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「きみのおじいさんがわたしたちを目の敵にする気持ちはわからんでもない」なんの前置きもなく、岳さんはそう切り出した。「あなたたちは外省人でしょう? そして、あなたのおじいさんはおそらく大陸で抗日戦争を戦ったはずです」 わたしはうなずいた。 「彼の目には、日本統治時代を懐かしむわたしたちのような者は、奴隷根性に骨の髄まで冒された裏切者に映るんでしょう。それはオーストラリア人やチェコスロバキア人がドイツの歌を歌って、ナチスの統治時代を懐かしんでいるようなものかもしれません」 (東山彰良『流』講談社文庫、2017) こんばんは。先日、ロベール・ブレッソン監督の『スリ』(1960)を観ました。中村文則さんの小説『掏摸』の着想源だったという、ずっと気になっていた映画です。期待しすぎたためか、『掏摸』ほどには引き込まれなかったものの、やっと観ることができて、 よかった。 やっと観ることができた映画をも
松陰の遺書となった『留魂録』には、「吾が心にも非ざる迂腐の論(自分が考えたこともない、どうしようもない愚論)」を勝手に作文されて憤ったこと、しかし結局、「こんな輩といくら話しても無駄だ。もう、いい」と口論に署名をしたことが記されています。その11日後の朝、松陰は斬首刑を言い渡され、その日のうちに処刑されました。 否認している被疑者から一人称独白形式の自白調書を取り、そこに署名させれば有罪で「一丁上がり」というやり方の、松陰は犠牲者の一人です。 (村木厚子『おどろきの刑事司法』講談社現代新書、2026) こんばんは。一昨日、昨日、そして今日と3日連続で学校公開が続き、正直、クタクタです。吉田松陰に比べれば、村木厚子さんに比べれば、贅沢なクタクタかもしれませんが、2学期の2週目の月~水に学校公開を設定するなんて、「吾が心にも非ざる迂腐のスケジュール」で、 憤りを覚えます。 しかも月曜日は前日か
翌年四月、「ライフ誌ならびにニューヨーカー誌」の記者として広島を訪れたハーシーは、三週間にわたって同地を取材した。その時、通訳兼案内人を務めたのが物語の登場人物の一人であるウィルヘルム・クラインゾルゲ神父であった。やはり登場人物の一人で、ハーシーのインタビューを受けた谷本清氏によれば、ハーシーは、これまで原爆の科学的被害調査はおこなわれてきたが、「私は人道主義の立場からその被害調査をしたい」と切り出した。さらにハーシーは、生存者の中から男子三人、女子二人というように各方面を代表する五人を選んで、その体験を通して大悲劇の真相にふれるつもりでいると語った。五人という構想は、最終的には六人になるのだが、その人選にあたって力を貸したのもクラインゾルゲ神父であったという。こうして、中村初代さん、佐々木輝文博士、ウィルヘルム・クラインゾルゲ神父、佐々木とし子さん、藤井正和博士、そして谷本清牧師という六
この章では、いっしょにやる人のことを便宜的に「バディ」と呼びます。 なぜバディという言葉を選んだかといえば、パートナーやコンビ、相棒だとすでに固まったイメージがあるように思えたからです。また映画や漫画などでは、一見正反対な性格の人同士が同じ目的に向かいながら互いを仲間として認め合う作品を、バディものといったりします。実際にそのような人といっしょに何かをする必要はないですが、自分をさらけ出し、相手を受け入れていく関係である「バディ」が、ぼくの考える「ひとりでやらない」の相手にふさわしい言葉だと思いました。 (竹田信弥『ひとりでやらないもん!』雷鳥社、2026) こんばんは。先週の土曜日に、これぞ「バディ」と呼びたくなる共演を目にしました。シンガーの後藤杏奈さんと、ギタリストの古川麦さんによる、東京は国分寺にあるカフェスローでのライブです。 ひとりでやらないもん! カフェスロー(2026.8.
