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rekikakkun.hatenablog.com
こんにちわ。 rekikakkunです。 西安観光の3日目をご紹介します。 7.観光記録 (3)3日目 3日目は、下の地図の⑧大雁塔から、番号順に ⑬大唐不夜城 まで訪問しました。 この地図に①から⑱全部入れました。 (3日目の訪問地は⑧~⑬) 訪問地と概要の表 (〇番号は地図と同じです。 ただし〇番号は訪問順、表は時代順です。) 1)⑧大雁塔(世界遺産、第一次全国重点文物保存単位) 西安(長安)の象徴の一つに数えられますよね。 大雁塔(だいがんとう)は、西遊記でも有名な 三蔵法師玄奘が、インドや西域訪問から帰国し、 その経典や仏像等を保管するために、唐の3代高宗に 依頼して652年に大慈恩寺の境内に建てられました。 現在シルクロードの世界遺産の構成要素になってます。 全国重点文物保存単位も、西安城壁と共に、 第一次(最初)に選出されてますね。 朝8:00ホテルを出発しました。 ホテルから
こんにちわ。 rekikakkunです。 前回に続き、中国西安観光 について、投稿致します。 前回は2日目の朝、②ホテルを出発して、③西安城壁 (安定門)と空海ゆかりの⑤青龍寺観光を紹介しました。 (〇番号は、地図や表に同じ番号で表記されています。) 今回は、前回書ききれなかった2日目の 後半からです。 高速道路を使って、ツアーバスで ⑥函谷関に向かいます。 2日目の観光経路は下の地図の黄色矢印、 ②から⑤を辿り、今回の⑥函谷関と⑦三門峡は、 地図から右方向に外れます。 西安観光ルート地図 2日目 7.観光記録 (2)2日目 西安は陝西省に所属していますが、 秦函谷関は、西安の東方向約200km程 の距離で、河南省三門峡市にあります。 なので青龍寺を出発して、高速道路に入り、 東方向に進みました。 進んで1時間位?すると南側に特徴のある 山並が見えてきました。 高速道路から見た崋山周辺の山
こんにちわ。 rekikakkunです。 引き続き、中国西安観光について 2回目を投稿致します。 7.観光記録 (2)2日目 2日目の朝になりました・・・。 この時期(3月末)の西安は、空調を使わなくて 良かったので、睡眠は快適でした。 (音とか乾燥とか気にせずで、良いですよね👍) 6:30に朝食会場が開き、入りました。 シェラトン西安 朝食会場1 朝食会場2 3日間、右手前の同じ席 朝食会場3 バイキングあるある、3日間飲み物と食事、席がほぼ同じ😎 このホテルのレストランは綺麗で、朝食バイキングは 期待通りで良かったです。 ホテルのロビー ホテル出入口 ホテル入口外観 出発直前のツアーバス この時7:38。あまりに正確な日本人😅。 7:40頃出発しました。ガイドさんが説明しています。 バスは大型バスで、今回16人なので、 2人席を1人で座れて、良かったです。 ~西安観光マップ~ こ
こんにちわ。 rekikakkunです。 突然ですが、3月末より4泊5日で、 西安観光ツアーに一人参加しました。 久しぶりの海外なので、準備等も記録 しがてら投稿します。 今回は、覚書みたいな文章だらけ なので、ささっと流して下さい。 1.背景 元々三国志や春秋戦国の中国史が好きで、 1カ月程かけて歴史巡りの旅をしたいと 思っていたのですが、現実的にはパンデミック や諸情勢等により、あきらめていました。 ところが、ふと昨年末に中国渡航緩和、短期ビザ解除 がなされたのを思い出し、半分暇つぶしにツアーを 検索してみたところ、これでもかっていう位、 史跡に特化したツアーが一つあり、しかも ぎりぎり予約ができそうでしたので、 即決しました。 そのツアーの基本条件は下記です。 2.ツアーの基本条件 (1).旅行会社:阪急交通社 (2).企画:まるごと西安・咸陽5日間 (3).初日と最終日は移動のみ。
