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鹿児島県日置市吹上町中原・湯之浦のあたりは、かつての薩摩国伊作(いざく)のうち。この地は島津一族の伊作氏が領していた。そして、戦国島津氏の源流は伊作氏にあったりもする。 伊作城の麓の湯之浦には、如意山願成就寺海蔵院(にょいざんがんじょうじゅじかいぞういん)という大きな寺院があった。島津忠良(しまづひさなが)は幼少期にここで学んだ。海蔵院は明治の初めに廃寺となる。現在は石塔類が残る。 如意山願成就寺海蔵院 島津忠良と海蔵院 仁王像と森の中の石塔群と 南方神社(諏訪神社) 如意山願成就寺海蔵院 応永5年(1398年)に伊作久義が創建したと伝わる。伊作久義は伊作氏の4代目にあたる。真言宗で、鹿児島の経圍山宝成就寺大乗院(鹿児島市稲荷町)の末。本尊は阿弥陀如来。 『三国名勝図会』によると、同書が編纂された19世紀には坊舎が二つ残るだけだったが、当初は12の坊舎があったという。吹上中原の大汝牟遅神社
上井覚兼(うわいかくけん)は、島津義久(しまづよしひさ)の老中を務めた。この人物の日記が残っている。『上井覚兼日記』という。 『上井覚兼日帳』『上井伊勢守日帳』『伊勢守日記』とも呼ばれる。 自筆本と思われるものが現存していて、東京大学史料編纂所が所蔵。もともとは島津家が持ってのもので、こちらに移されている。国の重要文化財にも指定。日記は天正2年(1574年)8月~天正3年(1575年)4月、天正3年11月~天正4年(1576年)1月、天正4年8月~9月、天正10年(1582年)11月~天正14年(1586年)10月と断片的に残っている。 天正10年11月以降の日記の現代語訳を新名一仁(にいなかずひと)氏が手がけ、これまでに全4巻が刊行されている。 九州全域に勢力を広げつつある頃の島津家の動きや内情を知ることができる。また、当時の武士の日常も見える。 あと、やたらと酒を飲んでいる。誰と飲んだ
御霊神社(ごりょうじんじゃ)が鹿児島県いちき串木野市大里に鎮座する。かつての薩摩国日置郡の市来院大里(いちきいんおおさと)のうち。 丹後局(たんごのつぼね)がこの地に移り住んだという伝説がある。丹後局は島津氏初代の島津忠久(しまづただひさ)の母とされる人物だ。市来には丹後局が勧請したと伝わる神社七つあり、御霊神社もそのうちの一つに数えられる。 八大怨霊、あるいは鎌倉景正 丹後局が勧請? 山中にひっそりと 酒匂氏と関わりがあるかも? 八大怨霊、あるいは鎌倉景正 御祭神は早良親王(さわらしんのう、崇道天皇)・伊豫親王(いよしんのう)、藤原大夫人(藤原吉子、ふじわらのきっし)・文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)・橘逸勢(たちばなのはやなり)・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)・吉備大臣(吉備真備、きびのまきび)・火雷神(ほのいかづちのかみ)。「八大怨霊」とされる。御霊信仰と関わりのある神社だ。 御霊
街に出ると、いろいろ犬種をみかける。柴犬のような日本の犬もよく見るし、外国にルーツのある犬種もすごく多い。犬好きがたくさんいること。それは今も昔も変わらないようだ。歴史の中で犬にまつわる話は多い。「唐犬」や「南蛮犬」も珍しがられて、人気があったようだ。 日本の歴史の中の「犬」ネタを集めた本が出ている。 愛犬の日本史 柴犬はいつ狆と呼ばれなくなったか 著/桐野作人・吉門裕 発行/平凡社 2020年 ※画像はamazonの販売ページへリンク 桐野作人(きりのさくじん)氏・吉門裕(よしかどゆたか)氏による共著である。このコンビの著作には『猫の日本史』もある。こちらの猫の本が面白くて、犬の本のほうに手を出した。というのが個人的な事情でもある。 桐野作人氏は鹿児島県出身の歴史作家。戦国時代や幕末・明治維新に関する著書が多い。『愛犬の歴史』でも薩摩藩や島津家に関する犬ネタを扱っている。吉門裕氏は歴史ラ
