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医王山正智院泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある。かつての薩摩国の高城郡(たきのこおり)の水引郷(みずひきごう)のうち。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏を攻める。大軍勢を率いて薩摩国に入り、陣を置いた場所は泰平寺であった。豊臣軍は圧倒的な兵力で島津方を敗走させる。島津義久(しまづよしひさ)は降伏。そして、剃髪して泰平寺におもむいた。豊臣秀吉に面会し、降伏が正式に認められた。 豊臣秀吉が引き連れていた兵は10万以上とも。これほどの大軍勢が駐屯できる場所はそうそうない。泰平寺は大寺院だったことがうかがえる。 明治初めの廃仏毀釈で泰平寺は徹底的に壊され、伽藍跡などは残っていない。なお、大正12年(1923年)に泰平寺が再興。また、跡地の一部は「泰平寺公園」としても整備されている。 豊臣秀吉が本陣を置く 泰平寺の宥印法印 泰平寺と塩大黒天 開山は和銅元年 『三国名勝図
日本国内の物事を深く理解するためのヒントが、『古事記』にはたくさん詰まっている。 例えば、神社へお詣りすると、そこには神様が祭られている。「どんな神様なんだろう?」と思う。また、神話が絡んだ史跡であったり、地名であったり、といったものにも出くわす。そのあたりを紐解くための資料として、『古事記』はすごく重宝するのだ。 『古事記』については、たくさんの書籍が出版されているが、岩波文庫のコレがいいなと個人的には思う。初版は1963年。古い本ではあるけれど。 『古事記』(岩波文庫) 校注/倉野憲司 発行/岩波書店 古事記 (岩波文庫 黄 1-1) 作者:倉野 憲司 岩波書店 Amazon 『古事記』とは? 「ふることふみ」「ふることぶみ」、あるいは「こじき」と読む。音読みの「こじき」が一般的だろうか。ただ、『古事記』が正式名称であるかどうかは、よくわかっていない。序文の中に「古事記」を書名としたこ
霧島連山の南麓に中津川(なかつがわ)というところがある。ここを車で通った際に神社を見つけた。なんとなく気になる存在だな……と寄ってみることにした。 伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ)という。鎮座地は鹿児島県霧島市牧園町下中津川。かつての大隅国の踊(おどり)のうちである。 道路沿いに立派な鳥居が見える。そこから石段が続いている。 伊邪那岐神社の参道口 もともとは「妙見神社」 「妙見温泉」はこの神社に由来 石段を登って 大関霧島の力石 税所氏の棟札、伊集院氏の棟札 もともとは「妙見神社」 創建年代は不明。御祭神は伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・天日鷲命(アメノヒワシノミコト)。 じつは、「伊邪那岐神社」という社号は明治時代になってからのものである。それ以前は「妙見神社(みょうけんじんじゃ)」だった。明治時代初めの神仏分離により、仏
薩摩国の設置は、『続日本紀』によると大宝2年(702年)のこととされる。国府が置かれたの薩摩半島西部の川内(せんだい)であった。川内には薩摩国分寺跡がある。国の史跡にも指定。「薩摩国分寺跡史跡公園」として整備されている。場所は鹿児島県薩摩川内市国分寺町。 天平9年(737年)に聖武天皇の詔により、国ごとに国分寺を設置することになった。薩摩国分寺もその一つだ。 また、薩摩国分寺跡のすぐ近くにある「万葉の散歩道」もあわせて紹介する。ここには『万葉集』に収録された歌の碑がちょっとある。また、大伴家持(おおとものやかもち)の像も。大伴家持は薩摩守に任じられ、この地に居た時期がある。 薩摩国分寺跡へ 豊臣秀吉の侵攻で焼失、そして再興 「万葉の散歩道」 薩摩国分寺跡へ 史跡公園には駐車場がない。近くに川内歴史資料館があるので、こちらの駐車場を利用する。 川内歴史資料館 川内資料館には薩摩国分寺の復元模
