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斎藤佳三(1887-1955)は、図案家、作曲家、舞台美術家、演出家、あるいはドイツ表現主義の図案・版画の紹介者などと、多方面で活躍したことで知られている。ここでは、そんな斎藤の手描のタイトルに絞って作品を鑑賞してみようと思う。 斎藤は作曲家を志して官立東京音楽学校(東京芸術大学音楽学部の前身)に進学し、そこで一つ年上の山田耕筰を知り、小山内薫、北原白秋、三木露風らと交友を結ぶ。が、小山内の妹にデザインの才能を見出され、また、舞台芸術に触れ、音楽学校を中退し官立東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)図案科に再入学する。 卒業前の大正元年(1912)11月にドイツに渡る。明治43年に渡欧していた山田耕筰と同宿しながらベルリン王立美術工芸学院で構成美学を学び、あわせて、ダルクローズの主宰する音楽舞踊学校で、リズムに関する研究も積む。 大正3年1月、大戦の気配が濃くなったので、山田とともにシ
写真は上から順に ・芹沢ケイ介(*ケイ=金へんに圭) ・棟方志功 ・佐野繁次郎 ・花森安治 ・中川一政 これが、私が勝手に選出した五人衆だが、小村雪岱の文字や恩地孝四郎の文字もいいけどどうなのよ、などと、当然異論はあるものと思います。 これは私が所有している本の中で ・手書きのタイトルの装丁であること ・タイトルと装画が同じ装丁家の作品であること ・文字が絵に溶け込んで一体となっていること を条件にして選んだのが、これらの5人だ。 そんな風に思いまして、今回、ここに高橋忠弥追加を認定し、 「書き文字装丁家六人衆」と改名し襲名いたします。今後は、書き文字装丁といえばこの六人衆ということで売り込んでいきたいと思っています。 こうして並べてみても決して見劣りしないし、文字が絵になっているということでは最高だと思うんですが、どうでしょうか? われながらこの六人衆の選択は結構いいのでは、と自己満足で
齊藤昌三『書痴の散歩』(書物展望社、昭和7年) 木村毅『西園寺公望』(書物展望社、昭和8年) これらの本を実際に製本したのは、齊藤昌三が、製本部と読んでいる中村重義で、素材をさがしたり、それをどうやって加工したらいいのかと腐心し、齊藤と一心同体で工夫を凝らしたふところ刀とも言うべき存在の製本家がいた。手作りで500部とか、1000部とかを黙々と作っていた本物の製本職人が蔭で支えてくれたことが、昭和初期の製本界に「齊藤昌三のゲテ本」といわれる金字塔を残す名作を次々に誕生させることができた所以でもある。 齊藤昌三のゲテ本とよばれる書物群の中で、私が最も好きなのは、齊藤昌三『紙魚部隊』(書物展望社、昭和13年)だ。 ■友仙の型紙を使った『銀魚部隊』 齋藤昌三の第5随筆集となる『銀魚部隊』(書物展望社、昭和13年)も廃品を利用したゲテ本だ。 巻頭の「序」には、 「外裝は又かと思はるゝ如きものにした
落合直文・内海弘蔵『国文学史教科書』(明治書院、明治36年)上は、教科書のジャケット、いろいろな内容を詰め込んでおり、オビの役目なども果たしている。下は教科書なのに豪華な装丁用クロス装上製本の表紙 磯村大次郎『実用刺繍術』(博文館、明治40年3版/初版=明治37年)右がジャケット 明治期の復刻本ではあるが、ジャケット付きの書物があった。 石川啄木『あこがれ』(小田島書房、明治38年・復刻版)左がジャケット 今日のジャケットとほとんど変わらない。もう少しがんばって探せば、明治30年代前半に作られたジャケットが見つかりそうな気がするが、書物にジャケットを付けるというのが一般化したのは紀田さんのいうように明治40年代なのだろうが、始まりは明治30年前後だと推察する。 (筒状の封筒の名称について、某大学のA准教授から「書袋(しょたい)」という、との電話でのご指示を頂きました)。 そうだと仮定すると
