サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ノーベル賞
sagasitasekai.com
2023/07/11 ほぼ10年ぶりの駐在先は山奥の田舎の町で、上海などと比べると都市とは言えないくらいどっぷりローカルな場所だ。それはいい意味でかなりのローカルということ。スタッフに招かれて行った地元の料理店で、僕はその迫力のある料理の数々と対面して、改めてこの異国の地方に久しぶりに戻って来た事を実感した。 が、一方でこの国のこの10年の変化は日本の30年分に等しく、生活の利便性向上は、システム化、デジタル化、EV化を軸に進み、既に日本のずっと先を行っている。 当たり前の話で、若い年齢層の消費性向とか需要に対応する形で、この国は技術を発展させ社会の仕組みを作って来たからだ。要するに「携帯電話で全てが解決する」そんな便利な世の中である。 2000年代に当時はまだ世の中では「若手」だったホリエモンがそんな時代が来ると公言してたなぁ、そのあと結局、日本では技術やアイデアはあったのに年寄り達のお
「PLAN75」という映画をAmazonプライムで観た。 75歳以上になったら、特に健康上の理由がなくても、希望すれば安楽死を選択できるという、国の制度の話だ。 もちろんフィクションであり、ある種のファンタジーだけど、予告編を見た時は、これってセンセーショナルな話となり、国会とかで取り上げられ、学校教育の場でも取り上げられ、なんて僕はちょっと考えていたが、実際には、国会と言えばAmazonプライムで観れるようになった今だって、1回も出席せずにクビになった人がどっかの国から帰って来るとか来ないとかの話くらいしかなく、この作品が教育現場に持ち込まれて議論されるといった事もこれまでなかったみたいだ。 「なんだか現実に十分にありそうで、怖いよね、世の中、ますます世知(せち)辛くなって来たしね」 ということで、終了である。 というのに驚いた。 なんだぁ、結構、みんなもう諦めムードなのかな? 食い詰め
再びアジアの山奥へ行けと言われて、家に帰ってからその旨を家人に伝え、あらびっくり、と言っているうちに、一週間もしたらまた呼び出され、ちょっと事情が変わって、アジアの山奥じゃなくて南方の海の上にある国に行けと言われたので、家に帰ってからその旨を改めて伝え、あらそれまたびっくり、と言っているうちに、さらに一週間したらまた呼び出され、やっぱりアジアの山奥へ行けと言われた。 話が二転三転するからもう家人はびっくりしない。要するにまた貴方はノートPCのディスプレイの向こうに行くのね、とこちらを見ないで言っている。 ウン、ごめん、Skypeで話すにも何かとノートでは持ち運びに不便だろうから、タブレットを買ってくるよ、もし自治会とかでタチの悪い連中に君が絡(から)まれても大丈夫、そのタブレットを取り出しな。僕が「タブレットおじさん」として画面の向こうからちゃんと言ってやるよ。 「情報収集にはやっぱり紙に
以前「明け方の若者たち」という映画を観て、作品の中に若者時代に暮らしていた明大前の風景が頻繁に登場し、ひどく懐かしい思いをしたが、人づてで「花束みたいな恋をした」という、これまた青春ど真ん中の恋愛映画も明大前が登場すると聞いて、Amazonプライムで観た。 「明け方の若者たち」の時は、懐かしい街の風景が次々と現れて目をつい奪われ、ストーリーそのものが全然頭に入って来なかったけど、今回の作品で明大前は主人公たちが出会う場面(終電を逃す場面)で使われていただけで、その他のシーンも甲州街道沿いを歩くシーンが少しあったくらいで、「懐かしい!」というのが最小限に収まり、僕は物語をすっかり満喫した。 こんなオッサンが、こんな眩(まばゆ)い青春真っただ中の作品を映画館に見に行くのはちょっと恥ずかしいけど、その点、サブスク万歳である。僕は家のリビングでソファに横になりながら、時々うたた寝しつつ、また巻き戻