忙しいから強い口調になる。組織に余白がないから誰かに押しつける。正しさを急ぐから沈黙が増える ―― そうした小さな合理性が関係性を痩せさせ、やがて暴力が ”発酵” する。 これは学校でも家庭でも同じだ。 (勅使川原真衣『ハラスメント最終報告』晶文社、2026) こんにちは。先週末、かつての同僚の話をオンラインで聞きました。前の前の前に勤めていた大規模校で、2年目にして6年生の担任を任され、さらに早朝も土日も夏休みも、文句も言わずにブラスバンドの指導に身を投じていた、 完璧すぎる先生です。 おはようございます。かつての同僚が教員を辞め、講師として学校との関わりは保ちつつ、フリーで「ママを応援する仕事」を始めたというので、昨夜、Zoomで何人か集まり、話を聞きました。がんばるから整えるへ。自分の生きる人生を愛せ。自分の愛する人生を生きろ。うんうん。#教職員垢で朝の挨拶を — CountryTe
十分に伊是名 —— 沖縄の歌と踊りを見せてもらった。同期させてもらった。すると、お孫さんの一人が「東京から来られたんですよね。私たちの歌と踊りはやったんで、東京の歌と踊り、見たいです! やってください!」と言った。 正直に言って最初は冗談かと思った。みんなが知っていて、誰でも歌えて踊れる歌を僕らは携えていない。東京に限らず、おそらく、多くの人がそうではないでしょうか。 (近内悠太『贈与を巡る旅』PHP研究所、2026) おはようございます。先日、久しぶりに近内悠太さんのトークイベントに参加してきました。近内さんは、デビュー作『世界は贈与でできている』で一世を風靡した、類まれなるストーリーテラーで、著者紹介を引けば《教育者。哲学研究者。》とあります。ミシュレの『魔女』にある《私の正義はあまりにあまねきため》という、村上春樹さんの処女作にも引用されている美しい表現に倣うと、彼の贈与ははあまりに
アダム・スミスが答えを見つけたのは、経済の半分の面でしかない。彼が食事にありつけたのは、商売人が利益を求めて取引したためだけではない。 アダム・スミスが食事にありつけたのは、母親が毎日せっせと彼のために食事を用意していたからだ。 (カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』河出書房新社、2021) こんにちは。先週、代官山蔦屋書店で開かれた、勅使川原真衣さんと小川公代さんの対談「フィクションの力? ~研究と実社会はいかにつながるか~」に足を運びました。勅使川原さん、11作目にして初の小説『「対話」がやってきた』の刊行を記念したトークイベントです。 ご本人いわく、これまでの10冊すべてにつながるテーマはもちろん、小説という形式だからこそ、積み重ねてきたメッセージをより自由に、より濃く盛り込むことができた、そんな趣旨の話をされていました。その「つながるテーマ」というのは、ず
一般読者の分からない単語を使ってはいけないという考え方は確かにおかしい。読者の知識とは無関係に小説の言葉の豊かさというものがある。小説の中の言葉は、買うことも食べることも消費することもできない。ただ、そこにあるのを読者が読むだけで、読むことによって言葉が減るということはないから、いつまでもその豊かさは残る。わたしたちはそれに触れることのできる喜びを味わえばいい。分からない単語があったら、放っておいてもいいし、辞書で調べてもいい。小説にとって、読者はお客様ではない。お客様にあわせて貧しくなる必要はどこにもない。 (多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、2013) こんにちは。小説だけでなく、学校にとっても、子どもや親はお客様ではありません。お客様にあわせて貧しくなる必要はどこにもありません。にもかかわらず、現実にはそうなっている。教育の境界研究会 編『むかし学校は豊かだった』という本に注目が
