。考えてみたら屋外だと、雨天のときは役人も濡れてしまいます。 きょうは雨だから取り調べなし~なんて、いい加減なことは曲がりなりにも「お役所仕事」であるはずがありません。 奉行所には、奉行が着座する「裁許所」の前に「上縁・下縁」という二段の板縁があり、その前方下に公事場(お白洲)があります。 天保13年の「町奉行所図」には「仮白洲」部分に「此上仮屋根」とあり、図面では公事場は裁許所と同じ色に塗られています。屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いているというのが実情のようです。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧たることも なしと思へば」 【意訳】この世界は私のために存在していると思っている。まるで満月が欠けることがないように…… 平安時代、権勢の絶頂を極めたことで知られる藤原道長(ふじわらの みちなが)。 気に入らなければ天皇陛下さえも退位に追い込んだという道長は、まさに向かうところ敵なし。 憎まれっ子、世に憚る……そんな道長が、ボコボコにされたことがあると聞いたら、少し痛快に思えるでしょうか。 今回はそんなエピソードを紹介したいと思います。 か弱い女官が道長の胸倉を…… 時は長保2年(1000年)、道長が療養していた姉の藤原詮子(せんし)を見舞いに行った時のこと。 「姉上、お加減はいかがでしょうか?」 「えぇ。今日は少し気分がよくて……」 今上陛下(第66代・一条天皇)の生母としてしばしば「国母専朝事(朝事=国政をほしいままに専横する)」などと批判され、
「征夷大将軍だから鎌倉幕府を開けた」はウソ!? 皆さんご存じの源頼朝(みなもとのよりとも)と言えば、「1192年に鎌倉幕府を開いた人物」として有名ですね。 そしてそれは、「征夷大将軍というポジションに任命されたことで、軍事のトップに立ったから幕府を開くことができた」という流れで現在に至るまで認識されてきました。 ところが、この流れが真実を言い当てているのかどうかは、ちょっと怪しいようです。 征夷大将軍=軍事のトップ=鎌倉幕府、ではないんですね。 一体どういうことでしょう? この記事では、その真実に迫りたいと思います。 朝廷が与える肩書きは「名前だけ」 「征夷」とは、僻地の人々を征服するために軍事力を振るうこと。そしてそれを承認された大将軍が、征夷大将軍だとされています。 しかし朝廷で内大臣を務めた中山忠親による『山槐記』によると、頼朝はこの「征夷大将軍」のポジションには興味がなかったようで
個人的にスウィーティは毎日食べていたというほど、青春のフレーバーです! 発売当時、人気フレーバーだった板ガムたちが、当時の味とデザインでよみがえりました。これらの復刻板ガムは現在、DAISOで先行復刻発売中。Japaaanでさっそくゲットしてみましたので、その味わいを紹介します。 まずこのパッケージデザインが懐かしいですよね。食べたことが無い人でも、きっとこのデザインが記憶に残っているひとはきっと多いはず。 ちなみに「スウィーティ」は1995〜2006年、「アセロラ」は1989〜1995年、「スペアミント」は1954〜1997年の発売。 どのフレーバーも、パッケージを開封した瞬間に懐かしの香りがガツンときますね。この”濃い香り”が、昔ながらの板ガムの特徴とも言えるでしょう。
明治時代中頃の全国の郡・市の範囲をシェープファイルに収録したデータ『郡地図 Ver 1.0』が無料ダウンロード公開されました。だれでも自由に利用することができます(使用条件等あり)。 今月公開された『郡地図 Ver 1.0』は、明治時代中頃(市制及町村制施行の頃)における郡・市の範囲を、シェープファイルに収録した、郡地図研究会による無償公開データとなります。 シェープファイルの利用においては特別なソフトウェアや知識などが必要となりますが、なんと『郡地図 Ver 1.0』のデータを利用して、Google Map上に郡地図データを表示するGoogle マイマップバージョンも公開してくれているのです。 Google マイマップバージョンは、レイヤー数および容量制限のため、地域別に公開されていますが、誰でもブラウザ上ですぐに郡地図データを確認することができます。 自分の住んでいる地域や出身地など縁