猫は身近な存在だ。ふだんの暮らしの中でよく見かける。もちろん、飼っている人も多い。猫と人は絶妙な距離感で接している。それは、たぶん昔からあんまり変わっていないんじゃないか、という気もする。 猫は歴史の中にひょっこりと出てくる。逸話が伝わっていたり、史料の中に見えたり、あるいは文学作品に登場したり……。そんな歴史の中の猫の話を集めた一冊がこれだ。 増補改訂 猫の日本史 猫と日本人がつむいだ千年のものがたり 著/桐野作人・吉門裕 発行/戎光祥出版 2024年 ※下の画像はAmazonの商品ページへリンク この本は、2017年出版の『猫の日本史』を増補改訂して再び出されたものである。 著者について 著者の一人は桐野作人(きりのさくじん)氏。歴史作家で、とくに戦国時代と幕末・明治維新を題材にした著作が多い。鹿児島県の出身で、島津氏や薩摩藩に関するものも多い。信頼のおける史料を情報源とし、そこに鋭い
島津義弘(しまづよしひろ)の子は五男二女あり。二人の娘については「御屋地(おやぢ)」「御下(おした)」という名が伝わっている。ともに通称で本名は伝わっていない。この姉妹は戦乱のややこしい事情に巻き込まれ、家の事情に振り回された生涯だった。 なお、息子たちのほうは四人が早世。三男の島津忠恒(ただつね、のちに島津家久に改名)だけが残り、こちらは島津家の家督を継承。薩摩藩の初代藩主にもなっている。また、この姉と妹は、島津家久(島津忠恒)にとって軽く扱えない存在でもあったようだ。 長女/御屋地 母は北郷忠孝の娘 両親が離縁 北郷家へ、兄と結婚 離縁、北郷相久の死 再婚、豊州家へ 帖佐の御屋地に住む 次女が松平定行に嫁ぐ 長寿をまっとう 次女/御下 姉の30歳年下 伊集院忠真の正室に 庄内の乱 伊集院忠真が誅殺される 人質として江戸に住む 娘が松平定行に嫁ぐ 再婚、島津久元に嫁ぐ 佐志島津家 なお、
鹿児島県日置市吹上町中之里に妙見神社(みょうけんじんじゃ)が鎮座する。ここには巨石群があり、「落ちそうで落ちない岩」も人気だ。この地はかつての薩摩国伊作(いざく)の内で、島津一族の伊作氏が崇敬した神様でもある。 由緒 巨石群のある境内 伊作氏の軍神 古い祭祀の場か? 由緒 弘安3年(1280年)に伊作領主の島津久長(しまづひさなが、伊作久長)により勧請されと伝わる。島津久長は、島津氏3代当主の島津久経(ひさつね)の次男。伊作荘の地頭を任され、伊作氏の祖とされる。 御祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)。もともとは神仏習合の信仰で、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)を祭る。明治時代の廃仏毀釈・神仏分離により、妙見菩薩をアメノミナカヌシノカミに見立てた。 明治43年(1910年)に大汝牟遅神社(おおなむちじんじゃ、日置市吹上町中原)に合祀されるも、昭和25年(1950年)に元の場所に戻された
鹿児島県日置市東市来町養母に太秦神社(うずまさじんじゃ)がある。御祭神は秦の始皇帝。この地はかつての薩摩国市来院(いちきいん)のうち。古くから市来院を領した市来氏の氏神であったという。 静かな山里に 太秦から勧請 薩摩大隅の大蔵氏は東漢氏系とされるけど 大蔵姓から惟宗姓へ 島津氏との系図相論 丹後局の伝説 徐福伝説 南九州の大蔵氏は秦氏系か? 静かな山里に 鹿児島県道305号から細い道を一本入ったところに、注連柱があらわれる。ここが参道口だ。神社の前には車を停めるスペースはない。県道のちょっと広くなったところに停めてお参りする。 注連柱をくぐる。ここを境に空気が変わるような気もする。 参道口 石段はけっこう急である。ここを登り切ると社殿がある。 昇る 登って振り返る 社殿は比較的新しい。中のほうに祭壇が見える。 社殿がある 祭壇に「太秦神社」の額も 境内はよく手入れされている。地域で大切に
