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ブラックフライデー
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なぜ元離宮と呼ばれるのか 明治元(1868)年2月3日、二条城に明治天皇が行幸されて、徳川幕府討伐の詔(みことのり)を発せられました。 薩長を中心とした討幕軍は、ここから江戸に進発します。 そう、遡ること260年前に、徳川家康が京での幕府の拠点として造築した、その在処からです。 徳川家は逆賊の恥辱を受け、江戸城の分身ともいうべき二条城の権威は完全に断たれました。 朝廷に召し上げられた二条城は、その後すぐに太政官代が置かれ、明治17年には宮内省所管となり『二条離宮』と名付けられたのです。 城下町のメインストリート 家康によって建てられた二条城の最初の目的は、典儀の舞台として使用するためのものでした。 ですが息子の第2代将軍・秀忠の時代、元和5(1619)年に、大阪城が修築に入り伏見城が廃されることになると、二条城の政治的役割はいやがうえにも高まります。 たとえば、洛中における二条城全体の配置
建物から飛び出している尾廊 宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。 生み出された自然の光によって、阿弥陀如来坐像はまるで生命が宿っているように見えるのです。 そんな平等院・鳳凰堂は、宇治川の近く、この世のものとは思えない美しい極楽浄土を表現しています。 極楽の世界から舞い降りてきた、仁智があり、生枝を折らない鳳凰という霊鳥の姿に見立てられた鳳凰堂。 尾羽根のような尾廊が建物から飛び出しているさまは、今にも飛び上がらんとする躍動感に満ちています。 龍神に守られた鳳凰堂 永承7(1052)年、関白・藤原頼道によって平等院は創建されました。 それは金堂・五重塔・三重塔・釣殿・宝蔵・鳳凰堂などが立ち並ぶ巨大伽藍で形成されています。 古来から平等院のあ
豊臣恩顧たちの選択 元和元(1615)年5月7日、難攻不落と称された豊臣・大坂城は、徳川軍からの猛攻撃を受けて、ついに落城しました。 翌8日、人質として豊臣秀頼に嫁いでいた家康の孫娘・千姫からの助命嘆願も受け入れられず、ついに、秀頼、淀殿ともに自害し帰らぬ人となったのです。 千姫の救出を見届けた家康が二条城に凱旋したので、あいついで、諸将たちも入京することになります。 二条城内はすぐに、戦勝祝いに訪れた公武関係の要人たちで溢れかえっために、家康は秀忠と協議して対応にあたりました。 そして、豊臣恩顧といわれた諸将たちは、この後、あっさりと徳川家に従順していきます。 この先の家族たちの将来も考えていたのでしょう、もちろん武士としても、それなりに様々な決意があったはずです。 秀吉の本妻であった北政所、つまり高台院が徳川側についたのも、彼らの気休めにも口実にもなったのかも知れません。 ただ、諸将た
鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家の寄進によって建立された建仁寺。 武家の強力なバックアップを受けて、14世紀には、京五山第三位の臨済宗・名刹となりました。 現在では、禅寺にしては珍しく格式ばらない寺院として、境内のある祇園・花街の人々にも親しまれています。 謎多き天才絵師 そして、誰もが知っている有名な国宝の屏風がここに伝わります。 俵屋宗達 筆・『風神雷神図』2曲1双。これは、風神と雷神が躍動する、彼の最高傑作といわれている屏風画です。 17世紀前半の寛永年間の制作であり、宗達の真筆であることは確実視されているんですね。 (現在は京都国立博物館に寄託されていて、建仁寺にはキャノン高精細複製品が展示されています) たしかな伝記もなく、生没年さえ不詳の謎であった宗達ですが、今まで知られる確実な情報がいくつかあります。 まず、京の富裕層の町衆であり、俵屋という屋号の大規模な絵屋(工房ギャラリー)の