すべてが偶然の連続であり、その偶然につき従った結果、ここでこうして美しい月を眺めながら眠ることができている。たとえ、この先にどんな不快なことが待っていようとも、この一晩を用意してくれた偶然には決して不満を申し立てないようにしよう、と私は思った。それが、もしかしたら私の唯一信仰する神かもしれない偶然というものに対する、最低の信義というものだと思ったからだ。 (沢木耕太郎 著『途上の王国』スイッチ・パブリッシング、2026) こんにちは。まず、はてなブログの今週のお題「行ってよかった旅行先」に寄せて、旅の写真を3枚。復興からの途上にある、 フクシマより。 吾妻小富士(2026.8.16) 請戸は「うけど」と読みます(2026.8.17) 請戸海水浴場(2026.8.17) 山形県の川西町に住む知り合いに会うということが目的の小旅行でしたが、渋滞もなく予定より早く着きそうだったので、道草を食うべ
計画通りにならなかったとき、「失敗した」と感じるでしょうか。「逆算」を称揚する社会において、逆算ミスは失敗なのかもしれません。でも、思い描いた未来と違う人生を歩んでいる人は、ごまんといます。 進学せずに働いた人、就職してから別の夢を見つけた人。その多くが、「予定外」の中で自分の持ち場のようなものを見つけています。 (勅使川原真衣『人生は逆算できるのか』ちくまプリマー新書、2026) こんばんは。さしたる理由もなく、大学は工業大学に進んだ。ある日、キャンパスを歩いていたら、高齢の方がベンチに座り込み、苦しそうにしているのが目に入った。声をかけ、救急車を呼んだ。その出来事がきっかけで、その方の会社に就職することになった。 社長だったのだ。 入社後も社長は気にかけてくれて、楽しく働けた。でも、数年後、社長は病に倒れ、帰らぬ人となった。その日を境に、働くことが以前のようには楽しく感じられなくなった
独立した翌日の朝、目が覚めて、スマートフォンを確認した。 通知はいくつかある。SNS のフォロワーからのコメント。何かのサービスからのメルマガ。でも、仕事の連絡はなかった。当たり前だ。まだ誰にも何も依頼していないし、何かが始まっている状態でもなかった。 (熱海康太『「先生」を辞めた1年』学芸みらい社、2026) おはようございます。昨日、老若男女から成る読書仲間の一団で迎賓館赤坂離宮を見学しました。四ツ谷駅から歩いて7分ほど。並木道をくぐり抜けると、日本で唯一のネオ・バロック様式による宮殿建築物が、正面にゆっくりと姿を現します。建設されたのは、近代日本が「国家のかたち」を模索していた明治42年。日露戦争に勝利し、 何かが始まりかけていた時代です。 雨の迎賓館赤坂離宮(2026.8.13) テロ対策なのでしょうか。荷物チェックは飛行機よりも厳しく、館内は写真撮影不可。スマートフォンを手に持つ
私は知らなかった。彼女について、何も知らなかった。突然、そんな気がした。 「食べないの?」 (ハン・ガン『菜食主義者』QUON、2011) おはようございます。「食べないの?」と言われてもいないのに、思わず手が伸びてしまったのが、これ。過日、高知県は本山町にて。旨すぎました。私は知らなかった。本場の赤牛について、何も知らなかった。岩塩の乗ったその肉を口に入れた瞬間、 そんな気がした。 赤牛(2026.8.7) そしてこれも。過日、高知県は黒潮町にて。旨すぎました。私は知らなかった。本場の鰹について、何も知らなかった。天日塩の乗ったその肉を口に入れた瞬間、 そんな気がした。 道の駅なぶら土佐佐賀(2026.8.6) 藁焼き鰹たたき(2026.8.6) さらにはこれも。過日、高知県は四万十市にて。怖すぎました。私は知らなかった。本場の鰻について、何も知らなかった。お顔がついたまま運ばれてきた蒲