薩摩半島の西側に川内(せんだい)というところがある。ここに天辰寺前古墳(あまたつてらまえこふん)がある。場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町。 この古墳は2008年6月に発見された。区画整理工事の中で大きな石がでてきて、動かすと空洞になっていたという。そこは石室だった。盗掘の形跡はなく、遺骨と副葬品が出てきたという。被葬者は壮年の女性。副葬品などから身分の高い人物であり、5世紀初め頃に埋葬されたと推測される。 ここを「天辰寺前古墳」と命名。「天辰寺前古墳史跡公園」として整備されている。 丘の上にあるのは円墳か? 久木原神社 古石塔もある 川内には、古代に大きなクニがあった? ニニギノミコトの神話から サツマの女王? 丘の上にあるのは円墳か? 住宅街の中に丘がある。けっこう目立つ存在だ。公園としてきれいに整備されている。駐車場もあるので、見学もしやすい。 住宅街の中に きれいに整備されている ちょ
鹿児島市本城町は、かつての大隅国吉田(よしだ)のうち。ここに「下坊上山の五輪塔」と呼ばれるものがある。ちなみに「しもんぼううえやま」と読む。 山の中に五輪塔が2基。『三国名勝図会』によると、次のような伝承があるという。 本城村、下之坊阿彌陀薬師堂の庭に在り、鎮西八郎爲朝夫婦の墓と傳称す、或は云爲朝自ら此石塔を建て、島へ下ると (『三国名勝図会』巻之七より) 源為朝(みなもとのためとも)とその妻の墓であると伝わる。また、源為朝が自分で建て、そして南島へ渡った、とも。 源為朝は保延5年(1139年)の生まれ。源為義の八男とされる。兄に源義朝(よしとも)があり、源頼朝は甥にあたる。 とにかく、めちゃめちゃ強かったと伝わる。怪力の持ち主で、強弓の使い手であったという。 保元元年(1156年)の「保元の乱」にて、父とともに崇徳上皇方で戦い、敗軍の将となる。戦後は伊豆大島に配流となる。伊豆大島で戦って
霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は宮崎県小林市細野に鎮座する。ここは夷守神社(ひなもりじんじゃ)でもある。両社は合祀され、夷守神社の旧社地を鎮座地としている。 御祭神は瓊瓊杵命(ニニギノミコト)・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)・彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)。日向三代(ひむかんさんだい)がそれぞれ夫婦で祭られている。夷守神社も御祭神は同じ。 明治時代に合祀される 霧島山中央六所権現(霧島岑神社) 雛守六所権現(夷守神社) 巨樹の並ぶ参道を奥へ 中央と、西と、東と 日付は旧暦にて記す。 明治時代に合祀される 霧島連山のまわりには「霧島六社権現」と称される6つの権現社があった。霧島岑神社(霧島山中央六所権現)も夷守神社(雛守六所権現)もこの中に数えられている。六社
島津家久(しまづいえひさ)の戦績をまとめてみた。 島津家久は四兄弟の末っ子である。通称は「中務大輔」「又七郎」。兄に島津義久(よしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)がいる。 この兄弟の中では島津義弘の知名度が圧倒的に高い。「戦場の鬼」というイメージだろうか。だが、島津家久の戦績は、この兄をも越えるかも。 ちなみに、『信長の野望』シリーズをはじめとするゲームの中では、島津家久の戦闘力がかなり高く設定されている。戦国時代好きには、それなりに知名度があると思われる。 島津家久の活躍が目立つようになるのは、永禄10年(1567年)からの菱刈(ひしかり)氏攻めより。島津氏は菱刈氏を降したのちに薩摩国を制圧。そのあと、大隅国と日向国も制した。この快進撃の一翼を、島津家久は担った。 戦国時代末期の九州は島津氏・大友(おおとも)氏・龍造寺(りゅうぞうじ)氏が三分する。やがて島津一強の様相と
