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ポール・ゴーギャン(ポール・ゴーガン) Paul Gauguin 1848-1903 | フランス | 後期印象派・象徴主義 後期印象派を代表する画家。印象主義の筆触分割に異議を唱え、それへの反発としてポール・ゴーギャンとエミール・ベルナールが提唱し、生み出された描写理論≪クロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写)≫と、表現≪総合主義(別称:サンテティスム。クロワゾニスムを用いながらイメージを象徴として捉え、絵画上での平面的な単純化を目指す表現主義)≫によって表現としての新たな様式を確立。象徴主義における最も重要な流派(総合主義は広義においては象徴主義)であるほか、ナビ派にも多大な影響を与えた。また後年タヒチでの絵画制作など、プリミティヴィズム(原始主義)の先駆的な活動をおこなう。1848年、熱烈な共和主義者のジャーナリスト
17世紀フランス古典主義の最大の巨匠。多人数による画面の構想理論「群像構成理論」に基づいた非常に安定的な古典的構図に画家独自の世界を築き、堅牢で実直な空間表現、的確かつ演劇的な感情・心理描写、ヘレニズム彫刻など古典彫刻に倣う人体描写など、所謂≪フランス古典主義≫の基礎・基盤を完成させ、後世の画家らに多大な影響を与える。また画面内に配される堅実性を感じさせる建築物の優れた描写も特筆に値する。宗教画や神話画、歴史画、風景画が主要であるが、自画像、寓意画、文学を主題とした作品など様々なジャンルを手がけている。1594年にレ・ザンドリーに生まれ、当初はパリでフォンテーヌブロー派に絵画を学ぶも、1624年にイタリアのヴェネツィアやローマへ赴く。ヴェネツィアでは明瞭な色彩や官能性豊かな表現手法を、ローマではバルベリーニ枢機卿やカッシアーノ・ダル・ポッツォらの庇護を受けながら当時流行していた絵画様式のほ
江戸時代後期を代表する江戸琳派の創始的絵師。伝統的な大和絵を祖とする雅で装飾性豊かな琳派的表現と、江戸文化独特の叙情性や粋を凝らした瀟洒な美意識、文学趣味などを融合させた独自の様式、所謂≪江戸琳派≫を確立。現在では俵屋宗達、尾形光琳に続く琳派の代表的な絵師として広く認知されている。また酒井抱一は後年、≪光琳百回忌≫を営むほど尾形光琳へ強く傾倒し、自身の作品にもそれらが如実に表れているが、抱一自身は狩野派や南蘋派、円山四条派、土佐派など様々な流派を研究している。名門武家である姫路城主酒井家の次男として1761年(宝暦11)に生まれ、多趣味であった大名茶人の兄・酒井忠以の影響で俳諧や能楽、書画、茶、狂歌、浮世絵など様々な文化に親しみながら(兄の庇護もあり)20代まで奔放な生活を送り文化人としての素養を身に着ける(抱一は生涯で太田南畝・谷文晁・亀田鵬斎・市川団十郎など多くの文化人とも交友を重ねて
19世紀フランス絵画界の偉大なる巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの代表作『泉』。画家のみならず新古典主義における裸婦の傑作としても名高い本作は、アングルがローマ賞受賞後、20年近く滞在したイタリアのフィレンツェで、おそらくは1820年頃から制作が開始された、≪泉≫の擬人像としての裸婦作品である(※≪泉≫の擬人化の典拠として14世紀の彫刻家ジャン・グージョンによる『イノサン噴水の浮き彫り彫刻』などが挙げられている)。画面中央に配される泉の擬人像は正面を向きつつ首を右側に傾げ、下がった左肩に水が流れ出る水瓶を乗せながら全身をS字にしてバランスをとってる。この体の重心を片方(本作では左足)にのせ、もう片方(本作では右足)を遊脚にすることで全身をS字形に流曲させる姿態≪コントラポスト≫は、古代ギリシャの彫刻家が祖とされ、ルネサンス期の巨匠ミケランジェロも傑作『ダヴィデ像(ダビデ像)』で
愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー) (Allegoria di Amore) 1540-1545年頃 146×116cm | 油彩・板 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー 描かれる寓意の解釈が極めて難解で、これまで幾度も論争が繰り返される、マニエリスム期を代表する画家ブロンズィーノ随一の代表作『愛の勝利の寓意(愛のアレゴリー)』。ヴィーナスの勝利(Trionfo Venere)とも呼ばれる本作の主題は、愛と美の女神≪ヴィーナス≫であるが、複雑に配される人物の解釈によってその内容が異なるミステリアスな作品である。しかしブロンズィーノ独特の冷艶でありながら、不安定な登場人物の官能性が見事に表現されており、数多くの者を魅了してきた。画面中央には美と愛の女神である天上のヴィーナスと、その息子で愛の神エロス(キューピッド)の全身像が描かれている。この口づけを交わすヴィーナスとキューピッドが見せる冷艶
1857年 (Great Bridge, Sudden Shower at Atake) 39cm×26cm | 大判錦絵・木版画 | 所蔵先多数 稀代の浮世絵師、歌川広重晩年期の傑作『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』。本作は広重が最晩年に手がけた故郷江戸の名所を百図以上版画に起こした絵師自身最大規模の揃物の中の1点で、日本橋から深川を結ぶために隅田川(大川)へかけられた≪新大橋(※当時、この近辺は安宅(あたけ)と呼称されていた)≫で降る夕立の情景を描いた作品である。画面中央やや下部へは右上がり的に木製の大橋が配されており、その上を数人の町人たちが突然の夕立に急ぎ足で歩みを進めている。画面上部にはこの夕立を降らせる黒々とした雨雲が描かれ、また画面下部では深度を感じさせる藍色によって隅田川が表現されている。そして中景としては隅田川を進む船漕師の姿が、遠景として対岸の風景が傾いた水平線によっ
フランス象徴主義を代表する画家。無意識下の世界を描写しかのような幻想性と夢想性に溢れた独自の世界観による絵画を制作。幻惑的かつ神秘的な絵画表現は同時代の絵画作品とは一線を画し、その強烈な個性は当時の象徴主義の文学者・批評家から一目を置かれていた。画業の初期にはロマン主義的な油彩画のほか、画家自身が≪モノクロームのパステル≫と呼称した木炭とリトグラフによる黒の表現を追及し、眼球、首、怪物など奇怪な作品を手がけるも、1890年頃から突如、明瞭で豊潤かつ個性的な色彩表現を開花させ、神話画、宗教画、静物画などを穏健な世界によって描いた。また画家の手がける神話画、宗教画は極端に物語性が希薄なことも大きな特徴のひとつであるほか、数多くの石版画集を制作している。1840年、アメリカから帰国したばかりの裕福な一家の息子としてボルドーで生まれるものの、生後2ヶ月でボルドー近郊のペイルルバードにあるルドン家が
(La promenade, La femme à l'ombrelle) 1875年 100×81cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー 印象派の巨匠クロード・モネの最も世に知られる代表作のひとつ『散歩、日傘をさす女性』。1876年に開催された第二回印象派展に出典されたこの類稀な傑作に描かれるのは、クロード・モネが1860年代から70年代にかけてしばしば取り組んだ、戸外での人物像をモティーフとした作品で、画家が当時滞在していたパリ北西ヴァル=ドワーズ県の街アルジャントゥイユの草原に立ち日傘をさす女性は、当時の妻であるカミーユ・ドンシュー(カミーユは1879年に死去し、モネはその後1892年に再婚する)を、傍らに添う幼児は長男ジャン(当時5歳)をモデルに制作されている。観る者がこの二人(妻カミーユと息子ジャン)を見上げるような視点で描かれる本作で最も印象的なのは、逆光
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック Henri de Toulouse-Lautrec 1864-1901 | フランス | 世紀末芸術 19世紀末のフランスを代表する画家。迅速かつ的確に対象の形態を捉える才能や、人物の内面や社会的内情を見出す観察力に秀で、それを活かして世紀末独特の厭世的・退廃的空気に覆われたモンマルトルなどパリの歓楽街で生活する人々を、独特な現代的感覚によって表現。サーカスやムーラン・ルージュなどのダンスホール、カフェ、ダンサーなどの芸人、娼婦らを描いた風俗画作品が有名であるが、肖像画や裸婦作品でも画家の優れた個性が如何なく発揮されている。また多色刷り石版画制作の技術の進歩により、大量生産が可能となったポスターの原画を数多く手がけ、このような大衆的・実用性の高い作品の芸術性の発展・社会的地位の向上に多大な貢献をした。当時、最も新しい絵画様式であった印象派の画家、特に