鈴木三重吉の手書き原稿「活版にまわした『古事記物語』の原稿の一部」(『明治大正文学全集 28巻 鈴木三重吉』春陽堂、昭和2年10月)より どこが、そんなに面白いのかって? この原稿を見ていると、執筆者の気質などが分ってくるから面白い。この原稿、すごくないですか。どうやって活字を拾ったらいいのか、現場ではかなり困ったのではないかと思われる。身勝手というか、自分に関することには潔癖症というほどに神経質なわりに、他人への配慮など全くない。悪筆の作家は多く、私が見た原稿の中では五味康祐などは、特にひどかった。 こんな原稿で、本を1冊つくるとなると大変だ。印刷の現場の声は直接三重吉の耳には入ってこないだろうが、万事こんな具合だから、装丁者とのトラブルが絶えなかった。そんなで、よく長年、雑誌を主宰していられたものだ、と感心させられた。 鈴木三重吉といえば、大正7年に、児童雑誌『赤い鳥』を創刊したことで
桃を拾う場面では「おばあさんは こちらへこい こちらへこい としたじゃないの ももはしょくぶつだから きこえないよ」と、ストーリーに批判的だ。第三番目の人が雲の上から、語り部が語る桃太郎の噺を聞きながら批判を加えているような構成が面白い。metalanguageってこんなのも指すのかな? 安野光雅『きりがみ昔咄─桃太郎・舌切雀・花咲爺─』(岩崎美術社、1980年) 「ももたろうは せいちょうしたあるひのこと おばあさん きびだんご つくってください おじいさん せいしん きめました ももたろうは おにがしまへと でかけたじゃないの」と、ほぼ3〜4行で、きびだんごを作ってもらい、鬼ヶ島へと出かける場面まで話しが進んでしまう。もちろん、鬼退治の動機は語られていない。 ももたろうって、鬼を思いやるいい奴なんだ。船の上で、犬猿雉に訓示を垂れている。「ももたろうは ふねにのって ただいまよりくんじを
昭和13年は国家総動員法が公布された年であり、物価統制品を物資不足につけ込んで高い価格で勝手に売買する「ヤミ行為」が行われるようになったのも物品販売価格取り締まり規則が公布されたこの年からだ。昭和の初めには新聞の第一面全面を飾った映画の広告もほとんど見られなくなり、軍歌のレコードなどに押されながら小さく掲載されているのを見つけた。 翌14年にはパーマネントが禁止され、国民精神総動員の本部、警視庁、東京市などなどによって「贅沢は敵だ」という標語の贅沢排撃の立て看板が立てられ、ポスターが貼られた。そんな時代的背景があり、封切られる映画もファシズム色の濃いものが上映されるようになった。こうなると遊び心たっぷりのキネマ文字も自粛せざるを得なかったのだろうか。影を潜めつつある中、やっと見つけた映画広告にもあの華麗なキネマ文字は見られなかった。 「ポパイ」が満員御礼になっているのが面白い。この数年後に
久しぶりにキネマ文字を見つけた。それもドハデな新聞全面広告だ。昭和2年4月1日付けの東京朝日新聞、金曜日の夕刊の第三面に掲載されてたもの。色々な映画館が集まっての合同広告だが、さすが、映画の第一次黄金時代といわれるだけあって規模がでかい。今では映画の広告だけの全面広告なんて見られないのではないかと思う。 この映画広告の文字は、全面一人だけで書いたのだろうか? 何人かで手分けして書いたのだろうか? いったいどのくらい時間をかけて書いたのだろうか? さまざまな疑問が浮かんでくる。この文字を書いた人は健在なんだろうか? 聞いてみたいことがいっぱいある。誰が最初にこのキネマ文字のスタイルを書き始めたのか? 昭和初期にはこのような文字を書く人は沢山いたのか? その多くが疑問のままでなかなか解決の糸口がつかめないでいる。誰かその辺の話を書き残してくれていないのかな、と思う。 何はともあれ、兎に角文字が