祓戸神社(はらえどじんじゃ)は、鹿児島県霧島市国分府中に鎮座する。古くは「守公神社(しゅこうじんじゃ)」「守君神社(しゅくんじんじゃ)」と称した。 「国分」という地名は「国府」に由来する。そして「府中」の地名は、国衙があったことを想像させる。大隅国の国衙はこの国分府中にあったと考えられる。そして、古くは守公神社(祓戸神社)が大隅国の総社であったと伝わる。 御祭神はいろいろ 瀬織津姫神(セオリツヒメノカミ)・気吐戸主神(イブキドヌシノカミ)・速秋津姫神(ハヤアキツヒメノカミ)・速佐須良姫神(ハヤサスラヒメノカミ)を祭る。いわゆる「祓戸四神」である。また、『三国名勝図会』では守公神社ぼ御祭神をイザナギノミコト(伊弉諾命)・イザナミノミコト(伊弉冉尊)としている。 祓戸四神は祝詞(のりと)の「大祓詞(おおはらえのことば)」にその名が出てくる。で、大中臣氏は祝詞の奏上を行う氏族である。『三国名勝図
「妙円寺詣り(みょうえんじまいり)」は鹿児島県の三大行事の一つ。毎年10月に島津義弘の武威を偲んで行われる。 『妙円寺詣りの歌』というのもあり、歌詞は二十二番まである。その歌詞をあらためて見てみると、すごくよくできている。ちょっと解説を交えつつ紹介する。 「妙円寺詣り」とは? 『妙円寺詣りの歌』 歌詞 一番/開戦前 二番/火蓋を切る 三番/島津は動かず 四番/山田有栄が応戦 五番/乱戦 六番/寝返り 七番/孤軍 八番/奮闘 九番/徳川家康 十番/掛かれ! 十一番/もっと兵がいたなら 十二番/敵中突破 十三番/死にものぐるい 十四番/激戦あって 十五番/烏頭坂 十六番/島津豊久の戦死 十七番/長寿院盛淳の戦死 十八番/松平忠吉の追撃 十九番/伊勢路へ 二十番/無念なり 二十一番/背を見せず 二十二番/往時に思いを馳せる なお、慶長5年(1600年)の日付は旧暦にて記す。 「妙円寺詣り」とは?
日本の古代史を考察するとき、中国の史書が重要な史料とされる。例えば、このあたりの本。 これらに書かれている情報は、興味をそそるものばかりである。 で、中国発の古代の倭国(日本)の情報をコンパクトにまとめた本が、「岩波文庫」にある。重要なところをしっかり押さえ、読みやすく、そして価格が安い。歴史に興味のある人は、持っていても損はない一冊だと思う。 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』 編訳/石原道博 発行/岩波書店 新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1 (岩波文庫 青 401-1) 作者:石原 道博 岩波書店 Amazon 初版は1951年発行。新訂版は1985年に発行。古い本だ。編訳は石原道博氏。茨城大学の教授を務めた人物で、日本と中国の交流史の研究者として知られる。 収録されているのは本のタイトルのとおり。四
太田神社(おおたじんじゃ)は鹿児島県曽於市大隅町月野に鎮座する。御祭神は太田田根子命(オオタタネコノミコト)。月野はかつての日向国救仁院(くにいん、志布志、しぶし)のうちで、大隅国との国境の地でもある。 オオタタネコを祭る神社が、なんでここのあるのか? 気になるのである。 オオタタネコ 太田神社の由緒 大きな水車が目印 棟札には島津義弘の名も オオタタネコ 古代の三輪山伝説にオオタタネコは登場する。『日本書紀』では「大田田根子」、『古事記』では「意富多多泥古」と書かれる。 ミマキイリヒコイニエノスメラミコト(御間城入彦五十瓊殖天皇/崇神天皇)の御代に疫病が蔓延し、国内の半分もの人が死んだという。その原因を、天皇はヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)に占わせると、オオモノヌシノカミ(大物主神)が神がかりして「我を祭れ」と宣託する。その言葉にしたがって祭祀を行うも効果はなかった。天皇は教