山田川が蛇行するように流れている。そこには田んぼが広がっている。そんな風景を、タノカンサァ(田の神)が見守っている。「中川原の田の神」と呼ばれている。 場所は鹿児島県姶良市下名。「山田(やまだ)」と呼ばれている地区である。中川原自治公民館の横にちょっとした広場があり、そこにタノカンサァ(田の神)が祀られている。 何やら石像がふたつ。供えられている榊は新しく、水もたっぷり入っている。この日の朝に地域の方が供えたものだろう。 公民館の横に 榊をちょっと動かして、タノカンサァ(田の神)の姿を撮影させてもらう。石像には御幣も添えられていた。写真左がタノカンサァ(田の神)、右の石像はよくわからない。 石像がふたつ タノカンサァ(田の神)は、鹿児島県内あちこちで出会える。田の神像は島津氏領内(鹿児島県全域と宮崎県の一部)だけで見られる。18世紀初め頃から盛んに造られるようなったようである。豊穣の神、子
島津貴久(しまづたかひさ)のいちばんの協力者は、樺山善久(かばやまよしひさ)であろう。 16世紀の南九州において、島津氏は一族で覇権を争った。本家筋の奥州家と、分家の薩州家と相州家と。この中で抗争を制したのが相州家の島津貴久だった。樺山善久は一貫して相州家に協力し、覇権の確立とその後の勢力拡大に貢献する。 樺山氏は島津氏の支族である。その歴史は南北朝争乱期にまで遡る。そして、なかなかの存在感を放っているのだ。そんな樺山氏について、ちょっとまとめてみた。 初代/島津資久(樺山資久) 2代/島津音久(樺山音久) 3代/樺山教宗 4代/樺山孝久 5代/樺山満久 6代/樺山長久 7代/樺山広久 8代/樺山善久 島津貴久の盟友 朝鮮に出陣できず、悔しがる 娘は島津家久に嫁ぐ、島津豊久は外孫 10代/樺山忠助 11代/樺山規久 12代/樺山忠正 13代/樺山久高 17代/樺山久広 藩家老を出す 近思録
桜島の東麓に「黒神(くろかみ)」というところがある。かつての東桜島村黒神。現在は鹿児島市黒神町となっている。 黒神には、埋もれた鳥居がある。腹五社神社(はらごしゃじんじゃ)のものだ。これは「黒神埋没鳥居」という史跡名でよく知られている。大正3年(1914年)の大噴火(大正大噴火、大正噴火)でこうなった。 「黒神埋没鳥居」は、当時の噴火の凄さを物語る。 黒神近くの鍋山から噴火 鳥居を見下ろす不思議な光景 由緒は詳らかならず 埋もれた門柱 退避壕 黒神近くの鍋山から噴火 大正3年(1914年)1月12日、桜島の大噴火が始まった。『桜島大正噴火誌』には「突然として爆發せり」と書かれる。 「突然」とあるが、前兆と思われる異変もあったという。前日の11日には地震が頻発し、山崩れも発生。大きな地鳴りもあった。そして12日の朝には、さらなる異変が。温泉が沸騰する、井戸があふれる、地面から水や熱水が湧きだ
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。 この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州のほとんどを制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。 島津の四兄弟 島津義久 島津忠平(島津義弘) 島津歳久 島津家久 島津包囲網 肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い 伊東も動く 加久藤城の戦い 木崎原の戦い 大隅の制圧 小濱の戦い 住吉原の戦い 禰寝氏の寝返り 牛根陥落、肝付が降伏 日向制圧 大友の日向侵攻、島津が迎え撃つ 大友が日向北部を制圧 新納院高城が包囲される 高城川の戦い(耳川の戦い) 三強鼎立 肥後国の戦乱
鹿児島市の南の方に「谷山(たにやま)」というところがある。JR谷山駅の周辺にはタノカンサァ(田の神)の石像が多く残っている。駅のそばには「永田川」というけっこう大きな川が流れている。現在は都市化が進んでいるが、かつては田んぼが広がっていたのだろう。 谷山のタノカンサァ(田の神)のなかから「木ノ下の田の神」を紹介する。 公園の片隅に モイドンから遷されたもの タノカンサァ(田の神)は地域の守り神。五穀豊穣や子孫繁栄の神様である。島津氏領内(鹿児島県と、宮崎県の一部)で数多くみられ、石像は18世紀以降から盛んに造られたようだ。詳しくはこちらの記事にて。 rekishikomugae.net 公園の片隅に 谷山駅から南に1㎞ほどのところに、「木ノ下ちびっこ広場」という小さな公園がある。その一角に「木ノ下の田の神」は祭られている。 子どもの遊び場に タノカンサァと石祠が並ぶ。像には注連縄が巻かれ、