2024/01/15 珍しく晴れ上がって青空が広がっていたので、休日にコートを着て近くを散歩した。大昔の時代の儒学の学校である「書院」というのが、中国のあっちこっちに復元されていて、そこら中で大なり小なり観光名所化され公園などになっており、そのうちの一つが住んでいるマンションの近所にあるので、初めて散歩に行ったのだ。 書院は川の中州に復元されており、屋根付きの橋を渡って歩いて行くのだが、これがまたいかにも大昔からあったかのような豪華な見た目で復元されている。地方都市も含めて、お金のあるうちにこういった観光施設をあっちこっちに作ってしまう、というのは我々の国も35年くらい前に経験したなぁ、なんて考えながら僕は橋を歩いている。 バブル期に建てられた妙に豪華な建造物が、日本のあっちこっちで無人のまま老朽化して、社会問題になった時期が少し前にあったっけ。 書院は昔の儒学の学校と言ったが、宋代以降は
子供のころの夏休みの楽しみの一つが、「○○文庫の100冊」といった類の各出版社から夏に出される小冊子を書店からもらって来ることだった。カラフルでおしゃれなイラストがいっぱいのその冊子を何度も眺め、自分のまだ読んだことのない本の紹介文を読みながら、いろいろ想像した。 80年代、僕は小学生だった。紳士服の仕立屋だった父親は既製品の勢いに押されてどんどん仕事がなくなり、僕たち一家は借家を転々として暮らしていた。めっぽう貧しかったけど家族は仲が良く、お金がなかったけど子供の僕はお金がかからない楽しみ(書店からタダの小冊子をもらってくるとか)をたくさん見つけ遊んでいた。 それでもやっぱり、小冊子を見ているうちに欲しくなった文庫に赤マジックで丸をつけ、貯金箱のお金を何度も取り出しては、買うべきか買わざるべきか悩むこともあった。小冊子で初めて知った作家たちの小説は、きっと僕を新しい世界に引きずり込み虜(
仕事でもプライベートでもなかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しいなんて、腐るほど経験するのがフツーだけど、それが「フツーだよね」って寝そべりながらゲップでもするように言えるのは、その人が年をとっているからである。人間の年齢は我々に、肉体の衰えという悲しい試練を与えるが、同時に、「面の皮が厚くなる」という素敵な贈り物もくれるのだ。 が、若い人はそうは行かない。若い人たちは可能性という希望がある一方、傷つきやすさの呪縛の中で生きている。なかなか上手く行かない、前に進んでいかない、苦しい、みじめだ、空しい、のまま落ち込んで行き、そのまま気持ちが底の底まで墜落して行って、ある日、「仕事を辞めようと思います」と打ち明けて来る。 何?仕事辞めてどうするの?ユーチューバーになってバンライフとか始めるの?仕事なんてどこだって一緒だよ。どうせ天然資源がこれっぽっちもない貧しい国な
2024/05/08 週末に一人で夕ご飯を食べてプラプラしたあと、よく行く音楽バーがある。その付近はちょっとした繁華街になっていて、こじんまりした豫園(上海の観光地)みたいな建物が連なり、なぜか中央に地元出身の昔の儒学者の銅像が並んで、その周りを火鍋屋さんや串焼き屋さんなどの飲食店が取り囲むように密集し、更にその奥に、僕の行きつけの音楽バーがあるのだ。 どかんと中央にある銅像については、えらく立派なモニュメントで、その人物の略歴を解説したプレートまで付いているけど、読んでも僕はよく分からない。きっと地元の人々が誇りに思う立派な儒学者だったんだろう。 あたり一帯に火鍋の香辛料の匂いと、羊肉の焼ける香ばしい香りが立ち込め、店の中にも外にも人が溢れて、みんなペチャペチャ賑やかに喋り、バクバク美味しそうにご飯を食べている。そう、ここは現世を楽しみ尽くそうとするエキスパートの集まり、中国の人々の国で