桐野利秋(きりのとしあき)について知りたいと思い、資料を探す。それで、こちらの本にたどりついた。 『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実』 著/桐野作人 発行/NHK出版 2018年 薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書) 作者:桐野 作人 NHK出版 Amazon 桐野利秋の人間性や事績が丁寧に綴られる。当時の薩摩藩の事情や、人間関係とか時代の流れなどもわかりやすく解説されている。良書だと思う。 著者の桐野作人(きりのさくじん)氏は鹿児島県出身の歴史作家。鹿児島県の戦国時代や幕末に関する著作を多く出していて、当ブログで記事をつくる際にもかなりお世話になっている。桐野作人氏の著書は、膨大な史料・資料をもとに的確な考察がなされている、という印象。個人的には「この人の本なら間違いないっ!」と思っている。 ちなみに、著者と桐野利秋は名字が同じだが、同族ではないと
鹿児島市の北部は吉野(よしの)と呼ばれる。かつての薩摩国鹿児島郡の吉野村にあたる。吉野の南のほうにある「実方(さねかた)」に立ち寄ってみた。 吉野はシラス台地の上にある。「吉野台地」「吉野原(よしのばる)」とも呼ばれる。鹿児島の平野部から、急坂を登っていくような感じである。鹿児島市街地から坂元へ登り、そこからさらに登って吉野台地の上に出る。その台地の入口のあたりが「実方」である。 実方は桐野利秋や別府晋介の生まれたところでもある。 実方神社 桐野利秋誕生地 桐野利秋の略伝 別府晋介誕生地 別府晋介の略伝 なお、明治5年以前の日付は旧暦によるもの。 実方神社 由緒不明。創建時期不明。御祭神は天照皇大神(アマテラススメオオカミ)と菅原道真公。 明治12年(1879年)に、天神山(実方の北側にある)にあった天満宮と、実方神社を合祀して現在地に建てられたとされる。御祭神の一柱の菅原道真公は天神山の
島津家久(しまづいえひさ)は天正3年(1575年)3月に安芸国の厳島神社(広島県廿日市市宮島町)を参詣。『中務大輔家久公御上京日記』では、その様子を興奮気味に伝えている。 前回の記事はこちら。 rekishikomugae.net 宮島をあとにして、一行は京を目指して東へ。日記では瀬戸内の様子が伝えられている。 天正3年3月26日、道を間違って三入高松城を見る 天正3年3月27日、椛坂から玉利(田万里)へ 天正3年3月28日、何もなし 天正3年3月29日、小早川殿の城を見る 天正3年4月1日、三原城を見る 天正3年4月2日、鞆の浦から海へ 天正3年4月3日、塩飽を見物 天正3年4月4日、下手な蹴鞠 天正3年4月5日、直島へ 天正3年4月6日、牛窓へ 天正3年4月7日、室津へ 日記の日付は当時のもの(旧暦)。 『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。 rekishikomugae.ne
南九州の中世史は面白い! 14世紀と15世紀が熱い! と個人的には思っています。 Amazonのkindleにて、電子書籍を出版しました。南北朝争乱期から島津忠良(しまづただよし)・島津貴久(たかひさ)の下剋上までの情報を中心にまとめました。古代のこともちょっと触れています。 『三州大乱そして下剋上/南九州戦乱史1 南北朝争乱から島津貴久の覇権掌握まで』 三州大乱そして下剋上 南九州戦乱史1 南北朝争乱から島津貴久の覇権掌握まで 作者:ふひとべのべ Amazon 月額制読み放題の「Kindle Unlimited」の対象にもなっているので、こちらからの利用もどうぞ。 www.amazon.co.jp ちなみに「三州」というのは、薩摩国・大隅国・日向国をさす。 島津氏については、戦国時代はそれなりに知られていると思われる。島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)
鹿児島県内には諏訪神社(すわじんじゃ)がやたらとある。南方神社(みなかたじんじゃ)と改称したところもある。というわけで、行った先々で諏訪神社(南方神社)と出くわすのである。 そしてお詣りすると、強烈な雰囲気であることが多いように思う。鹿児島県いちき串木野市の川上に鎮座する諏訪神社も、そんな場所であった。 由緒は不明。旧称は諏訪大明神。御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)・八坂刀売命(ヤサカトメノミコト)の二座。 道路沿いに標柱がある。ここから下りていった先に参道口がある。 下りていった小径の先に鎮座 参道口からは傾斜のきつい石段が続く。登るかどうか、ちょっとためらう。 参道口 登っていく 参道を振り返るとこんな感じ ずっと登っていくと。並立鳥居が見えてくる。奥には壇があり、その上に社殿がある。 並立鳥居があらわれた 社殿一つに鳥居が二つ 石垣はけっこう古い? 2本の鳥居が並ぶのは、鹿