こんにちは、rekikakkunです。 今回は、いよいよ小田原北条氏の防衛戦 シリーズのラスト、北条氏の小田原開城を 決定づけた石垣山城を探訪します。 1.石垣山城探訪 石垣山城は小田原城の西南、早川を挟んだ 衣笠山(きぬがさやま)に築城されました。 車で国道1号線から一夜城下通リに入り、 石垣山城へ進みます。 石垣山城へ進む道 1)小田原城遠望 途中小田原城下が見渡せたので、遠望しました。 石垣山の途中、小田原城全景 正面見えてる所が、全部戦国小田原城内 石垣山城の山麓から見た小田原城 戦国時代にこんな大規模の城は無かったと 思いますので、豊臣方も驚いたと思います。 石垣山城と小田原城遠望 黄色丸辺りから小田原城を見てます 小田原城の西側を構成している天神山丘陵の傾斜 (写真右側が相模湾) 小田原城天守閣拡大 写真中央の半分住宅開拓されてる丘陵が、 細川忠興が布陣した富士山砦 因みに、小
こんにちは、rekikakkunです。 小田原北条氏の防衛戦は、八王子城探訪の 投稿が終わり、今回で30回目となりました。 あらためて、全体地図を確認してみます。 いつ作ったのか確認してみたら、 2023年12月7日という・・・。 本シリーズは、1年と3カ月経ちました。 ゆるして・・・+_+ 上の全体マップの⑯が小田原城、 前回の八王子城は⑬です。 ⑯の小田原城は最初に投稿しましたので、 残りは⑭韮山城、⑮石垣山城の2回の予定です。 今回は⑭韮山城となります。 今年2月に再訪してきましたので、 この日の探訪歴をご紹介致します。 1.韮山城の概要 明応2年(1493年)伊勢新九郎盛時 (後の北条早雲)が、堀越公方(当時は茶々丸)を 攻撃して伊豆国の支配権を握り、近くの韮山城を 拠点としました。 伝堀越御所跡 上のマップで見ても、⑭の韮山城は 伊豆国の出入口となる重要拠点と言えます。 因みに茶
こんにちわ。rekikakkunです。 八王子城攻防戦を綴って7回目。 今回が八王子城ラストとなります。 今回は下の攻防戦図の左下付近、赤線のルートで ⑫本丸から⑰までを進めます。 八王子城攻防戦図改定1 4.八王子城探訪 1)根小屋地区 探訪 2)居館地区 探訪 3)要害地区 探訪 ⑫本丸 八王子神社から本丸まで登ってすぐです。 八王子城本丸 本丸はだいぶ狭いですね~ 八王子城本丸跡石碑 八王子城本丸跡 説明板 本丸の切岸と腰曲輪 本丸を守備していたのは、 城代の横地監物吉信と大石照基。 八王子城の本丸は、上の写真の通り、守っても 詮無く、大石照基は落城間際に横地監物を逃がし、 自らは打って出て討ち死にしたと伝わります。 本丸まで追い込まれて玉砕した、 山中城と同じ厳しさですね。😖 その後横地監物は檜原城(ひのはらじょう)へ 向かったとあります。 檜原城は八王子城の北西15km程の距離
こんにちわ。rekikakkunです。 Windows11に対応する為、7年ぶりに パソコンを買い換えました。 コスト削減の為、1年前のバージョンにしま したが、さくさく動くようになりました。😊 そして・・・、 八王子城攻防戦を綴って、6回目となりました。😂 そろそろ終わらせないと、次のフェーズに 進めないので、今回で終わるつもりで、 書き始めます。😅 前回まで、下図の八王子城攻防戦図の、 ①から⑧柵門まで話を進めました。 八王子城攻防戦図 改定1 (⑨以降訂正してます) 今回は⑨高丸からとなりますが、 昨年の、3回目の訪問が主となりそうなので、 その日のスタートから進めてみます。 八王子の町(宿泊先)から早朝、車で八王子城へ向かう。 凄い良い天気でした👍 八王子城駐車場に到着しました 中央の山頂が、今回の八王子城本丸周辺です。 八王子城 メインの登城口 すぐに新道と旧道の分岐点に