幕末は暗殺が横行した時代。特に有名だったのが、「尊王攘夷派の四大人斬り」と呼ばれる四人の暗殺者でした。 前半では、四大人斬りのうちの二人、「田中新兵衛」と「河上彦斎」の末路について紹介します。 なぜ暗殺は繰り返されたのか? 幕末は刀で時代を変えようとする志士達によって、暗殺が繰り返されました。桜田門外(さくらだもんがい)の変で大老の井伊直弼が暗殺され、水戸藩の名もなき志士達によって時代が動いたのをかわきりに、尊王攘夷の大義のもと天誅(天皇に代わって悪人を成敗する)と称して、要人がその刃の対象となりました。 自分達の中では、「暗殺で時代を変えるのが正義」と信じて疑わなかったのでしょう。 幕末の四大人斬り 1 田中新兵衛(たなかしんべえ) 元薩摩藩士の田中新兵衛が、まず暗殺したのが島田左近(正辰)。島田左近は、井伊直弼の右腕であった長野主膳に協力して、安政の大獄で尊王攘夷派を弾圧していました。
かつて武家の棟梁として室町幕府を開き、その初代将軍として天下に号令した源氏の名門・足利尊氏(あしかが たかうじ)。 しかし時は流れ、第15代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長(おだ のぶなが)によって京都を追われると、幕府は滅亡してしまいます。 これで足利氏も歴史の表舞台から姿を消してしまった……と思われがちですが、武士の世が終わりを告げる明治維新まで大名として存続した家がありました。 今回はそんな喜連川(きつれがわ)藩のエピソードを紹介したいと思います。 尊氏の次男・足利基氏の末裔 喜連川は足利一族の故地として知られる下野国塩谷郡(現:栃木県さくら市)にあり、足利尊氏の次男・足利基氏(もとうじ)の末裔である足利国朝(くにとも)が、時の天下人である豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)から400貫(3,500石)の所領を与えられた(※)のが始まりです。 (※)元の所領であった下総国千葉郡小弓城(
一度は訪れたい東京の名店「純喫茶」の名物メニューをミニチュア化させたカプセルトイ「純喫茶 ミニチュアコレクション」が登場です。「純喫茶 ミニチュアコレクション」は、古き良き時代の雰囲… 第2弾は「関西編」。大阪府、京都府に実在する5店の純喫茶の看板メニューがミニチュアフィギュア化されます。 ディレクションは、SNSや書籍などで純喫茶の魅力を発信している難波里奈さん。商品に同梱されているリーフレットには、第1弾と同様に難波さん書き下ろしによる純喫茶の紹介文や写真が掲載されます。 ラインナップは5種類。 京都府/喫茶ソワレ ゼリーポンチ 昭和23年(1948年)創業の喫茶ソワレ。看板メニューの「ゼリーポンチ」は、昭和50年頃(1975年頃)から喫茶ソワレのメニューに仲間入りしました。ミニチュアでは、ソーダの中に5色のゼリーが浮かんでいる様子を再現。柄に装飾がほどこされたスプーン、凹凸のある特徴
1853年、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀沖に来航した。所謂、黒船来航だ。ペリーの開国要求に応じた日本は日米和親条約を締結。 その後、アメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアと安政の五か国条約を結び、日本は長きに亘る鎖国を解いて、海外へと扉を開くこととなった。 外国と交易をするための港の一つに、江戸からさほど離れていない横浜が選ばれた。遠い海の向こうから異国人がやってきたことが庶民の耳にも聞き及ぶと、人々の関心は自分達とは異国人の違う顔立ちや髪と目の色、装い、持ち物などのその全てに注がれた。 横浜を訪れた外国人や居留地を画題にした浮世絵を「横浜絵」と呼ぶが、中には当時の日本人がまだ誰も目にしたことのない外国の風景を描いた作品もあり、人々の好奇心を大いに掻き立てた。 少しの参考資料と想像を膨らませて描いた外国の風景 「横浜絵」は二代目歌川広重や歌川貞秀、歌川芳員、歌川芳虎、落