18世紀イタリアを代表する稀代の景観画家(風景画家)。再現性の高い圧倒的な写実性と輝きを帯びた繊細な色彩、絶妙に対比された明暗と光の描写、そして大気性を存分に感じさせる雄大で開放的な景観表現とそれを支える幾何学的な遠近法で当代随一(最高)の景観画家として君臨。傑出した出来栄えを示す景観図(ヴェドゥータ)作品と画家の名声はイタリアのみならず、英国を始めとした諸外国まで轟いていた。故郷ヴェネツィアやローマ、後年に滞在した英国の景観を描いた作品が良く知られているが、奇想画(カプリッチョ)と呼ばれる空想(想像)上で構成された都市景観図作品でも優れた作品を残している。本名はジョヴァンニ・アントニオ・カナル。1697年、劇場の舞台背景画家であった父ベルナルドの息子として生を受け、父の手伝いをおこないながら絵画を学び始める。1715年にローマへ移住し、同地で装飾画家として働きながらパンニーニ、ウィッテル
(Saturno devorando a su hijo) 1820-23年頃 146×83cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド) 近代絵画の父との異名を持つロココ・ロマン主義時代の画家フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた、西洋絵画史上、最も戦慄を感じさせる問題作『我が子を喰らうサトゥルヌス(黒い絵)』。画家が1819年の2月にマドリッド郊外マンサナレス河畔に購入した別荘≪聾の家(聾者の家)≫の壁画のひとつとして別荘一階食堂の扉の右側に描かれた本作の主題は、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの間に生まれた6番目(末弟)の巨人族で、ローマ神話における農耕神のほか、土星の惑星神や時の翁(時の擬人像)としても知られるサトゥルヌスが、我が子のひとりによって王座から追放されるとの予言を受け、次々と生まれてくる息子たちを喰らう逸話≪我が子を喰らうサトゥルヌス≫の場面である。本作はバロック時代を
ベリー公のいとも豪華なる時祷書(暦頁部分) (Très Riches Heures) 1413年頃-1416年 29×21cm | 羊皮紙 | シャンティイ・コンデ美術館 世界で最も美しい本と称されるランブール兄弟による時祷書『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』。芸術の庇護者であった裕福な権力者ベリー公ジャンの注文により制作された≪時祷書(キリスト教徒が時課の祈りを捧げるために用いた祈祷文、賛歌、月暦図などを伴う祈祷書)≫で、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』と呼ばれる本作は、季節の労働や貴族の諸生活を写本挿絵(ミニアチュール)として描いた≪暦頁(第2-14葉)≫、主に新約聖書の各場面を描いた≪聖母の小聖務日課(第25-63葉)≫、≪悔悛詩篇・連祷(第64-75葉)≫、≪死者の聖務日課(第82-108葉)≫、≪ローマ地図(第141葉裏)≫、≪受難の聖務日課(第142-153葉)≫から構成され
【日本画 -Japanese Art-】 日本の伝統的な技法・様式に従って描かれた毛筆画。明治時代以降の西洋画とは一線を画し、岩絵の具などを用い、絹・和紙に描く。日本の絵画史は6世紀頃から始まり、当初は中国の仏画や水墨画など唐画に倣っていたものの、次第に大和絵として独自の様式を確立。様々な流派が誕生し、独自の水墨表現、豪奢な金箔・金泥の使用、陰影の無い平面的表現、奇抜的な構図、明確な輪郭線、簡素な図案化など表現手法も多様化した。特に江戸時代に生まれた浮世絵や琳派などの作品はジャポニズムとして19世紀欧州を席巻し、印象派など同時代の画家たちに多大な影響を与えた。 ■代表画家:雪舟、長谷川等伯、狩野探幽、葛飾北斎、尾形光琳、俵屋宗達、黒田清輝、岸田劉生等