子供のころいっしょに遊んだ仲間たちは、小説を書くぼくからすれば、ちょっと変わった宝の山だ。あるいはぼくの目の前をキラキラ転がっていき、部屋のすみっこで、謎めいて止まるパチンコ玉みたいなものかもしれない。もちろん頭のなかで彼らを呼び覚ますのはぼくの勝手だが、だからと言って彼らもわざわざ、自ら志願して誰かの小説に登場したくはないだろう。 (呉明益『歩道橋の魔術師』河出文庫、2021) こんばんは。歩道橋ではないのですが、先日、高知を旅した折、沈下橋という、欄干のない「むき出しの橋」を車で渡りました。不慣れなレンタカーだったこともあり、四万十川のキラキラを眺める余裕もないまま、 おそるおそる対岸へ。 なんとか渡りきり、高知県のひまわり乳業が製造する乳酸菌飲料・リープルを一口飲んで、ホッ。そのとき、ふと浮かんだ言葉がありました。それは、 沈下橋の魔術師。 CMっぽい(2026.8.5) 沈下橋(2
意表をついたその愛らしい地図をめくるたびに、私は笑みがこぼれる。ある人が言ったように「取るに足らぬものなどなに一つない、と思う心が詩」なら、彼の作った地図は詩といえるのではないか。平らなモノクロの紙の上からも音が聞こえ、燦々と降り注ぐ光が見える。かつて見知らぬ外国の小さな町で流れていた時間が、五十年後の私のところに届く。詩がまさにそうであるように。 (ハン・ジョンウォン『詩と散策』書肆侃侃房、2023) こんばんは。地図をつくるというと、辻仁成さんの『アンチノイズ』に出てくる「音の地図」を思い出します。 取るに足らぬ音などなに一つない。 www.countryteacher.tokyo 先日、音の地図をつくるために、ではなく、日本の教育の未来を(飲んで)語る合宿に参加するために、高知に行ってきました。コミュ障が爆発し、ほとんど何も語ることはできなかったのですが、聞くことはできました。詩人の
現状の僕は、不老の状態だ。自分の老いに追いつくことができずに、延々と幼さを謳歌していく人生。老人と子どもが一つの身体に併存している。この二者が融合することなんてあるのだろうか。僕はまだ正直自分のことを高校三年生だと思っている。あの頃、「一生高校って卒業しないんだろうな」って本当に思っていた。そして、今もそう思っている。高校三年生のまま、36歳になってしまった。 (小田垣有輝『地の文のような生活と vol.8〈老い〉を書く』しまや出版、2026) おはようございます。一昨日、映画『開戦前夜』を観に行きました。日米開戦の前に日本全国から官民を問わず優秀な若者を集め、模擬内閣をつくって「もし日本とアメリカが戦争を始めたらどうなるか」をシミュレーションさせたという実話を土台としたフィクションです。監督は石井裕也さん、原案は猪瀬直樹さんの『昭和16年夏の敗戦』。昨年の夏に放送されたNHKスペシャル「
初めてのPCは、とにかくかき続けるために買った。 ブログを開設し日記を書き始め、それから漫画をアップするようになった。 飼い猫との暮らしをかき殴った他愛もない4コマ漫画だったが心中は切実だった。 (イシデ電 著『私という猫 完全版』ことさら出版、2024) おはようございます。一昨日、電車とバスを乗り継いで東京は世田谷に行き、用事を済ませ、一杯飲んでさぁ帰ろうと思ったときに、 ピンときたんです。 あっ、ここってもしかしたら Cat's Meow Books(キャッツミャウブックス)の近くかもしれないって。田中佳祐さんと竹田信弥さんの『街灯りとしての本屋』や、小泉今日子さんの『ホントのコイズミさん』に登場する「猫のいる本屋さん」です。そんなわけで、 いざ、Cat's Meow Books へ! www.countryteacher.tokyo Cat's Meow Books だ!(202
母は最後にこう言った。 「大丈夫。あおちゃんはね、見えない『無理』を見る目を持ってるんだよ。組織に対してでも、人に対してでも、それを使えばいいの。魔法だよ魔法。ただし一つだけ。自分の『無理』が一番見えにくいからね。それだけね、注意深くね。・・・・・・あぁ眠たい」 (勅使川原真衣『「対話」がやってきた』集英社、2026) おはようございます。先日、もうすぐ82歳になる母から「インドからヴィクラム(仮名、母の友人)の息子ファミリーがやってきた」という連絡がありました。「銀座でご飯を食べることになったから、来る?」とのこと。せっかくだし、それに最近歩くのがゆっくりになってきた母のことも気になったので、年休を惜しげもなく使って、 いざ、実家のある東京へ。 アインソフ銀座にて(2026.7.27) ヴィクラムの息子さんは国際通貨基金(International Monetary Fund)勤務。息子