クリエイティブ・コモンズユニバーサル1.0(CC0 1.0)の下で提供されており、営利目的であっても、許可を得ずに複製、改変、配布など可能です。(利用前には必ずライセンス情報を読んでおきましょう) シカゴ美術館やメトロポリタン美術館など、世界中の美術館や博物館では同様のサービスを提供しているところは少なくありませんが、アムステルダム国立美術館にしかない貴重な作品たちも高解像度で閲覧、ダウンロードできますので、アートが好きな方は必見です。 Rijksstudio – Rijksmuseum日本の作品に絞り込んだ検索
1590年。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は20万の大軍勢で小田原城に迫った。後に「小田原征伐」と呼ばれるこの戦役は、北条氏4代目当主である「北条氏政(ほうじょううじまさ)」との対立が一つの要因と考え… 信長の死 1582年。織田信長は甲斐国の武田氏を滅したことによって、関東での勢力を拡大した。氏政は関東における北条家の領土安堵を信長に願い出ていた。氏政は室町幕府15代将軍足利義昭を伴って上洛し、武田氏を滅した信長の勢いを恐れていたという。 しかし、同年の6月。本能寺で信長が横死すると状況は一変する。氏政は関東を治めていた織田家の家臣滝川一益を神流川の戦いで破ると、同様に侵攻してきた徳川軍と和睦。上野国(現在の群馬県)を手に入れる。 1585年頃には、北条氏の勢力圏は西は伊豆から北は下野国(現在の栃木県)常陸まで240万石に及んだとされ、氏政は北条家の最盛期を作り上げる。 秀吉との対立 景
1590年。天下統一を目前に控えた豊臣秀吉は20万の大軍勢で小田原城に迫った。後に「小田原征伐」と呼ばれるこの戦役は、北条氏4代目当主である「北条氏政(ほうじょううじまさ)」との対立が一つの要因と考えられている。 今回は、天下人・豊臣秀吉に最後まで抗った男、北条氏政の生き様をご紹介する。 関東の覇者「北条氏」に生まれた氏政 北条氏は、戦国大名の先駆けとされる「北条早雲(ほうじょうそううん)」を始祖とすし、早雲から5代に渡って小田原を中心に関東一帯を支配した戦国大名家である。 1538年。氏政は3代目当主・氏康の次男として生まれた。長男の氏親が1552年に16歳で早世したため嫡子となった。 1554年。父の氏康は隣国である武田氏と今川氏の治める両国と同盟を結んだ(甲相駿三国同盟)ことによって甲斐国の武田信玄の娘「黄梅院(こうばいいん)」を正室に迎えた。 1559年。父から家督を譲られ北条氏4
1582年。明智光秀は京都の本能寺を急襲し、主君である織田信長を討ち取った。このクーデター成功の背景には、光秀を支えた5人の重臣たちの活躍があったとされる。 今回は、明智光秀が信頼をおいた5人の家臣「明智五宿老」をご紹介する。 1. 明智 秀満(あけち ひでみつ) 生年月日は定かでない。左馬助(さまのすけ)の通称で知られる。出自には謎が多く、一説には光秀の叔父である明智光安の子であり、光秀とは従兄弟であったとされる。また、三宅姓を名乗っていた記録も残っており、明智家の家臣であった三宅氏の一族である可能性も残っている。 1553年。美濃国斉藤家の内紛によって、美濃を追われた光秀と共に越前へ渡ったとされる。光秀の家臣として仕え、1578年には光秀の娘と結婚している。 1579年。光秀が丹波国(現在の京都・兵庫・大阪を跨ぐ地域)を平定すると、福知山城を預けられた。本能寺の変直前まで在城したという
今川・織田・豊臣に臣従するという試練を乗り越えて、江戸幕府を開府した徳川家康。 しかし、そこには先の天下人・豊臣家の脅威がありました。家康は、豊臣家を滅ぼすとともに、秀吉の墓と神社を破壊し、京都からその痕跡を消し去ります。 何が、家康をそんな行動に駆り立てたのでしょうか。 「豊国乃大明神」という神になった豊臣秀吉 1598(慶長3)年8月18日、天下人・豊臣秀吉は、伏見城で63歳の生涯を閉じました。 その後、秀吉の遺骸は、京都の方広寺東方にある阿弥陀ヶ嶽山頂に葬られ、中腹には秀吉を祀る豊国神社が建立されたのです。 秀吉は朝廷から「豊国乃大明神」の神号が与えられ、神となりました。