京都三大観光地 新型コロナの影響で、京都の観光地も本当に人が少なくなりました。 国内からおこしになられる方たちだけでは、この10年くらい続いた混み具合には、たぶん、もうならないでしょう。 インバウンドの人々が訪れることのないこの期間は、いつまで続くのかわかりませんが、あとから振り返れば、希有な事態だったと思い出されるにちがいありません。 もしこの機会に京都観光されるなら、四季を問わずに是非おすすめしたいのは、やっぱり有名な京都三大観光地なんですね。 「行ったことあるよ」という人もたくさんいらっしゃるかもしれません。でも、そのときは、かなり混んでいたのではないでしょうか。 あえて、この状況だからこそ、おすすめしたいのです。ただ、今すぐというわけでもなく、細心の注意を払いつつ、事態がもっと落ち着いてからでも全然大丈夫なんですね。外国から来訪されるのは、もっと、もっと先になるはずですから。 抹茶
成田不動で有名な「成田山新勝寺」、初詣の人々で賑わう「川崎大師平間寺」、日帰り登山の聖地、高尾山「薬王院」。 いずれも関東屈指の大寺院ですが、この三つの名刹は新義真言宗・智山派に所属し、宗団の東日本における拠点となっています。 そして、それらを束ねるのが京都・東山七条にある智山派総本山・智積院(ちしゃくいん)であり、末寺は全国で3000を数え、約30万人の檀信徒を抱えます。 水の部屋と隠れた紅葉の名所 じつは京都市民でも、その存在を知らない人もけっこういるお寺で、あの成田不動や川崎大師の総元だなんて、ほとんど知られていません。 でも、その大書院から眺める池泉庭園は、軒先に水を引き込む仕様になっていて、それは水の部屋にいるような庭園、そう、まるであの平安時代の寝殿造りといわれる貴族邸宅の庭園にいるような雰囲気なのです。 京都には禅宗の枯山水庭園が多いので、この雰囲気の庭園はなかなか他には見る
東海道中膝栗毛の舞台となった華やかな一面とはうらはらに、三条大橋には数々の悲話が伝わります。 豊臣秀次の妻・側室侍女とその幼児たちが秀吉によって首うちにされたり、橋のすぐ近くの池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃されたりした、やりきれない痛ましさを感じる場所でもあったのです。 300年の間 変わらぬ石柱 京都三大橋と呼ばれる鴨川に架かる橋は、三条大橋・四条大橋・五条大橋の三つですが、古くからの鎌倉との往来にあたって、三条通りに架かる橋は京都側の中枢的な出入口でした。 初めて本格的な三条大橋を架けたのは豊臣秀吉で、それまでは洪水が起こるたびに簡単に流されていたのです。 天正18(1590)年、秀吉から工事奉行に任命された増田長盛が、川床に石柱63本を立て、全長100メートル、幅7メートルの強固な大橋を完成させます。 欄干を豪華な紫銅の擬宝珠(ぎぼし)で飾りつけた、都の玄関口にふさ
研ぎ澄まされた静寂の空間 嵯峨野から金閣寺へと続く、きぬかけの路(みち)。 その霊気がただよう路から視線を上げると、すぐそこに、衣笠山(きぬがさやま)から朱山(しゅざん)が連なっているのが見えます。 この山々のふもと一帯は、平安時代末ごろの天皇陵を中心とした聖なる場所であり、龍安寺七陵と呼ばれています。 そう、朱山の南麓を背にして建つ龍安寺(りょうあんじ)は、平安時代、円融天皇の御願寺であった円融寺、その旧跡を寺域とするのです。 宝徳2(1450)年、室町幕府管領・細川勝元によって、龍安寺は建立されました。 当時、藤原北家をルーツとする名家・徳大寺家の山荘となっていたこの場所を勝元が譲り受けたのです。 龍安寺には格調ある七堂伽藍が整えられ、修業の僧にとどまらず多くの人々が帰依し集まり、龍安寺の本山である妙心寺の復興にも繋がりました。 さらに、長禄3(1459)年、妙心寺開山・関山慧玄の百年