こんにちわ。rekikakkunです。 引き続き八王子城探訪を投稿致します。 八王子城の縄張 現地説明板 八王子城は、管理棟に設置されている上写真の説明板 によりますと、3つの地区に分類されています。 1)根小屋地区 城下町及び支城群、太鼓曲輪等、 城域の周辺を構成している施設。 2)居館地区 城主の館とされる御主殿と有力家臣の 屋敷が並ぶアシダ曲輪等、山麓の施設。 3)要害地区 籠城を目的とした山城の区域。 文章ですと分かり難いので、八王子城跡ガイダンス施設の 模型図で可視化しますと、下の写真の感じとなります。 八王子城縄張 大分類のイメージ (根小屋はだいぶ抜けています。太鼓曲輪は下に少しだけ見える) 前回まで1)根小屋地区 と 2)居館地区を ご紹介しました。 今回より3)要害地区の探訪となります。 1.八王子城の歴史 2.八王子城の縄張 3.八王子城攻防戦の概要 4.八王子城探訪
こんにちわ。rekikakkunです。 新年あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願い致しします。 今回より約3カ月ぶりに、小田原北条氏防衛戦 シリーズに戻りたいと思います。 同シリーズは、下の地図番号順に時系列で進行しており、 現時点では、①山中城から⑫鉢形城まで終了しています。 そして⑬八王子城を2つ投稿した所で中断していました。 八王子城の投稿済みの目次を下記に洗い出してみます。 1.八王子城の歴史 2.八王子城の縄張 3.八王子城攻防戦の概要 4.八王子城探訪 1)根小屋地区 探訪 ①宗関寺 ②北条氏照及び家臣の墓 ③八王子城跡ガイダンス施設 ④八王子城跡管理棟 2)居館地区 探訪 ①アシダ曲輪 ②大手の門跡~御主殿に通じる古道 ③曳橋と御主殿の段石垣 ④御主殿の虎口 ⑤御主殿跡 ⑥御主殿曲輪西側の土塁石垣遺構 ⑦御主殿の滝 ・・・上の自分の記事を読み返して、 ちょっと
こんにちわ、rekikakkunです。 今回で、明智光秀の丹波攻略戦の ラストとなります。 天正7年(1579年)8月、 明智光秀は、前回ご紹介しました 赤井家の黒井城を攻略しました。 赤井家は猛将直正の時代に、丹波国全6郡の内、 西半分にあたる丹波奥三郡を支配しましたが、 彼は落城の前年に病死していました。 この赤井家を攻略したことにより、 丹波国内での有力な勢力は無くなりました。 そして、ほぼ同時期に黒井城の15km程北方の 横山城等も攻略され、足掛け5年近くを要した 丹波国の攻略、平定が成されます。 この横山城は、現在の福知山市の中心に位置しており、 光秀が福知山城と命名したことが、福知山市 由来の有力な説の様です。 福知山の地は、但馬、丹後の国境に近く、 また山陰道を通じて京都にも直通しており、 まさに北近畿を治める要衝と言えそうです。 主君信長より丹波一国を与えられた光秀は、 福
こんにちわ、rekikakkunです。 明智光秀の丹波攻略戦を綴っております。 今回は前回に続き黒井城探訪、 その後半を進めていきます。 黒井城は下のマップの⑥です。 1.黒井城探訪(国指定史跡、続日本百名城) 前回は、黒井駅から出発し、黒井城の 二の丸まで探訪しました。 ここから再スタートします。 二の丸から本丸を見る (10:02) 本丸の正面と堀 本丸への階段へ進む 本丸に到着しました (10:05) 黒井城、別名保月城 多少位置ズレや、紹介済みの写真もありますが、 黒井城本丸周辺からの見事な眺望を載せてます。 ~南東方向~ この方向は八上城、篠山の街、 その先の亀山城、京都に至ります。 ここから明智光秀の黒井城攻撃軍が 進軍してきたのでは? と妄想します。 南東方向1(八上城、篠山、亀山方面) 南東方面2 拡大 朝霧がまだ薄っすら残っていて幻想的です😊 ~北東方面(福知山城、その
