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インタビュー
note.com/cyborgmsx
プログラム小僧はベーマガ、ゲーム少年はログイン、美少女ファンはテクノポリスと言うパソコン雑誌界に突如出現したのが角川書店のコンプティークでした。 本屋さんで手に取ってみるとパソコン雑誌なのにプログラムどころかパソコン関係の記事すらない!しかし86-92年という新世代オタク文化にとって絶対外すことのできないコンプを大特集します。 86年のロードス島連載から92年のお家騒頃まで購入していました。 ①最新オタク文化の発信基地 80年代前半までのオタク文化の中心はアニメと漫画が担っていたように思います。そこにデジタルゲームという新しいジャンルが割って入る形で急激な発展をみせることにな
ロシアが2022年2月24日に突如として開始したウクライナへの軍事侵攻は悪夢ような光景でした。元KGBであるプーチンは徹底的な言論弾圧を断行、ロシア国内でこの蛮行を非難することは非常に危険な状態にあります。しかし祖国を離れてもなお、この不毛な戦争に異を唱える矜持を持ったロシア人も存在します。 今回は冷戦の壁を乗り越え西側のゲーム作家と友情を結んだテトリス作者、アレクセイ・パジトノフの祖国への想いを綴ります。 ❶テトリスの衝撃 グラディウスII -GOFERの野望-やパワードリフトといった家庭用ゲーム機では到底不可能なゲームがひしめいていた1988年末のゲームセンター。その一角に長蛇の列が並んでいるのを見て僕は「新しい筐体が稼働したのか!」と胸をときめかせると、ディスプレイに映っていたのはアッカンベーをしていたサルでした。何とも地味な画面にがっかりして攻略中だったスプラッターハウスをプレイし
前回は黎明期のジョイスティックとその進化を特集しました。正直使いにくい物も多かったのですが、それはアイディアと試行錯誤によって精錬されていった過程なのだと思います。 MSXは初期に多くのメーカーが参入したこともあり、各社が独自のジョイスティックを発売していました。その中でも特にイカレた奴を厳選してお届けします😁 MSXマガジン1984年9月の特集記事 ①MSX界最強の怪物ジョイハンドル MSX2・FS-A1mkIIとセットの広告デカァァァァァいッ説明不要!! 上に乗ってるMSX2・FS-A1mkIIの4倍ぐらい厚みがありますよ。これじゃプログラムできないじゃん。 今回のネタで絶対外せないのがPanasonic FS-JH1、通称ジョイハンドル。1988年3月の発売で当時のMSXユーザーなら「ああ、アレね。」と知ってる人は多いのですが、実際購入した人は皆無というツチノコのような一品です。
2024年9月、漫画家の栗橋伸祐先生がご逝去されました。まだお若く、作品のご執筆中だったということで深い悲しみを禁じ得ません。僕は慌てて本棚の一冊を抜き出しました。今回は忘れじの名作「漫画版ダンジョン・マスター」とあの雄々しき4人の冒険者のお話です。 原作はウィザードリィに通ずる想像力を試されるゲームでしたが、イマジネーションを膨らましてくれる傑作でした。 登場した4人でパーティーを組んだ方も多いのではないでしょうか。 ①パソコンゲームのコミカライズパソコンゲームが進化し、ビジュアルや物語が高度になってくると当然マンガ化という流れになってきました。これは先行してファミコンゲームで起きた現象でしたが、FCは対象年齢が低かったこともありマンガ版攻略本という内容が多かったと思います。 パソコンゲームの漫画化の先鞭をつけたのは角川書店のPCゲーム雑誌コンプティークでした。(テクノポリスとかもやって
ゲーム音楽が影も形もなかった時代、電子音楽の伝道師であったY.M.O.イエロー・マジック・オーケストラ。 メンバーの一人である高橋幸宏氏は古くからのパソコンユーザーでもあり、ゲーム音楽も多数作曲されています。2023年に惜しくも天界に旅立たれた高橋氏の音楽世界を辿りたいと思います。 ①1986年のインタビュー 「パソコンをいじっている少年のあのエネルギーの中から、新しい音楽が生まれてくるような気がしますね」 まだPCに偏見のあった時代に高橋幸宏氏の言葉にどんなに勇気づけられたでしょうか。YMOは音楽でパソコン少年を応援してくれたんです。 高橋氏は古くからシンセサイザーやコンピューターを作曲に使用していましたが、1978年のソロ活動開始時期に後の盟友坂本龍一教授の影響からだと述べています。ゲーム音楽どころか電子音を音楽に取り入れることさえ認められず「無機質な音楽」と批判された時代でした。そう