激動の50年 永禄11(1568)年に織田信長が入京してから、元和元(1615)年の豊臣家滅亡までの僅か50年に満たない日月。 この短いながらも激動の時代は、近世封建制度の成立と、京都の新たな都市計画の始まりでした。 中世の終わりから仏教は貴族から庶民のものへと脱皮していき、旧仏教系の寺院も新仏教系の寺も、新しい時代への対応を模索しながら堂宇の復興に努めることになります。 京都の仏教界は豊臣政権の成立とともに、信長時代から一転した親和的な復興援助を与えられていました。 ただ、それには寺領検地という代償も伴なっていたのです。 寺領検地は、信長の時代から洛中の寺院に対して出されていた令でしたが、秀吉政権によって本格化されました。 洛中のすべての土地の所有権は、原則的にはもともと皇室・公卿などにあります。 これが、何世紀にもわたる長い歳月のなか、この所有主から直接または間接的に、寄進・買い入れ・
激戦地 伏見城 慶長5(1600)年、関ケ原の戦いに突入するころ、京都・木幡山にある伏見城は、前哨戦とされる激戦地になっていました。 徳川家康がその生涯で最も信頼したという老臣・鳥居元忠(もとただ)。 その元忠を総司令として伏見城を占拠する東軍、それに対して、襲撃したのは石田三成に統率された西軍でした。 つまりこの時、伏見城を占拠していたのは家康であり、秀吉の臣下だった三成が攻撃を仕掛ける側だったのです。 今後、守備の要となるであろう伏見城を重要視していた家康は、極めて有能な家臣たちを元忠の補佐として宛てがっていました。 内藤家長と、その息子元長、さらに松平家忠、松平近正といった超一級クラスの武人を選んで防衛にあたらせ、万全の体制でそなえていたのです。 友よ 家康が京を離れる前夜、伏見城で家康と元忠は、二人でしみじみと酒を酌み交わしていました。 この時、元忠は顔では笑いながらも、「本軍に存
東山七条にある名刹・智積院(ちしゃくいん)の講堂が平成4年に再建されたとき、事前に建設予定地の調査が改めて行われたことで、歴史的な遺構が発掘されました。 なんと、智積院の前身寺院として知られる祥雲寺の桃山時代の客殿遺構が見つかったのです。 大書院と名勝庭園の池泉に面した客殿跡は、東西36メートル、南北23メートル。 客殿建築では国内最大級の規模であり、このとき新築された智積院の講堂の地下に現在は保存されています。 悲しみ深く その祥雲寺は豊臣秀吉の発願によって建立されたのですが、秀吉にとって特別な意味を持つ弔いのための寺院でした。 天正17(1589)年、秀吉は53歳にして、ついに待望の長子に恵まれます。 棄丸(すてまる)と名付けられたその子の生母は、本妻の北政所(ねね)ではなく、妾の淀殿(茶々)でした。 やっと恵まれた子宝でしたが、棄丸はわずか3歳で病死してしまい、洛西・妙心寺で遺体は手
「です」と「ます」の2種類しかない ブログを書くとき、文体を統一させるために丁寧形で書くのか、普通形で書くのかを私たちは選択しなければなりません。 いわゆるデス・マス調か、タメ語調か、どちらで書くのかといった違いといってもいいでしょう。 小・中・高の授業では、丁寧形と普通形の交ぜ書きをすることなく文体は統一しなさいと教えられましたし、交ぜ書きされた文章を実際に読んでみると、やはり強く違和感を感じます。 文の締めくくりはもっとも強く意識される部分なので、読み手は敏感に反応することになるんです。 そして、丁寧形(デス・マス調)で書くことを、いざ選んでしまうと、普通形で書くよりも文末がおそろしく単調になることに気づかされてしまうことになります。 なにしろ基本的に丁寧形には「です」と「ます」の2種類しかないんですから。 テンスの表現をときおり交ぜてみせて「でしょう」「でした」「ました」と書いてみた
