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アメリカ大統領選
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初めて花ちゃんに会ったのは、確か桂スタジオだったと思う。お母さんである木村響子選手のデスマッチデビュー戦を見に来ていて、試合後に傷だらけのお母さんの姿を見て泣き出したら「泣くなら来るな!」と叱られていた。今から14年前のことで、恐らく花ちゃんはまだ8歳だった。この子は強い子になるな、と思っていたら、美しく強い女子プロレスラーになった。それが、木村花選手だった。 個人的な付き合いがあったわけではないけれど、いつも会場で見かけると駆け寄って声をかけてくれた。その名の通り満開の花のような明るさと笑顔で、挨拶されると何だか嬉しくてドキドキした。 見かけるたびにどんどんイメージを変え、身体も鍛え、立ち振る舞いも堂々としていた。圧倒的な入場パフォーマンスと、ダイナミックな試合運び。カッコ良かった。 ある日の後楽園大会にプロレスマスコミではない取材が入っていて、花選手を撮影しているように見受けられたので
飯伏幸太がG1クライマックスを優勝した。あの銀色のテープが舞うなかで飯伏が両拳を天に突き上げている様を目の前で見ても、なんだか現実とは思えなくて心が落ち着かなかった。 今年のG1で飯伏幸太は苦しんでいるように見えた。勝敗の数字以上に、身体と心がなかなか一致しなくてもがいているような感があった(実際はどうなのかはわからない)。それは初戦で怪我をした左足首のせいだったかもしれないし、新日本に入団して目に見える結果を残さなければいけないという使命感だったかもしれない。 決勝戦の相手はジェイ・ホワイト。初対決だし、どちらが勝っても初優勝だ。そして2人が向かい合って今更ながらに驚いたのは、ジェイは飯伏よりも10歳も若いということだ。いつの間にか飯伏幸太は37歳になっていた。 しかしジェイは巧い。そのファイトスタイルは若々しさや破天荒さを売りにしない。驚くほどに冷静で、的確で、緩急のつけかたが見事だ。
今年のG1の決勝が棚橋弘至vs飯伏幸太、という顔合わせになった時、これはギリシャ神話だな、イカロスだな、と漠然と思っていた。ロウで固めた翼で太陽まで飛んでいく、あの有名な話だ。 もちろん太陽が棚橋弘至で、イカロスが飯伏幸太。太陽に近づくことで翼は落ちてしまうのか、それとも太陽を超えて、文字通り神を超えていくんだろうか、そんな風にロマンチックに考えていたのだけど、現実はそんな生やさしいものではなかった。 棚橋弘至は、魔王のように強かった。 あの日棚橋弘至は黒いコスチュームを選んでいた。恐らく自分のイメージに無頓着なはずがなく、あれははっきりと意志を持ってあの黒を選んだんじゃないかと思っている。ちなみに先立つAブロック最終公式戦のvsオカダ戦でも、棚橋は黒のコスチュームを着ている。 今回、大きな注目を集めていたのが飯伏幸太とケニー・オメガの物語だった。ちょうど10年前の夏、新木場のビアガーデン
最初にミスター・ポーゴさんを知ったのは、サムライTV開局直後の1996年のことだった。ポーゴさんの引退と大仁田さんの復帰がかかっていたように覚えているけれど、あちこちの会場でお願いしたりされたりしていて、そのひと言ひと言にファンも熱狂してポーゴさんを後押ししていて、プロレスを見始めたばかりの私は「プロレスってなんて浪花節で泥臭いんだろう」と思ったことを覚えている。 そしてインディーのお仕事。2002年10月に始まったサムライTVのこの番組は、ミスター・ポーゴ抜きでは成り立たなかった。「メジャーのニュースと色分けする」ためにこの番組が始まることになり、集められたスタッフ会議の冒頭で「では第1回に何をやりましょうか」となった時に当時のディレクターも、現在まで構成作家として関わり続ける須山浩継さんも、そして私も同時に「伊勢崎暗黒街化計画しかない」と断言。このスタッフならば間違いない、絶対この番組