「祖国とは国語」というシオランの言葉は、日本でも特に有名なものの一つではなかろうか。 引用されて、本の題名にまでなっている。 だが・・・・・・畏れ多いかもしれないが、別の解釈もできると思っている。 (済東鉄腸『生まれるのも生きていくのもめんどくさい!』飛鳥新社、2026) こんにちは。終業式の翌週から始まった個人面談(35人 ✕ 25分)が火曜日に終わり、水曜日と木曜日は宿泊体験学習、そして昨日が7月ラストの出勤。1学期が終わってから昨日まで、夏季休業中だというのに、あまりにもハードなスケジュールでした。もしこの状況を、ルーマニアが生んだ悲観の哲学者エミール・シオランが目にしたら、いったいどんな呪詛の言葉を吐くでしょうか。畏れ多いかもしれませんが、 Copilotに訊いてみました。 休息を与えるふりをして、なお人を疲弊させるとは。これは時間そのものが仕掛けた悪意だ。人生は、疲労を増やすため
でも、やっぱり確かなのは私自身の聴体験だったりする。 夏フェスで聴いたくるりの「ロックンロール」。岸田繁が「晴れ渡る空の色 忘れない日々のこと」と歌ったときのその空は真っ青な夏空だった。あの光景はおそらく一生忘れないし、「あぁ、これを聴くために僕は生まれてきたんだ」と本当に思った。 (小田垣有輝『地の文のような生活と vol.5〈私〉を書く』しまや出版、2024) こんにちは。昨夜、Kアリーナ横浜で聴いたOfficial髭男dismの「らしさ」。藤原聡さんが「ああ 生きてて 良かったな」と歌ったときの瞬間はおそらく一生忘れないし、「ああ、生きてて良かったな」と本当に思った。 マジでそう思った。 ツアトラ(2026.7.25) Kアリーナ これも行ったなぁ また来ます 1年前の日産スタジアムでのセトリと、Kアリーナでのそれはかなり違っていて、会場によってマッチする楽曲ってだいぶ違うんだな、と
もし、私たち日本人が日本語が「亡びる」運命を避けたいとすれば、Ⅲという方針を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定し切らなくてはならない。そして、その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てねばならない。英語の世紀に入ったがゆえに、その当然の前提を、今までとはちがった決意とともに、全面的に打ち立てねばならない。 (水村美苗『日本語が亡びるとき』筑摩書房、2008) おはようございます。Ⅲというのは《国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと》を指します。Ⅱは《国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと》で、2011年の必修化、2020年の教科化という小学校での英語教育の流れを踏まえると、現状はこの「Ⅱ」、すなわち日本語が亡びる運命に突き進んでいるといえるのではないでしょ
しかも単に父性の喪失、欠如が語られているだけではない。父性の欠如によって、いずれの物語も登場人物、主に主人公である「先生」や李徴が所属していた共同体がある種の危機的な状態に陥る。 (小田垣有輝『地の文のような生活と vol.2 父が/を書く』しまや出版、2023) こんばんは。夜空に半月がくっきり。月を眺める余裕があることに気づき、ある種の張り詰めた状態から脱したことを、改めて実感します。学期中にも、月を愛でるような余裕がほしい。 こういう余裕もほしい。 健康で文化的な生活(2026.7.20) 昨日は暑さを言い訳にしてダラダラしてしまい、せっかくの夏休み2日目を無為に過ごしてしまいました。だから今日は「8月31日から戻ってきたんだよ、今」という気持ちで早起き&庭の木々の剪定&コメダ珈琲で朝読書&実家に帰って車の点検&両親との食事&ギターの練習&筋トレ&その他もろもろと、ダラダラではない一