750年前から守られてきたお堂 長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。 後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。 そして、これを全力でサポートしたのが平家総帥・平清盛です。 1001体という黄金の観音の恵みを与えられることで、人々が救われる浄土を、後白河院と清盛はこの世に作ろうとしたのです。 千手観音の正式な名称は十一面千手千眼観世音菩薩といいます。つまり、千の眼をもって、世の人の苦難を見、千の手をもって、世の人の苦難を救う仏です。 人々が救いからもれてはいけないので、なるべく多くの手、すなわち千の手を持っているのです。 観音は33の姿に変身して現れ人々を救います。そのゆかりからお堂の内陣の柱の間数が33あり、三十三間堂と呼ばれるようになりました。 内部は極彩色の文様
乾いた静かな夜空に、炎がゆらめく五山送り火は、夏の京都の風物詩。 大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形と次々に浮かび上がり、儚く消えていきます。 毎年8月16日に、お盆に帰ってきた先祖の霊を壮大な送り火で見送るこの風習は、洛中に脈々と伝承されてきました。 ですが昨年に続き、今年もコロナの影響により規模が縮小され開催されます。 コロナ前とは違って少しの点火ではありますが、夜空を照らす炎がご先祖を西方浄土へとお送りするのでしょう。 アカマツの割り木 通常開催だと20時に、銀閣寺裏の東山にある大文字山から点火が始まり、反時計回りで北山から西山へと五つの山に5分おきに点火されます。 ひとつの山に火がともっているのは15分程度なので、車を走らせ追いかけても全てを見ることは出来ません(笑) どこか一ヶ所に見学場所を決めて、赤々と燃え盛る炎を見送りながら、静かに思いをはせたいものですね。 点火に使用され
松永久秀「所司代」 天文18(1549)年、阿波国の戦国大名・三好 長慶(みよし ながよし)は、将軍・足利義晴を京都より追放しました。 実質的に洛中の支配権を握っていた長慶でしたが、初期の頃の権限内容については史料がほとんど残っていないため、よくわかりません。 ただ、家臣である松永久秀を「所司代」に任命したことから、洛中の治安権が中心であったのではと推測されています。 天文22年ころから永禄3(1560)年にかけて、その支配力は揺るぎないものへと強化されていき、その永禄3年には、長慶一族と松永久秀に対する朝廷からの贈位任官が急速に進められました。 ですが、この頃、三好長慶は京ではなく摂津・芥川城に住居し、必要に応じて入洛していました。 京都支配の実権をにぎりながらも、完全な意味での政権の支配者には、なり切っていなかったのです。 長慶が選んだ場所 長慶には強い軍事力の基盤がありました。それは
文章を読ませる推進力 たとえば、ブログなどに記事を書くとします。どうせ書くのなら、その時に、どうすれば、読者をその記事に没頭させることが出来るか。どう書けば、読者を、読んでいるうちにその文章に引きずり込ませてしまうことが出来るようになるのでしょうか。 日本語学者の石黒圭氏は、それは、「情報の空白」を自在に操るように文章を展開させることで可能になるのだと論理提示されています。 まず、世に出ている文章というのは大きく分けてふたつに分かれます。 ひとつは、新聞記事や小説などに用いられている描写文と呼ばれるもので、これは「時間」を推進力として、ある「場面」のなかで起こる一連の動きが描写されていきます。 「それで?」「それから?」といった問で後続文脈に来る内容を探りつつ読み手は文章を理解していくんですね。 そしてもうひとつが、「場面」という制約がなく、時間軸が存在しないエッセイや論説文の場合で、今回
歓喜に沸く豊国大明神臨時祭 慶長3(1598)年、豊臣秀吉は伏見城で他界し、方広寺大仏殿の背後にそびえる阿弥陀ヶ峰に理葬されています。 翌慶長4年には、「豊国大明神」という神号を朝廷から与えられ、正式に神格として祀られました。 これが「豊国神社」の創建であり、生前の秀吉の「自ら神になりたい」という神格化の願いは、東山・阿弥陀ヶ峰の地で叶えられたのです。 その後、慶長9年8月の秀吉の七回忌にあたって、豊国神社を中心にして豊国大明神臨時祭が盛大に行われました。 溢れるほど人々がくり出している風流踊りの様子が、岩佐又兵衛の豊国祭図屏風に描かれ遺されています。 まさに、関ケ原の戦後の解放感からみちびかれた平和への歓喜が、京中に沸きかえるありさまなのです。 ただ、このとき民衆たちは大いに盛り上がっていたのですが、豊臣家の人々は、徳川から執拗に嫌がらせを受ける辛い日々をおくっていたのでした。 徳川から