かつて蝦夷地(現:北海道)や樺太、千島列島に独自の文化を繰り広げていたアイヌ系諸部族(以下アイヌ)は、本州の人々と交流したり争ったりしていました。歴史の授業では江戸時代初期に勃発したシャクシャ… ※夷狄とは東夷(とうい。東の野蛮人)と北狄(ほくてき。北の野蛮人)の総称で、広くアイヌや蝦夷(ゑみし)といった東日本の(中央政権にまつろわぬ)諸部族を意味しました。 アイヌにも海賊がいた!?意外と、そしてかなり不利だった和人の立場 夷狄商舶往来法度とは、それまで激しい抗争を繰り広げて来たアイヌと和人の間に締結された一種の講和条約で、史料によって諸説あるものの、おおむね天文二十1551年ごろに締結されたそうです。 締結に立ち会ったアイヌの代表者はシリウチ(現:知内町)の首長チコモタインとセタナイ(現:せたな町)の首長ハシタイン。対する和人の代表は、松前大館(現:松前町)の領主・蠣崎季広(かきざき す
私事ながら、以前鎌倉に遊びに来てくれた友人を案内した時、鎌倉宮(かまくらぐう)の石碑について尋ねられました。 「ねぇ、あの文字は何?」 そこには「鎌倉宮」という神社名の上に「官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)」という文字が刻まれているのですが、その部分がコンクリートのようなもので埋められています。 「あれは国家神道(こっかしんとう)の名残で、戦後都合が悪くなったから隠そうとして埋めたんだよ。興味があるなら、もう少し詳しく話すけど」 筆者の話は冗長かつ退屈なことに定評があるため、なるべく不快な思いをさせないよう(そして筆者も口が疲れないよう)、あらかじめこう確認しておくのですが、友人は案の定「もういいや。別にそこまで興味ない」と答えたので、その話題は終了しました。 しかし、こうした神社は全国各地にあり、興味のある方がいないでもないでしょうから、せっかくなので今回まとめて紹介したいと思います。覚え
昭和初期に撮影された映像というものは、自分が生きた時代ではなくともどこか懐かしく感じるところがあります。今よりも着物姿でお出かけしている人が多かったり、高度経済成長の活気に満ちあふれていたり。… この記事の中で紹介した、1948年に撮影されたハリウッド映画「東京ジョー」の未使用カットを、AI技術でカラー化させた動画がありましたので紹介します。 まずはカラー化される前のモノクロ映像がこちらです。 1948年(昭和23年)の映像ということで終戦から数年後の東京の姿です。資料によると東京・渋谷周辺の街並みを中心に撮影されているもののようです。 このモノクロ映像の元データはInternet Archive(インターネットアーカイブ)で公開されており、誰でも無料でダウンロードできます。 近年のAIによる映像カラー化技術の発展によって、この映像は様々な技術者によってカラー化されています。今回は、その中
イギリスの大英博物館が、江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)の行方知れずとなっていた作品が発見され、大英博物館がそれらを入手したと発表しました。 今回、大英博物館が収蔵品に加えたのが、「万物絵本大全図(ばんぶつえほんたいぜんず) 」という、103作品からなる挿絵本。1829年に北斎によって描かれた作品です。 この作品は1948年にオークションに掛けられ、コレクターの手に渡ってから行方がわからない状態でしたが、2019年にパリで見つかり、大英博物館が収蔵品に加えました。 「万物絵本大全図」はすでに大英博物館のオンラインコレクションで公開されており、どなたでも全て無料で閲覧することができます。浮世絵ファン、北斎ファンにはぜひ見てもらいたい作品群!
人気ゲーム「あつまれ どうぶつの森」(以下「あつ森」)�のゲーム内で利用できるマイデザインを、世界中の様々なファッションブランドが公開し盛り上がっていますが、マイデザイン公開の流れはファッション業界だけには留まらないようです。 17日、大阪王将がオリジナルマイデザインを公開しました。 「大阪王将がいったいどんなデザインを!?」と疑問に思う人も多いと思いますが、公開されたのは、大阪王将のロゴマークや看板商品をモチーフとしたマイデザイン。 そして、はねつきぎょうざハット、や、チャーハンTシャツぎょうざがらパターンなど、大阪王将のメニューをモチーフにしたデザインとなっています。 配布アイテムは、「おおさかおうしょうのかんばん」、「はねつきぎょうざハット」、「チャーハンTシャツ・レッド」、「チャーハンTシャツグレー」、「ぎょうざがらパターン」、「チャーハンがらパターン」、「おおさかおうしょうのはっ
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