こんにちわ、rekikakkunです。 明智光秀の丹波攻略戦を綴っております。 前回までは、下のマップで ②老いの坂 ③丹波亀山城 ④丹波八木城 の探訪をご紹介致しました。 (⑤は八上城、⑥は黒井城、⑦は福知山城です。) 次は順番的に⑤波多野氏の拠点、八上城になるはずですが、 すいません。丹波平定戦の肝心な所に、 工程が合わず、行って無いんです。m(__)m ま、もし出来たら1,2年後位に竹田城と 但馬八木城に、八上城と黒井城をセットにして 探訪を画策しようと、今の所は思っています。 画策というのは、山登り嫌いのかみさんを 竹田城と黒井城の2城に誘い込む 私の密かな陰謀の事です。ԅ(¯﹃¯ԅ) ま、黒井城は文句が出ないだろうと 思いますし、私ももう一度行きたい 所となりました。😀 その黒井城はタイトル通り丹波の赤鬼とも称され、 三好家、織田家等、時の権力者とも互角に戦った、 赤井直正の居
こんにちわ、rekikakkunです。 前回の続き、丹波八木城を探訪します。 (2)丹波八木城 探訪(丹波国三大城郭) 4)丹波八木城 探訪 下図の黒矢印付近から再START致します。 JR八木駅から丹波八木城へ至る地図 山に縄張りを貼り付けている地図って分かり易いですね~👍 七合目 山道を進む かえる岩 道を遮ってますが・・・ そういうものでしょうか? 八合目に来ました。 九合目 下を見ると、急斜面に石がゴロゴロありますね~。 見上げると、あ、石垣が残っています👍 貴重な石垣拡大 尾根に到着しました 二の丸跡と書いてあります。ほんとかな~? ここが二の丸だとちょっと分からない感じです。😥 理由は下記、下図です。 現地縄張図で見ますと、赤四角の登り口から赤矢印方向に登り、 赤丸の尾根上に到着しました。ここは馬屋跡となってます。 二の丸は、図で見ると赤丸からだいぶ右側にある黒丸の所で
こんにちわ、rekikakkunです。 現在北条小田原城編を中断して、 今年3月に行ってきました、明智光秀の 丹波の足跡探訪を綴っております。 本編の全体像は下のマップとなります。 マップで示しました①から⑦は、下記です。 ①京都タワー(位置関係把握の為の参考) ②老ノ坂峠(マップに無いので、近くの道標で代替) ③丹波亀山城 ④丹波八木城 ⑤八上城 ⑥黒井城 ⑦福知山城 前回は(1)老いの坂と丹波亀山城 をご紹介致しました。 今回はマップで④の位置にあります、 丹波八木城をご紹介致します。 (2)丹波八木城 探訪(丹波国三大城郭) 1)丹波国の概要 丹波国は、現在の京都府の西、兵庫県と 大阪府の北側にまたがる広い地域で 全体的に山と盆地で構成されてます。 その為、国として統一された勢力が育ちにくく、 複数の国人達で分割統治され、攻略し難い 土地柄の様です。 私も京都のすぐ隣なのに信長軍によ
こんにちわ、rekikakkunです。 現在小田原北条氏の攻防戦を綴ってますが、 前回八王子城の途中で25回目となりました。 初回(その1)投稿したのが、 昨年2023年10月でしたので、 ほぼ1年間ず~と小田原北条氏一本で 投稿してしまってました。(@_@;) そして、とうとう八王子城の途中で 力尽きました。_| ̄|○ では無くて、もう少し八王子城を観たいので、 11or12月頃の山城訪問時期に 再訪し、投稿しようと考えています。 そこで、小田原北条氏を小休止し、 新ネタを間に入れます。 突然ですが・・・、 明智光秀の丹波平定ってありますよね~。 その辺りをイメージして、今年3月に 2泊3日で探訪してきました。 表題は「明智光秀 丹波の足跡を訪ねて」。 目次は下記を予定してます。 (1).老ノ坂と丹波亀山城 (2).八木城 (3).黒井城 (4).福知山城 (1)老ノ坂と丹波亀山城 ~本
こんにちわ、rekikakkunです。 小田原防衛戦シリーズを進めており、 今回は八王子城の探訪の2回目となります。 前回の内容は下記です。 1.八王子城の歴史 2.八王子城の縄張 3.八王子城攻防戦の概要 4.八王子城探訪 1)根小屋地区 探訪 ①宗関寺 ②北条氏照及び家臣の墓 ③八王子城跡ガイダンス施設 ④八王子城跡管理棟 2)居館地区 探訪 ①アシダ曲輪 今回は上記の続きから進めます。 4.八王子城探訪 2)居館地区探訪 ②大手の門跡~御主殿に通じる古道 御主殿へ通じる道は下写真を参考に2つあり、 家臣等はアシダ曲輪を経由する青矢印の経路と 推定されますが、現在は復元されていません。 (もしくは通常立ち入れない) 御主殿に通じる2つの経路 重要な客や城主は黄色矢印の大手の道を 進んでいたと推定されてる様です。 それでは現在アシダ曲輪の正面にある城山川 の橋を渡ります。(この橋も当時は