突然の出来事 長享3(1489)年、室町幕府第9代将軍・義尚(よしひさ)は、弱冠25歳の身でありながら、近江の陣中で戦死しました。 この予期せぬ事態により、足利将軍の座が空白になったので、隠居の身でありながらも大殿の立場にあった義尚の父・義政は、急遽、美濃国にいた弟の義視(よしみ)を京に呼び戻します。 応仁の乱で西軍の大将格だった義視は、敗戦の責任を取らされ追いつめられて、美濃の斯波氏に保護される形で亡命していたんですね。 負け組となってしまった彼は、もう京の町に戻れることはないだろうと覚悟していたのですが、義尚の突然の死という事態に奇跡的な復活を遂げることになるのです。 ただ復活といっても、義視自身が将軍になれるわけではありませんでした。 義視にとって戦死した義尚は甥にあたるので、甥の後継ぎとして叔父が将軍になることになり、それを受け入れることを幕府は出来なかったからです。 こういった前
信長が築造した二条城 二条城といえば、徳川家康によって築造された現在も遺る「京之城」をいいますが、京都にはもうひとつの「二条城」がそれよりずっと以前から存在していました。 それは、足利幕府最後の将軍・足利義昭のために織田信長が築造したかなり大規模な城郭です。 永禄12(1569)年、内裏(御所)のすぐとなりにあった兄・義輝の邸宅あとに、義昭の住居として信長が再建工事を始めたのです。 現在の丸太町烏丸の北西一角の場所なのに、なぜ二条城と呼ばれていたのかというと、おそらく、平安京の二条坊あたりの場所だったからなのでしょう。 百数十体の石仏や、年号が刻まれている板碑・五輪塔、瓦、緑釉など、この場所でかなりの遺跡が発掘されていて、もうひとつの二条城の正確な位置を知るうえで、大変貴重な手がかりとなりました。 京童たちの不安 永禄11(1568)年、これまで尾張の一戦国大名にすぎなかった織田信長は、6
千利休自刃の原因とされている山門事件、それは大徳寺で起こりました。 山門事件とは、利休をモデルにした木像が大徳寺の山門上に安置されたことで、豊臣秀吉の怒りをかってしまった事件のことです。 ですが、さまざまな歴史検証が行われてくると、どうやら、この事件は捏造されたのではないか、こじつけられたのではないか、という説が有力になってきたんですね。 自由都市 堺 戦国時代、利休の出身地である堺という都市は、鉄砲製造と海外貿易の拠点として、どの大名にも属さない自由都市でした。 中国、フィリピン、ジャワ、スマトラと交易が盛んで、時代の最先端の技術と情報があふれる当時の日本で最も魅力的な街だったんですね。 その堺で製造販売される鉄砲という最新兵器は、この頃、凄まじい需要がありました。 なにしろ世は戦国時代なのです。下剋上が嵐のように吹き荒れているのですから、大名たちが自衛のために血眼になって入手しようとす
ただひとつだけ遺された将軍の住居 戦国時代以降、城郭造営はいちじるしく発展をとげました。 鉄砲の伝来によって戦争の在り方が大きく変わったこともあり、天下統一を目論む武将たちが、攻防戦によるその効用を重視したからです。 そして、安土桃山時代から、信長、秀吉、家康といった天下の覇者たちによる威風堂々たる居城の造築がはじまりました。 天守閣を中心としたその外観は華麗で壮大に主張され、内部は豪華な座敷飾りや金箔押しの濃彩画で飾られたのです。 信長の安土城に始まり、秀吉の大坂城や伏見城、そして家康の江戸城に名古屋城、これらすべての初期建築は喪失しました。 ですが、慶長8(1603)年、徳川家の京都屋敷として創建された二条城・二の丸御殿だけは、ほぼ完好の形のまま保存されています。 正確に言うと、寛永3(1626)年の後水尾天皇の行幸(来訪)に先だって、一度、二条城は大改修が行われたので、そのときにリニ