2023/12/09 「酸湯魚」という料理があって、貴州料理だけどもともとは中国の少数民族であるモン族の伝統料理と言われている。見た目がちょっと辛そうだが、赤いのは発酵したトマトが使われているからであり、極端に辛いという訳ではなく、冬の寒い日に食べると体の芯から温まるそんな素敵な料理だ。 ソウギョとかライギョとかの川魚の白身が入っているけど、ちゃんと泥抜きしてあるから別に臭みはなく、むしろその魚の出汁(だし)がいい感じにトマトベースのスープに絡んでいて、味が絶品なのである。 モン族はもともと揚子江あたりに住んでいたが、国が興亡する戦乱の歴史のなかで少しずつ南下し、インドシナ半島の方も含めてあっちこっちに散らばって定住した。今も貴州あたりで大規模に纏まって生活していて、集落が観光地になっている。僕は映像で見ただけでその観光地に実際に行ったことないけど、先日、寒さに震えて外からとある料理店に入
2024/06/17 人それぞれなのかもしれないが、異国にいると尚更、やっぱり日本的なものがいいなぁ、なんて求めてしまう部分がある。 僕のいる東アジアの山奥の街は日本人がほぼいないところだから、やれ日本人同士でツルんでゴルフだ、飲み会だなんてな機会が無いぶん楽だけど(そういうのが一番アホくさくて嫌だ)、その分、街のどこにも日本的なものが存在しないので、どっぷり海外生活って感じで楽しい代わりに、時々はさすがに日本的なものが欲しいなぁ、なんて思うのだ。 先日、骨付きの鶏肉(地元料理)を食べていたら、パキッて音がして奥歯の被せものが割れ、やばいなぁ、この歯はやっかいな歯で、下手に治療するとまた虫歯が再発して、いよいよ「抜かないとダメです」まで行きそうな歯なんだよなぁ、と思ったから、やむを得ず日本のかかりつけの歯科医院で新しい被せものの型を取る為に(型を取っておいて、来月に休暇帰国の予定があるので
秋の初めに嬬恋へ行った。再訪である。浅間山の麓(ふもと)一帯に広がるキャベツ畑を観たいと思っていたのだ。 夏前に初めて行った時はまだ時期が早過ぎた。キャベツは芽が出始めたところだった。でも、もしこれが全部丸いキャベツとして成長したら、きっとすんごい景色なんだろうな、いつか絶対に観に来たいな、なんて思っていたから、ついに念願がかなったのである。 で、実際に目の当たりにしたけど、こりゃ有名になるだけあると思った。広大な畑に緑色のキャベツたちが延々と育っていた。その向こうに浅間山と高い秋空が広がり、まさに壮観である。 僕たちは車に乗って、どこまでも続くキャベツ畑の間を走り抜けた。美しい景観だった。最高のドライブコースだ。何度も行ったり来たりし、「愛妻の丘」でおにぎりを食べ、また走り出した。ずっと走っていたい風景だった。 その昔、ヤマトタケルが東国征伐に行く途上、海上で暴風雨に遭った。船はうねりに
2024/02/11 「強くなければ生きていけない。優しくなければ意味がない」 僕は学生時代に大学の寄宿舎で生活していたけど、そこはまさに「ザ・寄宿舎」って感じの古めかしい鉄筋の建物だった。 実際、戦前に建設されていて、終戦直後にはGHQに接収され米軍の宿舎にも使用された。大学の敷地内にあるその寄宿舎に、20歳前後の若者たちが地方から集い、青春を謳歌して、卒業(卒寮)して行ったのだ。部屋も廊下も今じゃ考えられないくらいボロボロで、時代は既に平成だったけど昭和のデカダン宜しく、そんな環境の中、僕たちはジャージ姿でウロウロし、毎晩どこかの部屋に集まっては酒を飲み、騒いだ。 もしちょっと一人になりたければ屋上に上がって、鉄製のフェンスにまたがり、眼下に広がる街の風景を見ながらゆっくり煙草を吸った。 20畳3人部屋、というのが寮の規則だったが、僕も1年生の時は、4年生と2年生の先輩と同じ部屋で暮ら