「『信長の野望』でいちばん面白かったのは、どれ?」と聞かれたら、私はこれを挙げる。ニンテンドーDSでコーエー(現在はコーエーテクモゲームス)から発売された、ちょっと昔のゲームだ。 『国盗り頭脳バトル 信長の野望』 ニンテンドーDS/コーエー/2008年6月26日発売 国盗り頭脳バトル 信長の野望 コーエー Amazon 『信長の野望』は人気のあるゲームだ。『信長の野望』に触れて、戦国時代に興味を持った人もけっこういるんじゃないかと思う。 『信長の野望』の1作目は1983年発売。そこからシリーズ化し、新作が出るたびに新しい要素が追加されていく。領国経営においても、合戦においても、外交においても、できることがどんどん増えていった。内容が濃くなることでゲームは面白くもなるのだが、その一方で「こりゃタイヘンだな」とも感じる。そして、すごく時間がかかるのである。 シリーズ作品には多人数対戦ができるも
島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内への侵攻を開始する。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)は豊臣秀吉を頼った。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣する。 島津と大友の微妙な関係 天正14年の九州の勢力図 島津の両殿体制、そして日向の末弟 島津と毛利 豊臣秀吉の惣無事令 戦を急ぎたい島津家臣団 豊後攻めが決まるが…… 筑前へ出陣 勝尾城の戦い 岩屋城の戦い 立花山城は落ちず 豊薩合戦 豊後南郡の戦い、落ちない岡城 島津家久の進軍 鶴賀城の戦い 戸次川の戦い 府内を陥落させる 将軍からの手紙 島津軍の撤退 根白坂の戦い 島津義久の降伏 それぞれの降伏 島
補陀山慈眼寺(ほださんじげんじ)は薩摩国谿山郡谷山郷下福元村(鹿児島市下福元町)にあった。その跡地は慈眼寺公園として整備されている。 慈眼寺跡の紅葉 鹿児島藩(薩摩藩)の初代藩主の島津家久(しまづいえひさ、島津忠恒、ただつね)は法号を「慈眼院殿花心琴月大居士」という。「慈眼寺」はこの法号からとられたものとも。慈眼寺は島津家に大事にされ、江戸時代はかなり興隆していたという。 日羅作の聖観音像を安置していたと伝わる 廃寺跡を公園に 慈眼寺跡を散策 慈眼寺公園の自然遊歩道 日羅作の聖観音像を安置していたと伝わる 慈眼寺に関する情報は、『三国名勝図会』(19世紀に編纂された地誌)にちょっと掲載されていた。その成り立ちは、つぎのとおり。 由来紀云、初め百済國日羅の開基にて、自作の聖観音を安置し、天台宗なりしが、其後廢に及ひしや、臨済宗の寺となりしとぞ、應永年中に至りて、義天公再興し給ひ、又大中公の時
天正14年(1586年)から翌年にかけて、九州の情勢は大きく動く。島津氏は大友氏領内へ侵攻。大友氏の本拠地である豊後国(現在の大分県)の制圧を目指した。この争いに豊臣秀吉が介入。大友氏の救援要請を受けて、大軍を九州に送り込んでくる。 この一連の攻防は「豊薩合戦」とも呼ばれている。その様子はイエズス会宣教師のルイス・フロイスがまとめた『日本史』に詳しい。もちろんすべてが正確とは言えないところもあるが、同時代を生きた人物が記した貴重な史料である。 完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3) (中公文庫) 作者:ルイス フロイス 中央公論新社 Amazon こちらの『完訳フロイス日本史8 大友宗麟編3 宗麟の死と嫡子吉統の背教』 (訳/松田毅一・川崎桃太)から情報を拾ってみる。 大友側からの視点で 宣教師が伝える島津の実力 島津と大友と、そして豊臣秀吉と 戸次川の戦い 豊
