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tomiokasubaru.theletter.jp
「攻め・受け」理論に性愛の概念を引きずられてしまっているようなBLを時々目にする。 性的役割分担という概念から解放されやすいはずの同性カップルの話で、「挿入される側=受け身=女性的な役割」といった旧来のジェンダー観を再構築しているBLを見るとモヤモヤしてしまうという話。 これは決して怒っているわけでも、抗議をしたいわけでもないので誤解してほしくないのだが、BLにおける「攻め・受け」呼称に対して違和感を抱くことがたまにある。その呼び方だと使い勝手がいいというのも頷けるし、僕も「攻め・受け」という言葉を使うことはあるので、それを使うなという意味ではない。ただ無条件に、男性器を挿入する側を「攻め」と扱い、挿入される側を「受け」と扱うのは、現実における男性同士の関係性に即していないなと感じてしまう時があるのだ。 BLはあくまで恋愛ファンタジーであり、実在する男性同士のカップルの現実を必ずしも全て反
とりわけ異性愛者の男性から持たれることの多い“ゲイ=男を襲う生き物”という偏見。それは「男性から性的な対象として見られることは時に暴力の対象になり得る」という男性の加害性を、彼ら自身が理解していることの現れなのではないか。 ゲイとして、男性として考えること。 “ゲイ=男を襲う生き物”、という偏見を持っている人は少なくない。特に異性愛者の男性からそうした“恐怖の対象”として見られることは珍しくなく、「新宿二丁目(のようなゲイタウン)に行ったら襲われそう」とか「知り合いに連れられてゲイバーに行ったら、お店の人から素敵だと言われて怖くなった」などという発言を周囲の男性たちから聞いたことなら何度もある。もちろん彼らは僕がゲイだと知らないからこそ、そうして打ち明けてくるわけなのだが。 あと、同じ文脈でよく目にするのが、「ゲイにとって男湯は天国」という言葉だ。大抵それも異性愛者が勝手な想像で語っている
今30代のゲイである僕にとって、自分自身と同じく同性を愛する男性が幸せそうにしている場面を見たのは、BL漫画を読んだ時が初めてだった。それは僕がまだ高校生だった2003年頃のことで、その時に読んだ作品名は今でもはっきりと覚えている。 “Boys Life(こうじま奈月作)”というタイトルを持つその漫画は二人の少年の恋模様を描いたもので、今思えばBLの王道的ストーリーといった作品だった。ただ当時の僕にとって、それはかなり衝撃的なものに映った。だって何の悲愴感も何のどんでん返しもないまま、ただ男性同士が幸せそうに恋をしている場面なんて、それまでの人生でただの一度も見たことがなかったから。
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