リョービの写植書体で「行成」という書体があるが、これは味岡新太郎さんが1980年代に発表したものでリョービイマジクスの味岡新太郎かなシリーズとして発売されたもの。 この元本なのかどうかはわからないが、本棚の奥の方から「行成卿かな帖」(目黒書店、昭和7年、初版=昭和4年)が出てきた。 昭和4年ということで、さまざまな書体集が発売され、そんなブームに乗っての発売かとも思われる。 果たしてリョービの書体との関連性がどの程度あるかどうか? 教えていただきましてありがとうございます。思ってた以上のすごい図録でした。古いポスターもたくさん掲載されていて資料性も高く、ていねいに編集されていて大満足です。
ということで、早速 ・「キネマ旬報」第359号(キネマ旬報社、昭和6年3月、創刊=大正8年7月) を購入。映画の掲載広告などを探してみたら、さすがにキネマ旬報ですね。「キネマ文字の宝石箱や〜。」ほんとオンパレードだ。「欧米か〜!」 大正8年に創刊したようだが、その頃の本からぜ〜んぶ眺めてみたいですね。いつごろからキネマ文字が使われ始めたのかが分かるかもしれませんね。 ありがたいことに1頁の全面広告や2頁の見開き広告がたくさん掲載されており、はっきりと文字を観察することができるのはうれしい〜。 以下、表紙1、表紙4、表紙3、そして本文中に掲載されていた広告の一部です。全部をお見せできないのが残念です。 昭和6年ということで、まさにキネマ文字全盛期だけあって、どのぺーじも装飾文字があふれている。この勢いでは、「装飾図案文字」が「キネマ文字」と呼ばれるのもやむを得ないことと納得した。 折り込みの
表紙の文字は黄土色の地に金箔押ナノで、金箔の輝きがなくなると文字は地の色と似た色になり読めなくなってしまう。せっかくモダンなタイトル文字なのだが、画面では見えづらいのではないかと思います。 十時柳江『その儘使へる絵と実用図案文字』(弘文社、昭和2年)がこの本。表紙は残念でしたが、最初のページからなかなか見事な図案文字と絵が飛び出してくる。かなり前衛美術的で絵もうまい。私が所有しているのは初版なのでどのくらい売れたのか分からないが、売れて欲しい良い本だよね。 十時柳紅『その儘使へる 絵と実用図案文字』は近代文藝社から昭5年に発行されている。昭和2年に発行された弘文社版が売れなかったので版元が代わったとも考えられるが、詳細は不明。名前の「江」が「紅」に代わっているが、著者名の誤植ということは考えにくいので、或は海賊版のため、わざと一字を代えたのか? あくまでも推察でしかありません。 車、飛行船
『新版丹下左膳』の場合のキネマ文字はレトロなイメージを喚起するために用いられていたが、 今回の伴田良輔『女の都』(作品社、1992年)造本=祖父江慎は、古いということだけではなく、女っぽさをも表現する文字として採用されている例だ。キネマ文字は女性を象徴する記号にも変身することができる便利な書体だ。 確かにこの曲線は女っぽいかもしれない。アールヌーボーの影響を受けているとしたらもろだよね。 女、髪の毛、昆虫等がアールヌーボーなんだから。 ・山村暮鳥『ちるちり・みちる』(洛陽堂、大正9年)装丁=小川芋銭? ・長尾豊『夏季学校お話集』(厚生閣、昭和3年)装丁者不明 大正9年に「ちるちる・みちる』の文字を制作したとしたら、結構早い時期の装飾文字といえる。それにしては良くできたデザインではないかなと思う。 なぜなら、この本が発行されるより前には、「装飾図案文字』の書体集のような書物はほとんど発行され
キネマ文字の「キネマ」とは映画、活動写真、シネマ等の意味でKINEMATOGRAPHの略語だ。 古書市や骨董市等では決まって、キネマ文字(装飾図案文字)が使われる。雑誌の特集等でもこのスタイルの文字はおおモテだ。そう、この文字を使えばだれもが懐かしがってくれて、古いものを扱っているんだなって理解してくれるからだ。写真は「AMUSE](毎日新聞社、2000年) 巨椋修『新版丹下左膳』(福昌堂、1997年)もキネマ文字をレトロを象徴する記号として、装丁家・勝木雄二氏がこの本のタイトルのために書いたもので、決して昔からこの文字が使われていたわけではない。デザイナーの錯覚を利用した大衆操作のテクニックだ。この新しい文字によって私達は何となく古い時代へと想像を操作させられてしまうのだ。 なんの不思議もなくこのキネマ文字が昭和初期へとタイムスリップさせてくれるが、昔の丹下左膳の単行本はこのようなタイト