こんにちわ、rekikakkunです。 小田原防衛戦シリーズを進めており、 今回はいよいよ八王子城の探訪となります。 壮絶玉砕、悲劇のお城で語り継がれていますよね。 場所は下のマップで⑬です。 だいぶ関東平野を南下してきました。 1.八王子城の歴史 八王子城は北条氏康の三男氏照によって、 1578年(天正6年)頃より築城開始 と推定される比較的新しい山城です。 (ただ築城年は色々な説があるようです。) 1568年(永禄12年)武田信玄が小田原城を 包囲し、三増峠(みませとおげ)の戦いでも有名となった 相模侵攻時、氏照の居城は同じ八王子市内にある 滝山城でした。 三増峠登り口 三増峠の看板 (登り口から10分程登りました) 三増合戦場の碑 滝山城は多摩川南岸に面して経済的な立地を有し、 関東でも有数規模の平山城でしたが、 信玄の攻撃を受け、落城の手前まで攻め込まれた との事です。 (この城遺
こんにちは、rekikakkunです。 小田原防衛戦シリーズを進めており、 今回は鉢形城の続きで2回目となります。 ~二の曲輪、見事な空堀~ 前回大手口、三の曲輪、秩父曲輪を中心に 進めてきました。 今回は二の曲輪から本曲輪へ進みます。 下の縄張図の赤丸付近が二の曲輪です。 鉢形城縄張図 二の曲輪付近 前回ご紹介しましたが、鉢形城は荒川と深沢川に 三方を囲われているので、攻め口は上の縄張図 で見ますと、左上方向からとなります。 なので左上からの攻撃に対し、堀、土塁、馬出等の 防御施設が多く配置されています。 二の曲輪の空堀は、この左上(西南)からの 攻撃に対し、荒川と深沢川の断崖間全体を掘で 遮断しているので、重要な防御施設の様です。 二の曲輪 空堀1 二の曲輪 空堀2 二の曲輪 空堀3 (この先が荒川の断崖) 二の曲輪 空堀4 (中央部は舗装道が通っている) 二の曲輪 空堀5 左手が深
こんにちは、rekikakkunです。 天正18年(1590年)3月29日の山中城の戦い から始まった、豊臣vs後北条氏の小田原防衛戦も、 6月に入り、いよいよ終盤戦となりました。 下の小田原防衛戦2のマップで見ますと、 ①から⑩までの城が豊臣軍に奪われ、 ⑪忍城は籠城中です。 開戦当初、豊臣秀吉本軍を迎え撃った①山中城と、 前田利家達北方軍を迎え撃った⑤松井田城での 攻防戦は激戦となりましたが、その後一部を除き、 主力を小田原城に参陣させていた北条氏の支城は 豊臣軍により、比較的安易に落城していきました。 そして4月、5月が過ぎて6月に入りますと、 いよいよ⑫鉢形城等、北条本家が直接籠城防衛 している主要防衛拠点中心の激戦必須の攻防戦 となり、最終局面に向かいます。 簡単にまとめますと下記になります。 6/14 ⑫鉢形城 北条氏邦本人(氏康五男) ⇒1カ月籠城後、降伏開城 6/23 ⑬
こんにちは、rekikakkunです。 小田原防衛戦もいよいよ終盤戦となりました。 今回は忍城探訪となります。 1.忍城の時間軸と場所 小田原防衛戦を私が勝手に3つに区分した表を、 再度掲載します。(自分が行った所が中心です) 小田原防衛戦の全体表 (忍城以外は落城順) 上の表は落城日順にしてますが、 忍城は防衛戦の最中に落城しなかったので、 忍城攻撃開始を取り上げて、⑪の時間軸としました。 今度は場所になります。 忍城の場所は埼玉県行田市で、下マップの⑪です。 因みに、私が埼玉を探訪した時の宿泊先は 熊谷と深谷ですが、マップで見るとほぼ⑪の近くです。 (埼玉探訪時に行った城⑥~⑫の中央の場所を狙いました) 2.忍城の歴史 文明10年(1478年)頃、忍城は成田顕泰 により築城されたそうです。(忍城説明板による) 立地は利根川と荒川に挟まれた広大な沼地の中に 築かれ、上杉謙信や今回の豊臣秀