ゲーム音が音楽として認められない時代から東京オリンピックの入場曲へ… ゲームミュージックを文化にへと昇華させた偉人、すぎやまこういち先生。数々の名曲が生み出された原点は先生が類まれなゲームフリークであったことだと思います。今回は先生が残されたインタビューを出来る限り集めてみました。 古代祐三先生との『もう一つの神々の対談』ほかを追加しました。 1988年の作曲風景 ①神々の対談・植松伸夫氏 すぎやま先生と植松伸夫氏の豪華すぎる対談。1993年ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジーの両シリーズとも脂がのっている時期になります。60代と30代と親子ほどに年の離れたお二人ですが、共にゲーム音楽家として話が弾んでいるのが伝わってくる内容です。 以前Twitterに投稿した時に著名なプロの方を含め多くの作曲家から「今でも学ぶべきことが多い」「お二人のやり取りに感銘を受けた」とコメントを頂きました。
1984年に発売された美少女ゲームのオリジン・ウイングマン。そこから僅か2年でパソコンゲームの状況は一変していました。ドラゴンクエストが発売された1986年、満を持して発売されたウイングマン2 キータクラーの復活とそれを取り巻く環境を追ってみました。 ❶1986年の美少女ゲーム 前回の特集の84年はまだパソコンゲーム黎明期でしたが、86年では急激な進化を遂げていました。85年末にザナドゥとハイドライド2が大ヒットを飛ばし、RPGの時代に突入しようとしていた時期になります。一方美少女ゲームは1985年6月のウィル デス・トラップIIで美少女アンドロイド、アイシャちゃんが大人気に。同時期の1985年5月に天使たちの午後が初のアニメタッチのアダルトゲームとして登場しています。 しかしその人気とは裏腹に美少女ゲームの数はまだ多くはありませんでした。これはまだアニメタッチのCGを作成するのが難しかっ
ディスプレイに光輝く美少女たち。パソコンCGの進化は彼女らによって支えられていたと言っても過言ではありません。その頂点は前回特集したうる星やつらのラムちゃんでしたが、ゲームとして先陣を切ったのはウイングマンだったと思います。今回は現在にも続く美少女ゲームのオリジン・ウイングマンの魅力に迫ります。 ❶ウイングマンが生まれた時代・1984年のAVG 時は1984年、まだパソコンゲームは黎明期でした。当時TVゲームといえばアクションゲームが当たり前で、1枚絵が表示されるゲーム自体が珍しかった頃です。コンピュータ・グラフィックス自体に貴重性があり、CMなどでパソコンのCGが流れるだけで興奮しました。 これは1984年放送の日立のパソコンS1のCMです。 この頃からCGを多用するゲームとしてアドベンチャーゲームが注目され始めました。このジャンルはパソコン少年だけの特権でしたね。『ミステリーハウス』『
僕がまだナイコン少年だった1985年の夏、帰国した父が突如「MSXを買いに行こう」と言い出しました。大しゃしぎする僕に「私の仕事用だ」とのことでガッカリしながら秋葉原へ向かう場面からこの物語は始まります。 父はソビエト連邦へのプラント(工場)輸出の専門家でした。機械技術者としてロシア語が堪能だったからです。 ソ連の鉄工所『共産党は我々の時代の精神、名誉、そして良心である』レーニンの言葉担当した圧縮機工場の設計図。三百種千台の工作機械が稼働する巨大な物です。父は1971年よりソ連アゼルバイジャンに建設された圧縮機工場の品質管理責任者に就任します。立ち上げ時にはそのデータ管理は手動で行われていました。80年代に入るとデータ管理はパソコンの仕事に移っていきます。巨大なデーターをコンパクトに集計するパソコンの効果は絶大でした。 87年父の会社の最新式のPC9801UX。日本のビジネス機は16bit
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