昔はやたら洋画ばかりを見て、邦画なんてほとんど観ることがなかったのに、最近は妙に心に沁みることが多く、邦画浸けである。いいなぁと思う作品が多いのは、それだけ邦画の作り手の層が厚いのかなとも思う。 「浅田家」は有名な写真家の話だし、今はなき写真雑誌の「アサヒカメラ」で何度もその方の作品を見たので、興味があった。いったいどんな人なんだろう、というやつだ。で、映画館へ行くのを行きそびれて、結局、Amazonプライムで観ることになった。便利な世の中だ。 子供時代に父親からもらったカメラを使って夢中で撮る、なんて自分の人生にも重なるところがあって、あっという間にストーリーに気持ちが入り込んで行く。主人公は、自分の家族がみんなで消防士とかのコスプレをして撮影する、という一風変わった「家族写真」に取り組み、これで世に打って出て、紆余曲折の末、木村伊兵衛写真賞という小説で言うところの芥川賞のような権威のあ
街にはクリスマスソングが流れ、行きかう人々の表情もなんだかウキウキしていて、というのは昔の話で、地味な感じの年末だなぁ、なんて思いながら歩いている。だいたい、みんなマスクしていて、街を行きかう人々が笑っているのか、泣いているのかよく分からない。人々はなるべく集まったりしてはいけないし、なるべく直接触れ合ってはいけないのである。会話もディスプレイ越しが望ましい。という具合の昔はSFの設定以外になかったような時代に、幼少期や思春期や青春を過ごした人たちが、我々の数十年後の老後を支えることになっている。いや、支えないだろう。感情なくゴミのように捨てるかも。自分たちだって貧しいし、別に年寄りだからって尊敬できるわけでもないし、そもそもアイツら生産性が低いし、みたいな感じで。 来年あたりから、「大学時代にサークルとか入る機会なかったですよ。講義も大半がリモートだったし、飲み会なんて高校時代の友人数人
、 学生の頃、駐車場バイトというのをやっていて、マンションの機械式駐車場の受付をする仕事だった。駐車場はもちろんマンションの住人も使えるが、外部からやって来る客もいるので、そんな外部からやって来る客の乗りつけた車を、中に誘導したり、ターンテーブルを操作して車の向きを回転させたり、駐車代を受け取ったりする仕事だ。 その仕事場は横浜の日吉にあったので、場所柄、ハイソな(ハイソサエティの略です。ハイソックスの略ではありません。昭和生まれなので・・・)客が多く、近くにたくさんお受験向けの塾があった事もあり、子供の英才教育をやっている教育ママが、子供を外車に乗せて連れて来ることが多かった。 乗りつけたそんなマダムたち(たいてい美人)が運転席から降りると、制服を着た僕が駐車カード渡しに行く。あとはお子様と手をつないで歩いて行くのを頭を下げて見送り、数時間後、お受験の為のお勉強が終わって帰ってきたら、お
「たねや」の末廣饅頭(すえひろまんじゅう)が食べたくなって、家人を連れて近江八幡を訪れた。残暑のまっすぐな青空が頭上いっぱいに広がる休日だ。 近江八幡は八幡堀を挟んで古い町屋が建ち並ぶ美しい水郷の街である。豊臣秀次が築いた城下町を起源とし、一日のんびり歩いて過ごすにはちょうどいいくらいのサイズで、土産物屋も多い。 僕たちは八幡堀沿いをゆっくり歩き、時々立ち止まって手漕ぎ船が流れて行くのを眺め、たねやに向かった。本当に美しい街である。豊臣秀吉の甥である秀次は、18歳でこの地に入城し、街を築き、大人たちに補佐されて善政を敷いた。彼はこの地では名君として名を残すことが出来た。 で、末廣饅頭である。黒糖を使った茶色い素朴な饅頭を、僕たちはたねやに入って並んで買って、店の外のベンチに腰掛け早速食べた。ちゃんと甘いけど、全然クドくなく、サイコーに美味しい。小さな饅頭なのでついパクパク行ってしまう。やっ
なんだか90年代生まれの人たちというのはずっと年下なのだが、ひょっとすると大きく世の中を変えるのかも、と思うことが多い。音楽もそう。スポーツもそう。これまでの感性からスパっと飛び抜けた成果や作品が多く、いったい誰なんだって調べてみると、たいてい90年代生まれの人たちだ。たまたまなんだろうか。 最近じゃこんなオッサンが、通勤途中の車の中でJazzの合間にKing Gnuを聞いている。 「走れ、絶望に追いつかれない速さで」なんて題名が、もうあれだね、ランボーの詩みたいで、カッコよすぎるなぁ、と思って監督をネットで調べると、ありゃやっぱり90年代生まれか、そして詩人なんだ、と納得する。若くにしてこんな凄い才能が発揮できるなんて本当に大したもんだ。 映画は始終、美しい映像と構成で話が進み、最後のシーンも本当に美しい。こりゃ一遍の詩だね。主人公は親友が死んでしまった理由を知りたくもあり、知りたくもな