こんにちわ、rekikakkunです。 小田原北条氏の防衛戦を綴って20回目です。 今回は小田原防衛戦の中盤戦の最後として、 岩槻城と館林城を簡単ですが、ご案内致します。 下のマップでは⑨岩槻城、⑩館林城 です。 17.岩槻城(県指定史跡) 1)岩槻城の立地と太田資正 岩槻城(戦国時代は岩付城)は現在岩槻城址公園 として、埼玉県さいたま市岩槻区太田にあります。 上のマップでみると関東平野の中心って位置ですね~。 太田という地名の通り、岩槻城は 有名な太田道灌が築城したお話もありますが、 現時点では伝説っぽい感じです。 ただし同族の太田資正が戦国時代、 本ブログでも探訪した松山城と共に、 岩槻城を拠点として、北条氏の関東進出に 智謀を駆使して抵抗し続けた事で有名です。 しかも息子に岩槻城を追放される等波乱万丈で、 1590年の小田原の陣にも秀吉軍に参陣し、 翌年死去しました。 関東戦国史を飾
こんにちわ、rekikakkunです。 小田原北条氏の防衛戦の流れの中、 埼玉県比企郡の国指定史跡、 比企城館跡群をご紹介しています。 もう19回目となり、タイトルも、もはや 完全に関係ない表題になってます。😂 今回は、前回探訪した武蔵松山城、杉山城に続き、 菅谷館(すがややかた)を探訪します。 比企城館跡群はもう一つの小倉城を含め、 上記4つの城館で構成されています。 16.菅谷館(国指定史跡、続日本百名城) 1)菅谷館跡の立地 比企城館跡群は、下の写真で4つの黒丸印で 囲われた所です。 関越自動車道で行きますと、最寄りのICは、 東松山ICと嵐山小川ICになります。 ほぼ埼玉県のど真ん中と言って良い位置です。 比企城館跡群の地図 2)菅谷館の歴史 菅谷館跡内には、埼玉県立の嵐山史跡の 博物館が建てられています。 ここに掲載されている説明によりますと、 菅谷館は鎌倉幕府の有名な御家人の
こんにちわ、rekikakkunです。 前回の続きで、杉山城をご紹介致します。 15.杉山城(国指定史跡、続日本百名城) 4)杉山城探訪 前回の投稿時、杉山城を大手口から順に探訪し、 凄いな~と感動しながらも、パシャパシャと 普通に撮影していました。 しかし杉山城の魅力をまだ把握できていない 感じがして、5日後の埼玉探訪最終日に 再訪しました。 その時、堀底と土塁上を歩いてみることに、 ふと気が付きました。 (それが出来るという事に///) 2度目なので最低限の全体像が分かってて、 心に余裕が出来たからだと思います。 そこで2箇所ほど、堀底と土塁をピックアップ して投稿してみます。 キーワードは3方向。。。😆 ~馬出し郭付近から堀底を歩く~ 馬出し郭付近からの堀底歩行ルート (赤線の方向に歩きます) 下図右下の堀1から、馬出し郭と外郭の間の堀底を歩きます。 ただし、ここは地獄の進入路だっ
こんにちわ、rekikakkunです。 現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。 ・・・がもう17回目、 タイトルもなんかアバウトになってます。😂 しかしながら、今回の杉山城は是非とも 行きたかった所でして、気合入ってます。ψ(`∇´)ψ 15.杉山城(国指定史跡、続日本百名城) 1)杉山城の立地 杉山城は、下のグーグルマップで⑧の所、 比企郡嵐山町(ひきぐんらんざんまち)にあります。 前回の武蔵松山城からも近いです。 2)杉山城の歴史 杉山城は特に城好きではない方は、 聞いたことも無いかもしれません。 私は数年前にyou tubeで知りました。 というのも、今まで私が触れてきました 歴史書物等には全く出てこなかったです。 何故なら!、 この杉山城は、築城者、城主、築城年代が 文献等に残ってなくて、はっきりと分かって いないそうです。 つまりは城の攻防戦の記録、歴史が全く無い という事