安良神社(やすらじんじゃ)は鹿児島県霧島市横川町上ノに鎮座する。創建は和銅元年(708年)と伝えられている。なかなかに古い神社だ。御祭神は安良姫命(ヤスラヒメノミコト)。 安良姫の伝説 安良岳の麓に 安良神社の歴史 もう一つのヤスラ神社 「和銅」の頃、隼人が抵抗していた なお、日付については旧暦にて記す。 安良姫の伝説 この地には安良姫の伝説が語り継がれている。『三国名勝図会』(19世紀に編纂された地誌)には、つぎのように記される。 社説並に當郷中の口碑に、往古安良姫は、京都の官女にて、或時川邉へ出て、紺染の直垂を洗ひしに、白鷺許多飛来りしを、眺望して覚へず、直垂の片袖河水へ流失たり、其罪に依り、穢多に命して門の扉に縛り付、炭火にて焼殺さる、然るに彼姫素より十一面観世音を信仰ありし故に、観音其身代になり、安良姫は其難を遁れ、隅州横川に落下り、安良嶽の絶頂にて自殺す、此後種々の靈怪ありければ
鹿児島市の北部に東佐多町というところがある。江戸時代には薩摩国鹿児島郡吉田郷東佐多村であった。この地にある鎮守神社に、タノカンサァ(田の神)がいる。「東下(ひがしもと)の田の神」と呼ばれている。 タノカンサァ(田の神)は18世紀以降に島津氏領内で盛んに造られた。鹿児島県内ではあちこちで見かける。豊穣の神として、また子孫繁栄として、それぞれの地域で大事にされている。詳しくはこちらの記事にて。 rekishikomugae.net 東佐多の鎮守神社へ。境内には「東下の田の神」の白い標柱もある。ここには、田の神像をはじめ石祠などが集められている感じだ。ちなみに鎮守神社の御祭神は不明。創建時期も不明。 鎮守神社 タノカンサァ(田の神)はすぐに見つかる。注連縄がかけられ、榊が供えられている。地域で大事にされているようだ。 社殿の近くにタノカンサァ 体形はふくよか。右手にはメシゲ(しゃもじ)を持ち、左
宮崎県西諸県郡高原町に狭野神社(さのじんじゃ)が鎮座する。狭野尊(サノノミコト、神武天皇)を御祭神とする。この元宮とされるのが皇子原神社(おうじばるじんじゃ)だ。 狭野神社の西側には丘陵地形がある。皇子原(おうじばる)と呼ばれる。この地には狭野尊(神武天皇)御降誕地の伝説がある。ここに皇子原神社が鎮座している。 狭野神社の元宮 皇子原へ 皇子原古墳群(高原町古墳群) 狭野神社の元宮 狭野神社の社伝によると、第五代孝昭天皇の御代に創建されたと伝えられている。当初の鎮座地は鎮座地神武天皇御降誕の地とされる皇子原。その後、敏達天皇の御代(6世紀)に皇子原から現在地に遷されたとされる。 境内は霧島連山の裾野にあたる。高千穂峰の御鉢火口からは6㎞ほどの位置。ここはたびたび火を噴く。噴火のために狭野神社は焼失し、仮宮を転々とした歴史を持つ。皇子原から神社が遷されたのも火山噴火の影響があってのことだろう
高原(たかはる)の狭野神社(さのじんじゃ)を参詣した。鎮座地は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。小字は「狭野(さの)」という。 鎮座地は高千穂峰(たかちほのみね)の東麓。山頂から5㎞ほど東に位置する。そして、狭野の地には神武天皇の伝説が残っていて、狭野神社の御祭神にもなっている。 狭野尊 狭野神社(狭野大権現社)の略紀 長い長い参道の奥に 神徳院跡と豊受神社 狭野尊 御祭神は狭野尊(サノノミコト、サヌノミコト)。「狭野尊」は神武天皇の幼名とされ、日本書紀の一書(あるふみ)の中で確認できる。 「神武天皇」というのはいわゆる漢風諡号で、8世紀の天平宝字の頃につけられたものである。伝わっている名はカムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)またはカムヤマトイマワレビコノスメラミコト(神日本磐余彦天皇)。『古事記』『日本書紀』などでは、こちらで記されている。 カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)