臨済宗を中心とした禅宗は、宋・元の美術や喫茶などの最新の中国文化と共に、鎌倉時代から南北朝時代にかけて日本へ伝わりました。 そこから江戸時代まで、禅院で花開いた禅宗美術は、いまも名刹の特別公開などで展示され、訪れる人々を魅了してやみません。 https://photo53.com/ 雪舟に大きな影響を与えた明兆 禅宗美術の代表的な作家として、まず最初に南宋の末期から元の初期にかけて活躍したのが牧谿(もっけい)でした。 長谷川等伯・伊藤若冲などの日本の画家たちや、日本の水墨画というものに甚大な影響を与えた牧谿は、近代以前の日本で最も敬愛された水墨画家です。 また、相国寺で修業したという禅僧画家である雪舟は、『天橋立図』をはじめ6点の作品が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高評価を受けています。 東福寺の塔頭寺院・芬陀院(ふんだいん)には、彼が作庭したと伝わる枯山水庭園が遺されて
征夷大将軍・坂上田村麻呂 清水寺が国から公認されたのは、805年のことです。 できたばかりの平安京では、寺院の新設・奈良からの移転は禁じられていましたので、国家公認の東寺・西寺以外の寺院は存在していませんでした。 清水寺だけが例外的に、特別に認められたのですが、それは、王城の守護神と呼ばれた征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が建立したものだったからです。 多賀城(宮城県多賀城市)までしか及んでいなかった国家の支配を、志波城(岩手県盛岡市)にまで北上に拡大させるなど、武人として律令国家の支配地を大きく広げた田村麻呂は、軍事的貢献が大きく民からも英雄視されていました。 ですが、この時、敵方にあった蝦夷(えみし)とよばれた東北地方の民族は、律令国家に服従しない集団・社会というだけで、単に政治的・軍事的に支配下に入っていなかっただけです。 国家は、蝦夷を夷狄(いてき)とみなしていた
舟を浮かべて盛大な宴 金閣といえば派手で強烈な光を放っているイメージがありますが、実際に境内へ足を踏み入れて眺めてみると、優しく気品ある光に包まれています。 また、季節や天候によって様々な美しい姿を魅せてくれるのですが、晴れた日よりも少し曇っている日のほうが、手に取れるように水面に映し出されているのがよくわかります。 手前の鏡湖池に写しだされたゆらゆら揺れる姿は、何か夢の世界を訪れたような幻想を抱かせてくれるのです。 金閣を築いた足利義満は、この鏡湖池に舟を浮かべ、その上で盛大な宴を催していたんですね。 日本国王が築き上げた金殿玉楼が建ち並ぶ場所 足利義満の時代、足利幕府はその全盛期を迎えていました。 義満が「日本国王」を自称しながら、晩年には、みずからを法皇に見立てる行動をとっていたことは有名な話です。 足利将軍が京都に腰を落ち着けて治世を行えるようになったのも、やはり三代将軍の彼の時代
政教分離 794年に、国家権力の中枢として人為的につくり出された平安京。それは、政治的な意味を強く帯びた新政都市でした。 このとき同じタイミングで平安京に創建された東寺・西寺も、国家鎮護の目的だけで建てられたわけではなく、唯一この国で、公式に創り出され、認可されていた寺院だったのです。 それまでの奈良・平城京の社会では、多くの政治的矛盾をはらみ、政争と内乱を繰り返していたので、大仏開眼など仏教的霊験に頼らざるを得ない状況下に陥っていました。 そのために、玄昉・道鏡といった僧侶による政治的介入を許してしまうことになり、皇室の継承問題にまで関与させてしまうことになってしまうのです。 再び同じ過ちを繰り返さぬように、遷都を機に、桓武天皇は仏教界の政治的進出を許さず、徹底的に排除する方策を取っているんですね。 788年に根本中堂がすでに建てられていた比叡山・延暦寺ですらも、延暦の寺号を許されたのは