こんにちわ、rekikakkunです。 現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。 今回は武蔵松山城を探訪致します。 ここは是非とも行きたかった所です。 だって下の写真見てもかっこいいので。😀 武蔵松山城 上空写真 14.武蔵松山城(国指定史跡) 1)武蔵松山城の立地 武蔵松山城は下のグーグルマップ⑦の位置です。 (以後松山城と記します) この場所は埼玉県のちょうど中央の位置で、 比企地方とも呼ばれます。 そう、鎌倉幕府で北条氏と並ぶ有力御家人だった 比企能員(ひきよしかず)の本拠地です。 比企能員は、源頼朝の乳母であり、伊豆配流以降も 援助を続けたとされる比企尼(ひきのあま)の 猶子となって比企氏を相続しました。 頼朝からすると第一の恩を授けてくれたのが比企氏 と言えますので、能員は頼朝の長男頼家の乳母父、 妻は乳母、娘は妻妾となり、北条家に次ぐ血縁を得て 超有力御家人となりました。
こんにちわ、rekikakkunです。 現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。 今回は唐沢山城の2回目(後半)です。 唐沢山城 縄張図 13.唐沢山城(続日本100名城) 4)唐沢山城探訪 前回は本丸から南へ山道を下って、 下の写真の土橋跡へ行きました。 ~土橋と堀~ 本丸から南へ下った所の土橋 土橋から堀跡へ戻ります。 堀跡1 堀跡2 新めて、堀と土塁の遺構が凄いです。 (上の縄張図ですと、一番下の「クランク状の堀切」 です) あ?堀じゃなくて堀切か~。 縄張図をしっかり見ると、確かに尾根を切ってますね。 土橋行くのに道迷ってたので、ここはあまり確認しておらず、 次機会ありましたら、この周辺をしっかり見たいですね~。 さて本丸に戻ります。 土橋から本丸へ戻る ~高石垣~ 土橋まで行くために、前編ではほぼ素通りでしたが、 帰りは唐沢山城一番の見所、本丸の高石垣を じっくり撮っていきます
こんにちわ、rekikakkunです。 現在、小田原北条氏の防衛戦を綴っています。 今回14回目、まだ終わりませんφ(* ̄0 ̄) 豊臣主力軍は箱根を越え、小田原城を 包囲しました。 前田利家を主将とした豊臣北方軍は、 碓氷峠を越え、まず北関東の諸城を 攻略していきます。 前回、下の北関東のマップで①上田城から ⑦金山城までさらっとご紹介しました。 今回は、北関東最後の拠点として、 ⑧唐沢山城を探訪いたします。 (マップの番号を押すと案内が出てきます) 13.唐沢山城(続日本100名城) 1)唐沢山城の立地 唐沢山城は現在の栃木県佐野市にあります。 ここは栃木県の南部、関東平野の東端の要衝です。 そしてみなさんご存じ、佐野ラーメン屋さんが 沢山あります。こちらも重要拠点ですね(⌒∇⌒) 下の北条領全体探訪マップでは、⑥が唐沢山城です。 こう見ると、まだ関東平野の端ですね~。 唐沢山城から見た
こんにちわ、rekikakkunです。 1590年に行われた、小田原北条氏の防衛戦 を綴り始めて、かれこれ13回目(@_@;)・・・です。 これまで小田原城の防衛強化、総構え、 豊臣秀吉本軍の箱根周辺の城攻略から、 小田原城包囲辺りまで進めてきました。 実は上記の動きとほぼ平行して北条領の北方、 北関東から北条領を攻略する軍団が、 ありました。 前田利家を主将とし、上杉景勝、真田昌幸 といったスター達で構成された北方軍です。 彼らは碓氷峠(うすいとおげ)経由で 信州(長野県)から上州(群馬県)に入り、 まず北西境目の重要防衛拠点である 松井田城に殺到しました。 今回松井田城は探訪しませんでしたが、 その攻略は重要と思われるので、少し記載します。 あと過去探訪報告済ですが箕輪城、厩橋城、 金山城も、北方軍の序盤戦で攻略しているので、 簡単にご紹介致します。 11.松井田城の戦い(市指定史跡)
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