天龍源一郎選手が引退した。「お腹いっぱいのプロレス人生」を走り切り、現在進行形の最先端を突っ走るオカダ・カズチカに何度も吹っ飛ばされ、歯を食いしばって立ち上がり、そしてボロボロになりながらも最後は自分の足でリングを降りた。本当に、カッコ良かった。 志半ばでこのリングから去り、そしてありがとうもさようならも言えなかったレスラーが幾人もいた中で、2年前に小橋建太選手が引退試合をやり、10カウントゴングを鳴らし、笑顔でリングを降りられたことに私たちは心から感謝した。小橋建太にありがとうと、さようならが言えて良かったと心から思った。 今日改めて天龍さんの引退試合を見届けることが出来て思う。そのキャリアが長かろうが短かろうが、レスラーがどうか自分の意志でリングを去る決断が出来ますように。そして自分の足で笑顔でリングを降りることが出来ますようにと。 同時に思う。レスラーを応援する私たちは、彼らが初々し
人には誰しも使命がある、と思う。それは何も世界を救うとか人類の暮らしを変える大発明をする、とかじゃなくて、自分の身近な人を幸せにするとか、与えられた仕事をきちんとするとか、そんなことでもいい。とにかくどんな人にも成すべきことはある。 恐らく佐久間さんにとってはこの本、「2009年6月13日からの三沢光晴」を作ることが使命だったんだと思う。佐久間さんとは、元週刊プロレスの編集長の佐久間一彦さんのことだ。今は編集プロダクションであらゆるジャンルのスポーツ本を手がけながら、日テレG+でプロレスリングNOAH中継の解説に携わっている。サムライTVのバトルメンの解説にもたびたびいらしている、マリノスファンでベイスターズファンのあの佐久間さんのことだ。この本はそのタイトル通り、あの三沢さんがリング上で命を落とした2009年6月13日のその日の未明から、リング上で意識不明になり、病院に運ばれ、最期の瞬間
オザケンこと小沢健二さんの16年ぶりの笑っていいとも出演に関しては、生放送を凝視していた時には「あっボーダー」とか「あっ眼鏡」とかそういったことばかりに興奮していまひとつ冷静な気持ちでいられなかったので、録画したものを改めてひとりで見てみたらものすごくいろんな感情が揺さぶられ、有り体に言うとものすごく泣けました。 これから録画を見ようと思っている人はここから先は読まない方がいいです。出来ればご覧になった後にまた読みに来て下さると嬉しいです。 このテレフォンショッキングは、「旅に出る理由があった小沢健二が、旅に出ることが出来なかったタモリに送るメッセージ」であったように私には見えました。 トークの前半でこの16年住んできた世界各地の話をし、それを興味深そうに聞くタモリ。それは別に特別ではない風景で、この30年このコーナーで誰が来ようとずっと繰り返されてきたことでした。 しかしその雰囲気ががら
誕生日でした。アラフォーとか四捨五入とかそういうまやかしは一切せずに、39歳になりました。たまたまスタジオで会ったGK金沢さんに「アンタの声が今日はいつも以上にうるさかったよ」と苦情を言われたので、「今日は誕生日なんです、祝って下さいよ」と言ったら「いくつになったの?」と聞かれ、「39歳です」と晴れやかに申し上げるとしばし絶句し、「いやあ、頑張ったねえ。頑張ってるよ!」と勇気づけられました。「四捨五入すりゃ50じゃん!」とも言われましたがそれはどんな国の数学でも間違ってると思います。 たくさんの皆様からお祝いメール、カード、お花などなどありがとうございました。「遂に大台だね!」という方もいらっしゃいましたがそれも間違ってます。まだ1年あります。って大台って何だろう(ピュアな瞳で)? 後藤洋央紀a.k.a野武士もしくは飢狼選手に番組中にお花を頂き、全国の後藤ファンの女子の皆様に殺されるんじゃ
わたしは猫。名前はサバ。人間で言うなら18歳くらい、ロシアンブルーの女の子。 プロレスのキャスターとかいう仕事をしている騒々しい「おねえさん」というヒトと、ぼんやりした「おにいさん」というヒトと暮らしている。このおねえさん、おにいさんという呼び方が正しいとは思えないんだけれど、最初からそうだったから仕方ない。 これからときどき、わたしの日常を書いてみたいと思う。まあでもおねえさんがいつも叩いている、パソコンとかいう白い機械は大嫌い。だってアレにかかると全然わたしのこと構ってくれないから。 いま言いたいことは、最近手に入れたらしい新しいカメラでわたしを追い回すのはやめてくれないかなあ。