子供のころから本が大好きで、図書館が小学生時代の僕のお気に入りの場所だった。そしてそのまま大人になり、読書好きは大学生の頃にMAXを迎えた。当時はヘビースモーカーだったから(その後やめたけど)、セブンスターをスパスパ吸いながら一晩中、煙でモヤのかかった部屋で本を読み、朝になっても読み、そのまま昼前まで読み続けて、疲れて机の上でうつ伏せになって眠り、目が覚めたら日が暮れていた。電気をつけ、カップラーメンをすすったら、また煙草に火をつけて本を読み始める。そんな感じだった。 今は仕事で疲れた目を休めたいのと(会議までTeamsになったので、ずっとPCのディスプレイを見続けている)、老眼がひどくなって来たせいで全然本を読まなくなったが、人生をちょっと無駄にしているかも、なんてまた最近は思い始めた。本は人生を豊かにする、というのは古今東西、世界中で言われて来たことだ。 読書好きがピークだったそんな大
2024/03/01 僕のいる異国の田舎町は冬が明けるのが遅い。というか暦(こよみ)の上では完全に春なんだけど、気温は0度を行ったり来たりし、マンションに帰れば冷え切った浴室の中でブルブル震えながらシャワーを浴び始める(湯舟がないので、熱いシャワーを長時間浴びて体を温めるしかない)生活だ。 会社ではやれ来年度の利益計画だ、やれ設備投資の見直しだ、なんて数字まみれで毎日働き、というのを自分の机に座ってディスプレイを睨めっこしながらやりつつ、次々と相談にやって来るナショナルスタッフたちの話を聞いて指示を出し、時々は工場へ走って行って現場でありゃりゃ~こんな状況になってるんかい・・・なんてやっぱりナショナルスタッフたちと一緒に頭を抱えたりしながら、時間はあっという間にたってしまって週末を迎え、泥のように眠って目を覚ました休日の朝には、自分でも笑ってしまうくらいゆっくりした所作で、歯を磨き、お湯を
一番好きな映画はと言われれば、「シェフとギャルソン、リストランテの夜」を挙げる。もちろんそれ以外にも甲乙つけ難い映画はいっぱいあるけど、どれか一つを選べと言われればこの作品を選ぶ。内容はこんな感じだ。 1950年代のアメリカの田舎町で、イタリア移民の兄弟(プリモとセコンド)がイタリア料理のレストランを営むも、アメリカ人向けの料理を作れない兄プリモのせいで店は全然流行らない。プリモは頑固なシェフで、自分たちの故郷の「本物の」イタリア料理にこだわっているのだ。アメリカ人好みの味付けに変えた料理を出せば店は流行るだろうが、プリモは自分のプライドがそれを許さず、絶対にそんな料理は作らない。そんなカタブツの兄のせいで店の経営がどんどん苦しくなって行くから、弟のセコンドは苛立ちを募らせつつ、兄の頑(かたく)なさが理解できず、それでも資金繰りに苦労しながらなんとか店を存続させようと努力する。 そんな中、
東京は大雪になるらしい。というか今年はやたら寒く、やたら雪が降る。比較的暖かい僕の住むこの地方都市にも、今年は何度か雪が降った。 東京時代、雪がチラつくとなんとなく北欧映画が見たくなって、レンタルビデオ屋へ足を運んだ。当時は笹塚に住んでいて、会社から帰る途中、駅から出て甲州街道へ歩きながら粉雪がチラつくのを目にすると、スーパーに立ち寄って夕食の食材を買った後、アパートへ向かう途中にあったレンタルビデオ屋に入り、いろいろと借りた。そして一人鍋なんか作りながら、ゆっくりテレビデオで作品を見るのだ。「ボクたちはみんな大人になれなかった」の時代の一人の若者の話である。 北欧映画といってもいろいろあるが、90年代であれば「春にして君を想う」が有名な作品だ。これは老人ホームから抜け出した幼馴染のカップルが、ホームを抜け出し、生まれ故郷へ死への旅路に出かける話を描いた美しいロードムービーである。作品中に