装丁に於ける文字の重要性はいまさら私が声を大にして叫ぶべきものではなく、当然のこととして受け入れられてきている。 しかし、創作文字と装丁の関連については、これまであまり語られることななかったのではないかと思う。 自分自身への反省も込めて、大正末から昭和初期にかけて盛んに行われた創作文字や図案文字について調べてみたくなった。 とりあえず当時発行された創作文字の本を集めてみようと思い小手始めに ・藤原太一『絵を配した図案文字』(東光堂、昭和7年16版、初版は大正15年6月) を購入した。 函のタイトル文字といい、表紙の図案といい、最高ですね。大正末期から昭和初期にかけての雰囲気を見事に伝えていますね。 本文中の挿絵やタイトル文字も身震いするほどにいい雰囲気がある。著者の藤原太一似ついてはこの洪以外は何も情報がないが、かなり活躍したデザイナーなのではないだろうか。 ネットで検索すると ・『図案化
装丁というと、付き物4点セットなどといって、ジャケット(カバー)、表紙、別丁扉、帯のデザインをすることを意味する事が多いが、コンピュータ導入のせいか最近ではデザイナーが一人で本文ページの組み版も含め、一冊丸ごとデザインすることが多くなってきた。 デザインだけではない。これらに使用する紙の選択は当たり前としても、写真やイラストのスキャンニングさらには校正入力まで押し付けられる? ようになってきた。それだけではなく、編集者は原稿を集めるだけで編集作業などほとんど何も手をつけないままで、いわば丸投げに近い状態で任される事も多くなってきた。しっかりペイされれば隅から隅まで一人で創作できる楽しさはあるのだが、こんな仕事に限って大体はどんぶり勘定で値切ってくる。 池田満寿夫も一冊丸ごとデザインするのを 「……今から考えると、やはり“ブック・ワーク”の完全な型はこの豆本のなかに見られるといってもいいかも
●清刷りを使った佐野繁次郎の装丁 佐野の装丁に活字が使われているもう一つの例として、清刷りを版下として使った装丁がある。 清刷りとは、白い紙に活版印刷で印刷したもので、文字を貼り直したり、拡大したりしてその文字(版下)を使ってデザインし、再度印刷する。 高見順『昭和文學盛衰誌(一)』(文芸春秋新社、昭和33年3月初版)、松浦佐美太郎『たった一人の山』(文芸春秋新社、昭和38年)は、清刷りを版下として使った装丁例である。こうして書き文字を使わなくともタイトルのような大きな文字を使えるようになった。あるいは、小さな文字を大量に活字のようなきれいな書き文字で書くのは大変なので、この清刷りを使う方法は大いに使われるようになった。 写植が使われるようになり、大きな文字も自由に使えるようになってからも、活字の書体にこだわるデザイナーは、この方法を使っていた。『たった一人の山』の見返しにも清刷りを使った
【絵手紙を習う(76)……「絵手紙同好会」(於:ルピナス)で「ハロウィン&10月の風物詩」を描きました!】 今日のお題は「ハロウィン&10月の風物詩」。前回同様に今回も自宅で14枚も描いて、同好会に持って行きました。うち「鯵はアジフライがいい!」だけは、未完成のままにしておき、同好会で続きを描きました。『絵手紙同好会だより』右ページ下半分「ハロウィン」「松茸」「鬼灯」「野葡萄」「クリ」の5点は、私の絵手紙です。 9月25日に「第51回住吉福祉会館開館記念 ルピナス演芸大会」が開催され、絵手紙同好会も絵手紙を一人3点ずつ展示しました。当日夕方には撤収される予定でしたが、10日経った昨日になってもまだ展示されていました。「好評のため継続して展示してほしい」という要望があり、今月も継続して展示されることになったので、作品を入れ替えてきました。 「絵手紙だより」第22号 ルピナス演芸大会・絵手紙展
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