谷山神社(たにやまじんじゃ)は鹿児島市下福元町に鎮座する。御祭神は懐良親王。14世紀の南北朝争乱期に征西大将軍として九州に入った人物だ。 名前の読みは「かねながしんのう」とも「かねよししんのう」とも。谷山神社では「かねながしんのう」のほうをとっている。 康永元年・興国3年(1342年)、懐良親王は薩摩国の谷山に入る。谿山(たにやま)郡司の谷山隆信(たにやまたかのぶ)に迎え入れられた。谷山には征西府が置かれ、南朝方の九州攻略の基点となった。 この事績を顕彰して、谷山神社は昭和3年(1928年)に創建された。 南朝忠臣の顕彰が盛り上がるなかで 山の上に鎮座 谷山氏について 谷山御所 なお、日付については旧暦にて記す。 南朝忠臣の顕彰が盛り上がるなかで 明治から昭和の初めにかけて、全国的に南朝忠臣の顕彰運動が盛んだった。 日本では武家政権が長く続いていたが、幕府が倒れ、慶応4年・明治元年(186
鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。 この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう)跡を示す白い標柱がある。 「高尾城跡」 高尾城は平山城(帖佐本城)の支城である。位置関係から想像すると、平山城(帖佐本城)へ侵入してきた敵を、道の途中で叩く防衛拠点のような感じだろうか。 また、高尾城跡にはかつて稲荷神社が鎮座していた。「元稲荷」とも呼ばれている。 ちょっと登ってみた。 平山城について 高尾城での戦い 高尾城跡へ 曲輪跡に元稲荷 日付については旧暦にて記す。 平山城について 平山城(帖佐本城)は、平山了清により築城されたという。平山氏は紀姓で、もともとは山城国の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう、京都府八幡市)の社家の一族。帖佐の平山
霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田に鎮座する。高千穂峰(たかちほのみね)の山頂に近く、古代の山岳信仰の雰囲気が感じられる。また、山岳仏教の霊場としても大事にされてきた場所である。 すてきな神社である。【前編】記事では、神社のあらましや、参道から本殿にかけての様子をまとめた。 rekishikomugae.net まだまだ気になるところがたくさんある、霧島東神社には。 天之逆鉾 坂本龍馬が引っこ抜く 引き抜いた男がもう一人 レプリカっぽい 錫杖院跡 神竜の泉社 天狗堂 祓所 旧参道口 天之逆鉾 高千穂峰の山頂の天之逆鉾(あまのさかほこ)は、霧島東神社の社宝である。また、天之逆鉾の突き刺さる場所は霧島東神社の飛地境内でもある。 天之逆鉾がどういったものなのか? いつ頃からあるのか? 由緒は不明。度重なる火山噴火で記録が焼失していてるためにわからない。 イザナギノミ
高千穂峰(たかちほのみね)は存在感がある。山容もさることながら、大きな噴火もしばしば。古代から人々が崇める山であり、恐れる山でもある。その東麓に御池(みいけ)という火口湖がある。 御池と高千穂峰 この池の東側に、霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)が鎮座する。場所は宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田。かつての日向国諸県郡高原(たかはる)のうちである。 霧島東神社から山頂までは直線距離で4㎞ほど。また、高千穂峰山頂は飛地境内となっている。じつは、山頂に突き刺さっている天之逆鉾(あまのさかほこ)は霧島東神社の社宝である。 天孫降臨伝説の山の中腹に 霧島東御在所両所権現 高千穂峰の山腹に 火闌降尊と火明尊 紹介したい要素が、霧島東神社には多い。というわけで、記事を2回に分ける。 【後編】はこちら。 rekishikomugae.net 天孫降臨伝説の山の中腹に 創建は崇神天皇の御代と伝わる。 主祭神は伊