日本軍は海南島や台湾で訓練した工兵部隊が異常な速度で道路と橋を修復し、狙撃兵は、マレー人に化けて密林や村に浸透し、あちこちで英印兵たちを恐怖に陥れた。そして、さらに彼らを悩ませたのが銀輪部隊であった。自転車の兵隊は山間部へ入りこみ、川の上流で渡河、側面よりジャングルを抜けて急襲をかけ、退却する英印軍をいくども苦しめた。 (呉明益 著『自転車泥棒』文春文庫、2021) こんばんは。退却する英印軍の苦しみとは比べものになりませんが、それなりに大変だった1学期が終わりました。終業式のあった一昨日の金曜日は銀輪部隊よろしく高速で帰り支度を済ませ、定時退勤。自転車泥棒、否、時間泥棒から逃れ、一刻も早く夏休みの空気が吸いたかったというわけです。 夏休み0日目。 夏休み0日目(2026.7.17) 踊ってない夜ではなく夏休み0日目の夜よりも幸せな夜を知らない。小学5年生の国語の教科書に「見立てる」という
「うん、君の言うとおりだ」と佐原は認めた。「君の言うことはなかなか筋が通っている。そう、君が言うように僕は病んでいる。それはまず間違いのない事実だ。進んで認めよう。しかし病んでいるというのは考えようによっては、心愉しいことでもある。病んでいる人間にはね、病んでいる人間だけが愉しめる特別な場所があるんだ。病んでいる人間のためにこしらえられたディズニーランドみたいなところがね。そして僕には幸いなことに、その場所をゆっくり満喫できるだけの時間と余裕がある」 (村上春樹『夏帆』新潮社、2026) こんにちは。先日、濱口竜介さんが監督した映画『急に具合が悪くなる』を観てきました。原作は宮野真生子さんと磯野真穂さんの往復書簡『急に具合が悪くなる』です。磯野さんへの興味・関心から、7年前に読んだあの本が、こんなかたちに変奏されるなんて。村上春樹さんの『女のいない男たち』を映画化した『ドライブ・マイ・カー
それでも虚しく思うときがある。これを語っている、語り手としての僕(小田垣有輝)は、今パソコンの目の前でまさにキーボードを打っている僕(小田垣有輝)とはまったく別の存在でなければならない。そうですよね、バルト先生。 (小田垣有輝『地の文のような生活と vol.3 恋を書く/恋で読む』しまや出版、2023) こんばんは。先日、国語の読書単元に絡めて、授業で「読書会」をしてみました。そこで発見したことは、小学生は作家を気にしないということ。自然と作品論になるということ。大人の読書会では、たとえば「東浩紀はポストモダンだから」や「小田垣有輝はショートボブだから」、それから「宮沢賢治は童貞だから」等々、どうしたって作家論に偏りがちで、 ダメですよね、バルト先生。 なんて言いたくなる場面によく出くわします。ところが子どもには、それがないんです。もしかしたらバルト先生は「童心に返れ」と言いたかったのかも
授業をすればするほど、僕の人生は豊かになっていくのだ。賃金をもらうこととはまったく別のところで。その時点で、僕は対価を得ている。モノ・コトに対する見え方ががらっと変わったり、生徒と読みを交わす中で僕が気づいていなかった読みに触れることができたり、文法規則という観点を導入することでテクストの読みを変えていったり、授業という労働を行うと、まず私の世界がどんどん変わっていくのだ。賃金よりも先に、僕は労働を対価として、自分の人生をより良いものにしている。 (小田垣有輝 『地の文のような生活と vol.6〈はたらく〉を書く』しまや出版、2025) こんばんは。これですよ、これ。教員不足にならないためのヒントは。授業をすればするほど自分の人生が豊かになっていく(!)という感覚を得られるのであれば、辞めないでしょう、普通。なりたくなるでしょう、普通。殺到するでしょ、教員採用試験に、 若者が。 若者だけで