御池と御室 代々天皇の皇子および皇孫が門跡という住職を務められた世界文化遺産・仁和寺。 神泉苑のある場所が御池と呼ばれるように、この古刹がある地域も御室と呼ばれてきたのです。 寺であると同時に、宮殿であるという性格を持つこの門跡は、全国の寺社を統率する総法務という職を任ぜられていました。 それは、当時の宗教界を支配していただけではなく、政治の世界にも強い影響力を持っていたことを意味します。 門前で咲いた文化の花 後水尾天皇の兄宮にあたる仁和寺二十一世門跡・覚深法親王は、徳川三代将軍・家光に直訴して現在の伽藍を再建させました。 覚深法親王は、まさに仁和寺の中興の祖といえる存在であり、江戸初期における京都文化の興隆に尽力したのです。 そして、この復興のときに仁和寺は、京焼とよばれる新たな文化の花を咲かせます。 京都で焼き物を焼く風習は以前にはなく、陶器の産地は備前・瀬戸・信楽・美濃などに限られ
京都に出現した近世的覇者 王城を抱く京都が堅持した古くからくる伝統や、そこに住む人々の生活から育った風習。 新しい街の支配者である織田信長は、これらを一切認めませんでした。 永禄11(1568)年、中世末のカオスの世界から生まれた近世的覇者は、京都に出現したのです。 当時の日本人としては珍しい存在なのですが、信長は来世の存在を信じていませんでした。 来世の概念を否定し罪の意識も持たない信長は、仏教からもキリスト教からも無縁な存在であり、無縁な人生を選んでいたのです。 それは同時に、偶像すなわち仏像や神像を大切にする社寺の存在価値が、否定し去られたことになります。 朝廷や公家、古くからの大社・名刹、都に根強く教線を伸ばした新仏教、町衆など、独特の宗教的雰囲気になじんできた当時の京都の人々にとって、おそらく、信長は歓迎すべき相手ではなかったのでしょう。 そして、信長のこの宗教観によって、やがて
神仏分離令からまだ150年 神と仏は同じであると考える神仏習合。それは、今日ではあまり理解されていません。 ですが、明治維新で神仏分離令が出されるまで、奈良時代から江戸時代まで1200年の間、ごく自然に日本人に受け入れられていたのです。 日本人が大切にした神々の姿を拝借した外来宗教の仏教は、日本で半ば当然のように浸透しました。 一方で、神道もまた仏教と一体化することで発展を遂げてきた部分もあるのでしょう。 じつは神社の社殿が建てられるようになったのは、日本に仏教が伝わってからではないのか、という説があります。 それまでは、巨木や奇岩、山そのものなどを、神が宿る聖なる場所として祀る宗教的儀式が行われていたのです。 これに対して仏教は、仏像があり、それを安置する建物があり、さらに経典も用意されています。 崇拝の対象をはっきりと目にとらえられることの出来る形を持った宗教なのです。 そんな仏教の形
唯一 遺された二の丸御殿 権力の転換、その確認を明示するかのように、都に、突如出現した葵の城、二条城。 慶長8(1603)年、すでに解体されていた豊臣秀吉の聚楽第に対抗するかのように建てられたこの城は、まさに、京都における徳川家の拠点のひとつでした。 拠点のひとつといっても、知恩院、南禅寺など、徳川家カラ―を残している寺院などとは規模が異なり、やはり、ここ二条城には特別な存在意義が感じられます。 桃山時代には城郭造営が発展をとげ、時代の記念というべき天守閣を中心に、本丸御殿をはじめ多数の殿館が建ち並びました。 ですが、安土城、伏見城、大坂城など天下の覇者たちが創り上げたその名城たちは、二条城を除いてすべて現存していません。 そう、二条城の二の丸御殿だけが、寛永期からの「御殿」という形式をそのままに見ることの出来る日本で唯一の殿館なのです。 その御殿の特徴とされる「書院造」は、室町時代の中期
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