2023/08/03 中国の文化の大きな部分に食(しょく)が占めているのは有名だけど、実際にこちらで市井(しせい)の人々と接していて、彼らの食(しょく)へのこだわりを見せつけられると、なるほど、頭で理解している以上に、この国では「食べる」ということが人生で大きな意味を持っているんだなぁ、と改めて気づかされる。 例えば日本人が出張でこの国にやって来て、朝から工場でいろいろと技術支援をしながら働き、昼休みになった時に「いや、ボクは日本でも昼ご飯は抜いているんで昼食はいらないです。午後から眠くなっちゃって集中力が落ちるんでコーヒーだけでいいです」なんて言った日には、ナショナルスタッフはみんな目を丸くし、食事を抜くなんて貴方は何の為に生きているんですか?くらいの怪訝(けげん)な表情で見ている。食事中に仕事の話を延々とするとか、ひどい場合は食事中に上司が部下に説教を始めるとか、要するに「食べる」とい
2023/11/04 二十数年前の若いころに勤めていた会社に、クモンさんという日本に帰化した台湾人の女性の方がいた。 大不況の中、採用大幅減の中で入って来た数少ない若手(=徹底的にブラックにこき使われる消耗品)の僕の事を何かと気遣ってくれて、やれ昼ご飯に1品、私の持ってきた野菜炒めを食べなさい、とか、やれ疲れから回復する健康茶を持ってきたから飲みなさいとか、それほど大きく年が離れている訳ではないから、ちょっと身内のお姉さんのような心配をしてくれる人だった。 当時は、連日、日付が変わってから帰宅する日々で、昼休みになると僕はさっさと玉子屋の弁当を食べ、クモンさんが入れてくれた味噌汁を飲み、机にうつ伏せになって睡眠を取るのが習慣だった。睡眠は取れるときに少しでも取っておかないとぶっ倒れそうなくらいに疲れていたからだ。(フツーに月間の残業時間が100数十時間以上だった時代の話である。ついでに言
2024/04/21 あっという間に春が来て、もう雨季だ。僕が住むこの異国の地方都市は、海から遥か遠くに離れた内陸にあるっていうのも関係していると思うけど、春と秋がもの凄く短い。 むっちゃ寒くて、それが3月まで続いて、あれれ、急に20度以上も暖かくなったぞ、花が咲いたぞ、って1週間もしないうちに、4月からは蒸し暑い雨季が始まる。さわやかな春の日なんてほんの数日しかないのである。そしてその長い雨季が明ける6月くらいになると、あの強烈な日差しが降り注ぐ40度越えの夏がやって来る。で、それが10月の前半まで続いて、そこからまた、あれれ、急に20度以上も寒くなったぞって、言っているうちに寒い寒い冬がやって来る。 なので、日本には四季があり、なんたって、最高に過ごしやすく世界が美しく見える季節、そう、春と秋がしっかり数週間もあるというのが、本当にいい国だなぁと思うのだ。 そこに住む人々は狭い生活世界
せっかく梅雨が早く明けたのに、土日になると雨とか曇り空で、あぁ休日くらい突き抜けるような青空が見たいなぁ、なんて車で走り出した。途中のSAで天気予報を調べてみると、日本中が雨か曇りなのに、日本海側の若狭湾あたりだけがぽっかり晴れマークがついている。 僕はそちらに向かって走り出した。 突き抜けるような青空の下で、家族と手をつないで散歩する。しかもこんな安全で衛生的で便利な国で。その価値に勝るものは恐らくこの世にない。僕はそう思っている。我々は次の時代に投資せずジジババ優先で彼らの面倒を見ているうち、すっかりみんなが貧しくなっちゃったかもしれないけど、でもこの国に残っている安全とか、この国の人々が持ち続けている衛生観念、緻密さ、生真面目さは、大きな財産として確かに残っているのだ。 ちなみに日本の10万人あたりの殺人件数が0.25人に対して、メキシコは30人だ。両国はほぼ人口が同じなのに、向こう