島津(しまづ)氏の一族に北郷(ほんごう)氏がある。「北郷」とは日向国島津院(庄内)の北西部。現在の宮崎県都城市庄内町や山田町のあたりである。この地を島津資忠(しまづすけただ)が領したことから、「北郷」を名乗るようになった。北郷氏は江戸時代に名乗りを「島津」に復し、「都城島津家」とも呼ばれる。 庄内町には北郷氏初代の北郷資忠(島津資忠)の菩提寺がある。山久院(さんきゅういん)といい、墓塔と伝わるものもある。寺院跡地には、現在は豊幡神社が鎮座している。 また、近くには釣璜院(ちょうこういん)という寺院もあった。こちらにも北郷一族の墓所が残っている。 北郷氏ゆかりの地 山久院跡(豊幡神社)へ 釣璜院跡へ 北郷氏ゆかりの地 島津資忠は島津忠宗(ただむね、島津氏4代当主)の六男。14世紀の南北朝争乱期に活躍した人物で、兄の島津貞久(さだひさ、島津氏5代当主)に従って各地を転戦。暦応3年・興国元年(1
鹿児島湾岸の国道10号沿いに茅葺屋根の民家がある。江戸時代末期のものが復元されている。ここは「西郷隆盛蘇生の家」と呼ばれている。 国道から線路を挟んで茅葺屋根が見える 安政5年(1858年)、冬の鹿児島湾に西郷吉之助(当時の諱は西郷隆永、のちに西郷隆盛)と月照(げっしょう)は身を投げた。海から救い出され、ここに運び込まれた。西郷吉之助は息を吹き返す。 安政の大獄で追われる身となる 鹿児島湾に入水する 桜島がよく見える場所 なお、日付については旧暦で記す。 安政の大獄で追われる身となる 安政5年(1858年)、幕府では将軍継嗣問題で揺れ動いた。紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ、のちの徳川家茂)を推す者たち(南紀派)と、一橋家の徳川慶喜(よしのぶ)を推す者たち(一橋派)とが対立していた。 鹿児島藩主の島津斉彬(しまづなりあきら)は一橋派にあった。西郷吉之助は島津斉彬に命じられて動く。左大臣の近衛忠
日向国の都城盆地の一帯は昔から「庄内(しょうない)」「荘内」と呼ばれている。これは「島津荘(しまづのしょう)のうち」を意味する。そして、宮崎県都城市に「庄内町」というところがある。 この庄内町に山城跡がある。安永城(やすながじょう)という。別名に鶴翼城とも。 都城盆地は14世紀から島津一族の北郷(ほんごう)氏が長きにわたって治めた。北郷氏は17世紀に名乗りを「島津」に復し、「都城島津氏」「都城島津氏」とも呼ばれている。 安永城は、北郷氏が拠点とした城でもある。 北郷氏と安永城 気軽に山城の雰囲気を感じられる 北郷忠相が巻き返す 北郷相久の自害 庄内の乱 北郷氏と安永城 南北朝争乱期に活躍した人物に島津資忠(しまづすけただ、北郷資忠)がいる。北郷氏の初代にあたる。島津氏4代当主の島津忠宗(ただむね)の六男で、兄の島津貞久(さだひさ、5代当主)とともに各地を転戦する。 文和元年・正平7年(13
これ、素晴らしい一冊だ! 帯には「戦後初の中世島津氏本格的通史!」の文字。そのとおりの内容となっている。「ずっとこんな本が欲しかった」と、個人的に思っていた。 『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』 編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年10月発売 (C)EBISUKOSYO PUBLICATION CO.,LTD. 2023 図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル 戎光祥出版 Amazon 戎光祥出版のホームページはこちら www.ebisukosyo.co.jp 島津氏の歴史は長い。12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得たことに始まる。島津荘(しまづのしょう)の地頭職に補任されたことから「島津」を名乗りとした。この島津忠久(惟宗忠久)から、島津氏の南九州支配は明治維新まで続くことになるのである。 『図説 中世島津氏』では、島津氏の歴史
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