「おい、デブ、自分でどけてみろ」とわたしは言った。 かわいそうに、重くて自分では持ち上げられない彼女は、腰掛けてテーブルに突っ伏すと、わっと泣き出した。わたしはそれをからかったものである。これこそ、疲労が人間の態度に及ぼす影響なのだった。 (ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』岩波文庫、1989) こんばんは。風邪を引いてしまいました。おそらくは先週の土曜授業(振休なし)が遠因です。1年前のブログを読み返したところ、《先週は振休なしの土曜公開授業があったので、身体が休まらず、今週は途中から微熱が続いて大変でした》と書いてあって、もう、労災のようなものだな、と。そのうちクラスの子に「おい、デブ、自分でどけてみろ」みたいな言葉を発するかもしれません。振休なしの土曜授業を実施している学校や自治体の偉い人には、ジョージ・オーウェルのデビュー作を読んで、《疲労が人間の態度に及ぼす影響》を、
が、食えないことを決意しないで生きていたってなんの意味があるか、と自分を追いつめた。もし人間に生きる秘訣があるとすれば、自分自身をむしろ生きられない場所に追い込むことだと思う。そうすれば新鮮に生きられる。 (岡本太郎『自分の中に孤独を抱け』青春文庫、2017) こんばんは。新鮮さを求め、先日、東京は青山にある岡本太郎記念館を訪ねました。岡本太郎(1911ー1996)が42年にわたって住まい、作品をつくり続けたアトリエがそのまま息づくミュージアムです。 表参道駅から歩いて10分ほど。 ひとりで孤独だったからでしょうか。それとも、首都・東京までの「遠路はるばる」で少し疲れていたからでしょうか。道すがら、どこからか太郎の声が聞こえてくる気がします。孤独であって、充実している、そういうのが人間だ! 芸術は爆発だ! 岡本太郎記念館(2026.6.28) アトリエ 岡本太郎だ! 庭 岡本太郎 著『自分
競争の愛好、運の追求、遊戯の喜び、眩暈の魅力は、もちろん遊びの主な原動力ではあるが、それらの作用は、かならず全社会生活に浸透している。遊びは普遍的ではあるが、しかしどこでも同じ遊びが同じだけ流行っているわけではなく、こちらでは野球の方が、あちらではチェスの方が流行っているといったように、それと同じく遊びの諸原理(アゴン、アレア、ミミリク、イリンクス)もまた、遊び以外の領域において、さまざまの社会に不均等に分布しているのではないか、と考えるべきだ。原動力はなるほど普遍的だが、その分配においては際立った差異があり、その結果、諸国民の、制度的とまでは行かずとも、集団的生活においては、いちじるしい差異が生じているのではないか。 (ロジェ・カイヨワ 著『遊びと人間』講談社学術文庫、1990) こんばんは。先日、東京は新宿で開かれていた「井形錬太郎 展」に行ってきました。写真のとおり、お酒をちびちび呑
僕たちは、カニの甲羅を削って呪い師が手術に使うメスをつくる仕事なんて知らないし、レモン農家の木梯子にできた小さな隙間を虫の粉で埋める仕事だって知らない。知らないから最初から仕事選びの選択肢に入らない。ところがスペインを旅行して、たまたま泊まった宿の裏にレモン農家があったとしたら。そのベンチに腰を下ろしているお爺さんに「ちょっと手伝って」と言われたとしたら。仕事が向こうからやってくる瞬間である。こうして僕は、木梯子の隙間を虫の粉で埋める仕事を始めるのだ。 (浅生鴨『選ばない仕事選び』ちくまプリマー新書、2025) こんにちは。前回のブログで、投稿数がちょうど1000になりました。教員採用試験を受け直し、3つ目の県、通算5校目に赴任したときに、これまで学級通信に書いてきたことを一度整理してみよう、そんな思いつきで始めた読書&教育ブログ。続けていたら思いがけずの反応があって、それこそ浅生鴨さんい
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