串木野城(くしきのじょう)跡は鹿児島県いちき串木野市麓にある。別名に亀ヶ城とも。かつての薩摩国日置郡串木野(櫛木野)のうち。13世紀初め頃に串木野忠道(くしきのただみち)により築かれたとされる。その後、南北朝争乱期に島津氏の支配下となる。 永禄13年(1570年)には島津家久(しまづいえひさ)が城主となり、その嫡男の島津豊久(とよひさ)もこの城で誕生した。ほかにも、川上久朗(かわかみひさあき)・川上忠智(ただとも)・山田有信(やまだありのぶ)なども串木野城と縁があったりもする。 串木野麓から串木野城跡へ 南方神社、島津義久が歌を奉納 串木野氏 川上氏支族(川上忠塞の一族) 川上忠克 川上久朗 川上久辰 川上忠智 川上忠堅 川上忠兄 川上久智 川上久林 山田氏(平姓) 山田有信 山田有栄 島津家久 島津忠豊(島津豊久) なお、日付は旧暦にて記す。 串木野麓から串木野城跡へ 江戸時代の島津氏の
天正3年(1575年)、島津家久(しまづいえひさ)が京へ上る。『中務大輔家久公御上京日記』からその旅程を追う。一行は周防国から安芸国へと入る。そして厳島神社(いつくしまじんじゃ、広島県廿日市市)に到着。参詣の様子を島津家久はやたらと詳しく伝えている、興奮気味に。 天正3年3月22日、地名でちょっとボケてみる 天正3年3月23日、いざ宮島へ 天正3年3月24日、すごいぞ!厳島神社は 天正3年3月25日、「厳島の戦い」に思う? なお、日記の日付は旧暦となっている。 前回の記事はこちら。 rekishikomugae.net 『中務大輔家久公御上京日記』についてはこちら。 rekishikomugae.net 史料は東京大学史料編纂所に収蔵。記事での引用は、こちらに収録されている翻刻から。 『中務大輔家久公御上京日記』(東京大学史料編纂所ホームページ) 島津家久は、島津氏15代当主の島津貴久(た
御社神社(ごしゃじんじゃ)は鹿児島県肝属郡肝付町新富に鎮座する。もともとは「五社大明神(ごしゃだいみょうじん)」「五社宮」と呼ばれていた。 猫の神社? 討たれた叛逆者とその家族を祀る 「祟り」で何があった? なお、記事中の日付は旧暦にて記す。 猫の神社? 四十九所神社(しじゅうくしょじんじゃ)の鳥居前から道路沿いに300mくらい行ったところに、もう一つ鳥居があらわれる。そこが御社神社(五社大明神)だ。 参道口 参道口で目に入るのが、この看板である。「猫の神様」とある。 「猫の神様」とのこと 「いなくなった猫が帰ってくる」「猫の病気が治る」というご利益があるという。『三国名勝図会』に次のように書かれている 人家畜ふところの猫、或は出でて還らず、或は病あるに、当社に祈り、粢を供すれば、七日を過ずして必ず歸り來り、病猫も亦愈ると云 (『三国名勝図会』巻之四十八より) しとぎもち(粢餅)をお供えし
大隅国の一之宮の鹿児島神宮(かごしまじんぐう)にタノカンサァ(田の神)がいる。御神田を見守るように立っている。「宮内の田の神」とも呼ばれている。 タノカンサァ(田の神)は五穀豊穣や子孫繁栄の神様である。鹿児島県と宮崎県ではあちこちで見ることができる。詳しくは、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 鹿児島神宮の参道の向かって左のほうへ行くと、御神田がある。9月の訪問で、稲穂が重みを増しつつある感じだった。 御新田 こうべを垂れる稲穂かな 鹿児島神宮は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・豊玉比売命(トヨタマヒメノミコト)を主祭神とする。皇室につながる日向神話の神であり、稲穂とも関わりがある。また、「大隅正八幡宮(おおすみしょうはちまんぐう)」とも呼ばれる。八幡信仰も重ねられている。 鹿児島神宮については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 御神田の端