酷暑が続いている。涼を求めて風鈴寺へ行った。石段を上った先にたくさんの風鈴が吊るされ、チリンチリンと気持ちのいい音が真っ青な夏空に響いていた。 あぁ夏だなぁと、空の青を見上げた。 風鈴の音を聞いて涼しさを感じるのは日本人だけらしい。まぁ蚊取り線香の匂いで夏を感じるように、文化による条件反射みたいなものなんだろうけど、そういう風流な感性を自然に持たせてもらえた日本文化に感謝だ。もっとも、起源を遡(さか)のぼると中国に行き着き、大昔の留学生の僧が日本に持ち帰って寺の魔除けになり、最初は青銅製でガランゴロン鳴らせていたが、やがてサイズが小さくなり、江戸期にビードロを作る技術が伝わると、風鈴はガラス製が現れ、庶民の文化として一気に広まった。 江戸の庶民のことだ、どうせ涼を求めるなら徹底してやろう、という心意気で、ビードロには粋なイラストが描かれ、金魚や朝顔やトンボのような、なんだかオシャレでとって
もうすぐ師走である。この国はどんどん貧しくなって行くけど、そして、国ごとオワコンだなんて言われているけど、大丈夫、ショッピングモールに行けば、結構みんな大きな袋を抱えて楽しそうに買い物をしている。クリスマスケーキの予約も、お節料理の予約も、人気のあるやつはあっという間に完売だ。そしてモールのレストラン街に行けば、そう、みんな少々値段が張っても美味しいものを食べる為にはお金を出し、さらに行儀よく並んで待っている。 要するに内需の国なのだ。1億人も人口がいるっていうのは、実は非常に大きなマーケットがあるということ。自信を持って日本人が日本人に対してガンガン商売をしかけ、ガンガン稼いでガンガン消費すれば、かなりいい感じの経済になるのである。 だから、一人当たりのGDPがついに隣の国に抜かされたぁ、なんて周りと比較して落ち込まなくても、このたくさん消費者がいる日本の国で、日本人を相手に商売すればい
歴史好きのご多分に漏れず司馬遼太郎が大好きだった。学生時代に本当に読み尽くして、エッセイも評論も随筆も全部読んで、文字になっているもので読んでないものはないくらい読んだ。それくらい好きだった。 作品の中でも、みんなに人気があるのはどうやら「燃えよ剣」や「竜馬が行く」や「坂の上の雲」で、やはりどれもドラマ化とか映画化をされている。そしてどれも160年以内の非常に最近の日本人の話だ。だから今の我々と比較的似ていて、共感しやすいというのがあるのかもしれない。 でもやっぱり僕を魅了したのはちょっと古い時代の、しかもあんまり良くわからない(ということは想像するしかない)時代やジャンルの人間を描いた物語だった。 「箱根の坂」とか「梟の城」とかだ。戦国初期や戦国末期の、要するに日本人が徳川300年でステレオタイプに収まって行く前の時代の、イキイキと、そしてドロドロと生きていた、今の日本人とは全然種類の違
明日香村へ飛鳥鍋を食べに行った。その土地で古来から食されて来た牛乳の鍋である。 毎年冬になるとソワソワして、「飛鳥鍋を食べたいねぇ」なんて休日の何気ない会話が始まる。そして家人を乗せてビュンと車で走って食べに行くことになる。 その日は良く晴れていて、変な言い方だけど「飛鳥日和」だった。古墳群の向こうに高くて澄み渡った冬の青空が広がっている。 飛鳥鍋はまさに飛鳥時代、唐の渡来人から伝わった。「牛乳」と「鶏料理」が混ざって土着化し、今の姿になったらしい。要するに大陸から持ち込まれた新しい食文化だったとのこと。渡来人たちは生活を便利にする技術や、人を効率的に殺す武器づくりの技術だけでなく、美味しい料理という平和的な食文化もこの国に持ってきてくれた、ということになる。 この飛鳥鍋だが、牛乳のこってり感が鶏肉とよく合う。チーズと鶏肉の相性がぴったりなことを考えると、当たり前と言えば当たり前だけど、ダ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『sagasitasekai.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く