多治見、熊谷で40.9度 最高気温記録を更新 気温で40.9度って! 誰か人に抱きついていた方が涼しいってことですよね。理科の時間に習いましたけど、気温ていうのは風通しがよい場所に立てられた百葉箱の中の温度計で測るんでしょう? じゃあ直射日光の下は何度あるんかってことですよ。私も横断歩道の白の反射でいつもクラクラします。それにしても子供の頃社会科で習った「日本最高気温は意外にも山形!」っていう驚きが70年ぶりに変わるとは。山形の皆さん70年以上お勤めありがとうございました。そしてバトンを受け取った多治見と熊谷の皆さん、頑張って下さい。 さて暑い夏こそ鍋ってことで(強引)、先日のコメントでトヨさんに教えて頂いたネコ動画があまりに可愛かったのでこちらにも貼ろうと思います。皆様癒されて下さいませ。 トヨさんありがとうございました。私も投稿したいのはヤマヤマですが動画のupの仕方が未だにわかんない
ガンダム:壊れた模型を自宅に郵送…損害賠償金搾取http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20051111k0000m040147000c.html 〜毎日新聞より。 わざわざ壊したプラモを自宅に送りつけて「配送中に壊れた!ヒドい!」と郵便局に文句を言い30万もうけた、て話です。 凄いなあ。「マニアには高値を付ける人もいるかもしれない」と思い、損害賠償金を支払ってしまったという。て、どんなマニアだ。 ここで問題なのは「果たして何のプラモだったんだろう」ということなんですが、 「ヒドいじゃないか! このプラモ、足がないぞ!」 「足なんて飾りですよ!」 という窓口でのやり取りの末30万をだまし取ったということでジオングに決定。(←ていうかそこまで詳しいなら30万払うなよ)
「国民新党旗揚げ・・・綿貫代表、亀井久興幹事長」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050817-00000011-yom-pol 「誰よりも自民党を愛しているのは私たちだ」と亀井静香さんが自信たっぷりにおっしゃっている姿を見て、何かに似ているこの感じ、と思ったらそれはWJでした。誰よりも新日本を愛していた筈のWJ。 混迷するマット界のニッポンのど真ん中を突き進んで頂きたいです。 全くもって遅まきながら、日曜日のことなどを。音楽愛好家の皆様にとって夏は屋外フェスの季節で苗場や幕張や石狩湾でフィーバーされていることと思いますが、プロレスを愛する者にとっては7月末はフジロックじゃなくて火祭りであり、8月2週目はサマソニじゃなくG1であるのです。まあそんなことはともかく。 G1。もう田中リングアナが「天に召された1つの魂のために」と言ったところから、「爆勝宣言
はじめてお目にかかったのは1996年、まだサムライが正式開局すらしていない頃。東京ドームの脇にあった仮設スタジオにサムライニュースの記念すべき初ゲストとして来て下さったのが橋本真也選手でした。まだ破壊王はもみあげが長くて後ろ髪も長くて、プロレスの事なんかほとんど知らなかった私の、台本通りの質問にも優しく丁寧に答えて下さった。放送終了後「もう終わった?じゃあう○こ」とか小学生みたいなことを言ったと思ったら片手で私のことを持ち上げて、まるで皿回しみたいにくるくる廻してくれました。スタジオの天井に頭がぶつかりそうで仰天したことを覚えています。 橋本選手はでっかくて豪快で、プロレス処女だった私にとって最もわかりやすいプロレスラーでした。誰もが絶対「はーしーもとっ!」と叫んでしまうあのテーマ曲、問答無用の必殺技の垂直落下式DDT。 でもイベントやインタビューで親しくさせて頂くようになると、無邪気で天
我闘雲舞でメインイベントが終わって「一番好きな人」の曲がかかると、いつもなんだか泣きそうになる。「今日もそろそろーお別れの時間」で始まる曲に乗せて、胸に大きく名前を書いた色とりどりのTシャツを着た選手たちが、所属もゲスト選手も関係なく入り交じりながら観客席を歩いてハイタッチをする。時々記者席にも来てくれると恥ずかしいけど嬉しくて、みんな、ファンの人たちはいつもこんなに暖かい気持ちになるんだなと実感する。 我闘雲舞はさくらえみ選手が作った、ちいさいけれどカラフルでユニークでワールドワイドな楽園なのだと私は思っていた。でも、我闘雲舞が初めて新木場大会を開催した10年以上前、その大会が素晴らしくて「さくらさんはまた新しい小さな楽園を作ったんですね」と感動して話しかけたら「いや、小さいのはダメなんです。もっと大きくしてたくさんの人に届けないといけない」と即座に否定されて、自分の浅はかさを恥じたこと
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