花尾神社(はなおじんじゃ)の記事の続きである。旧称は花尾権現社。鹿児島市花尾町に鎮座し、源頼朝・丹後局(たんごのつぼね)・永金(ようきん)を祭る。丹後局は島津忠久(しまづただひさ、島津氏初代)の母とされる人物だ。また、島津忠久は源頼朝の庶子とも伝わる。 花尾神社の詳細は【前編】にて。 rekishikomugae.net このあたりは、古くは薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(あつち)と呼ばれるところ。丹後局は晩年を厚地で暮らし、この地で亡くなったとされる。花尾神社の境内には「丹後局の墓」とされるものもある。 丹後局の墓 丹後局荼毘所跡 丹後局御腰掛石 丹後局の墓 参道の途中で登っていけるところがある。こちらに丹後局の墓がある。「子宝・安産」「丹後局の御墓」「おこけ石」と書かれている。ここを上へ。 参道脇を登る 登っていくと古石塔群がある。14世紀の造立と思われるものも。これらは平等王院と関
花尾神社(はなおじんじゃ)は、鹿児島市花尾町に鎮座する。旧称は「花尾権現社」「花尾大権現社」。この地は、薩摩国満家院(みつえいん)の厚地(厚智、あつち)というところであった。 御祭神は源頼朝と丹後局(たんごのつぼね)。従祀神に永金(ようきん)、相殿祭神に清和天皇。建保6年(1218年)に島津忠久(しまづただひさ)が御堂を建て、源頼朝の尊像を安置したのが始まりとされる。 島津忠久は島津氏の初代である。丹後局はその母とされる。そして源頼朝の御落胤という伝承がある。つまり、花尾権現社(花尾神社)の御祭神は島津忠久の両親とされる人物なのである。 島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる 島津忠久の出自について 島津本宗家による再興 境内が美しい もともとは熊野権現か? なお、日付は旧暦にて記す。 島津忠久は源頼朝の御落胤と伝わる 「島津忠久は源頼朝の庶長子」というのを、島津家では正式に採用している。『島津
龍門滝(りゅうもんのたき/りゅうもんだき)というのが、鹿児島県姶良市加治木にある。大きな滝で、けっこう遠くからも見える。高速道路(九州自動車道)を走っていると、加治木インターチェンジ近くで見ることができる。 昔から名瀑として知られていたようで、『三国名勝図会』でも紹介されている。絵が素晴らしい! 『三国名勝図会』巻之三十七より(国立国会図書館デジタルコレクション) 絵図と同じような角度から、写真を撮ってみるとこんな感じ。丘陵を網掛川が流れていて、この場所で一気に流れ落ちるのである。 龍門滝を見る 『三国名勝図会』については、こちらの記事にて。 rekishikomugae.net 滝のすぐ目の前に丘がある。ここからの眺めが良い。駐車場からも遠くはない。ちょっと登るけど、ここまでは気軽に訪れることができる。「龍門滝 高さ46メートル 幅43メートル」とある。 丘の上から 丘の上からは滝と滝壺
鹿児島縣護國神社は鹿児島市草牟田に鎮座する。護国神社は全国にあり、英霊(国家のために殉難した人の霊)を祀る。鹿児島縣護國神社は鹿児島県出身の英霊が7万7000余柱を御祭神とし、郷土の守り神として崇敬されている。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀 御祭神 参詣する 鹿児島縣護國神社頓宮 御祭神、幕末・維新の殉難者から 日下部伊三次翼命 日下部裕之進信政命 有村次左衛門兼清命 有村雄助兼武命 有馬新七正義命 柴山愛次郎道隆命 田中謙助盛明命 弟子丸竜助方行命 西田直五郎正基命 橋口壮助隷三命 橋口伝蔵兼備命 森山新五左衛門永治命 道島五郎兵衛正邦命 山本四郎義徳命 美玉三平親輔命 是枝柳右衛門貞至命 森山新蔵永賀命 児玉雄一郎命 益満休之助行武命 中原猶介尚男命 西郷吉二郎隆廣命 なお、明治5年(1872年)以前の日付については旧暦にて記す。 明治天皇の思し召しがあり、島津忠義が創祀
島津豊久(しまづとよひさ)は16世紀末に活躍した人物である。漫画の主人公にもなったりして、知名度もそこそこあるんじゃないだろうか。島津豊久の戦績を追ってみると、その戦場はおそろしく厳しいものばかりなのだ。 串木野城で誕生、父は島津家久 弟と姉と妹と 初陣は島原合戦(沖田畷の戦い) 元服 父の降伏、父の急死 佐土原領主になる 朝鮮転戦 庄内の乱 関ヶ原の戦い 島津義弘と合流 島津の退き口 佐土原を没収される 永吉島津家 なお、日付は旧暦にて記す。 串木野城で誕生、父は島津家久 島津豊久は元亀元年(1570年)6月に誕生。父は島津家久(いえひさ)の長男で、母は樺山善久(かばやまよしひさ)の娘。幼名は「豊寿丸」。通称は「又七郎」「中務大輔」で、これらは父と同じである。 初名は「島津忠豊(ただとよ)」。じつのところ、「島津豊久」と名乗った時期は短い。また、いつ改名したのかもはっきりしない。「豊久」
「こんなところがあるのか!」と、市街地から車で5分ほどの場所に。幸加木神社(こうかきじんじゃ)を参詣した。鎮座地は鹿児島市小野の山中。 御由緒 せせらぎの音を聞きながら 木村探元の墓 御由緒 『三国名勝図会』によると、かつては「高加木権現廟」と称した。「こうかき」は「高鍵」「高賀木」「高架木」とも書く。御祭神は伊弉冊命(イザナミノミコト)・速玉男神(ハヤタマノヲノカミ)・事解男神(コトサカノヲノカミ)の三坐。木村時勝がこの地に祭ったとされる。木村時勝は北条泰家(ほうじょうやすいえ)の三世孫であるという。 ちなみに北条泰家は14世紀の人で、得宗の北条高時(たかとき)の弟。正慶2年・元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡の際には、甥の北条時行(ときゆき、高時の嫡男)を逃がし、自身も陸奥へと逃亡。その後、京へ潜入して政府転覆計画に関わるも、計画は失敗。京から逃走した。また、北条家残党の蜂起を呼びか
中世の薩摩国では、渋谷(しぶや)氏が大きな力を持っていた。島津氏と手を組んだり、あるいは対立したり。戦国時代には渋谷一族の入来院(いりきいん)氏・祁答院(けどういん)氏・東郷(とうごう)氏が島津貴久(しまづたかひさ)に抵抗した。 渋谷一族の動きを追ってみる、とくに15世紀~16世紀について。 渋谷氏とは 14世紀から15世紀半ばまで 文明の大乱 高城氏の没落 三州大乱、渋谷一族の隆盛 奥州家と薩州家と相州家と渋谷一族と 祁答院氏が帖佐に進出 入来院重聡の娘が島津貴久の継室に 祁答院氏は島津勝久を支援 薩州家との戦い 島津貴久に反抗 清水の動乱・加治木の戦い 大隅合戦 薩州家が島津貴久と同盟 島津貴久包囲網 虎姫乱心、祁答院良重が刺殺される 菱刈合戦・大口合戦 渋谷一族の降伏 東郷氏に島津氏から養子が入る 祁答院氏の再興 入来院氏にも島津氏から養子が入る 薩摩日置流と示現流 なお、日付は旧暦
鹿児島県に「姶良(あいら)」という地名がある。 鹿児島湾の奥のほうには「姶良市」がある。「姶良郡」もある。現在の霧島市の一帯ももとは姶良郡だ。桜島の北側の湾は「姶良カルデラ」と呼ばれていたりもする。「姶良というと、あのあたりだな」と認識している人が多いことだろう。 でもこのあたりは、じつは「姶良」ではないのだ。大隅半島の南のほうの鹿屋市に「大姶良(おおあいら)」「吾平(あいら)」というところがあって、こっちのほうが本来の「姶良」なのだ。 大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」 「始羅」と「姶羅」がごっちゃに? 姶良町と吾平町 阿比良比売/吾平津媛 大隅国の「姶羅郡」「姶良荘」「大姶良荘」 『続日本紀』によると、和銅6年(713年)に大隅国が設置されたとある。日向国から分立させてのもの。大隅国は「肝杯郡(きもつきのこおり)」「囎唹郡(そおのこおり)」「大隅郡(おおすみのこおり)」「姶羅郡(
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