【バロック美術 -The Baroque-】 16世紀末から18世紀にかけ欧州全域に見られた様式。バロックは「ゆがんだ真珠」を意味し、ルネサンスの調和と清謐が重んじられた様式と対比を成す。宗教画はもちろん、世俗的な風俗画や風景画など各国で様々な発展を遂げるが、どの国にも極端な明暗の対比(コントラスト)や劇的な感情表現、激しい運動性などの特徴が見られる。 ■代表画家:カラヴァッジョ、カラッチ、ベラスケス、ルーベンス、レンブラント、フェルメール等
homeページ ≫ Collection ≫ 常設展示 ≫ ルネサンス芸術 ≫ ピーテル・ブリューゲル (Pieter Brueghel the Elder) 2006/08/21掲載 1. クッションの上で悪魔を縛る女(男勝りの強い女) 2. 柱を噛む男(偏執狂的な信仰をもつ人間。偽善者) 3. 片手に水、片手に火(二重人格) 4. 産卵前の卵塊のために鰊を焼く(報いなき労苦) 5. 椅子の間の灰に座る(好機を逸する。全てを失う) 6. 鍋の中に犬(食物が無い) 7. 豚が樽栓を咥え逃げる(監督不行届で破産) 8. 壁に頭をぶつける(不可能の遂行。無理は無理) 9. 一人は羊の、一人は豚の毛を刈る(同行為でも片方は有益、片方は無益) 10. 猫の首に鈴(危険な計画) 11. 歯にも武装(完全武装) 12. 鋏の掛かる店(不当に大きな利益を得る) 13. 一本の骨をかじる(いつまでも同じ事
17世紀スペインバロック期に最も活躍した宮廷画家。セビーリャでパチェーコに師事した後、1623年国王フェリペ4世付の画家となり、以後生涯の大半を宮廷画家として首都マドリッドで過ごす。1628年から続いたルーベンスとの交流や、1629~1631年、1649~1650年と2度に渡ったイタリア旅行は画家の作品形成に大きく影響し、それまでの無骨な写実描写と厳しい明暗対比から古典主義と空間表現を取り入れ、 視覚効果を重要視したスペイン絵画独自の写実主義的陰影法を発展させた。またベラスケスは、『ラス・メニーナス(女官たち)』に代表されるよう、国王一家を始め、多くの宮廷人、知識人を描いた肖像画家としても有名。没後、一時期、その評価は落ちていたが、19世紀の写実主義の台頭により再評価されるようになる。確実に帰属が判明している作品数は約120点、素描が数点残されているのみ。 17世紀スペイン絵画最大の巨匠デ
イタリア(ヴェネツィア・ローマ等)やスペインで活躍したマニエリスム最後にして最大の画家。出生はギリシャ クレタ島。そこでビザンティン様式を取得した後、イタリアに渡り約10年間、ティツィアーノなどのヴェネツィア派の色彩やミケランジェロの量体表現、パルミジャニーノなどマニエリスムの先駆者の作品から、引き伸ばされた人体比率を学ぶ。イタリア滞在時は報酬などでの金銭トラブルが絶えず、生活ができないほど貧しい暮らしを強いられた。1576年頃スペインへ渡り宮廷画家を志すが、エル・グレコ自身の独自性となり始めていた奇抜な構図と非現実的な色彩が、当時絶対的な権力者であったフェリペ二世の不興を招いた。その結果、宮廷画家への道は閉ざされるが、宗教関係者や知識人からは圧倒的な支持を得た。以後、逞しい肉体の表現から、人体の長身化が顕著になり、形態は流動性を帯びていった。バロック絵画の台頭により、晩年~死去後は忘れら
(La Maja Vestide) 1798-1803年頃 95×190cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド) 近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた数多くの作品の中でも最も有名な作品のひとつ『着衣のマハ』。本作は画家が≪マハ≫(※マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語)を描いた作品で、『裸のマハ』を制作した翌年以降(1800-1803年頃?)に手がけられたと推測されている。本作と『裸のマハ』は画家の重要なパトロンのひとりで、権力を手にしてから皇太子や民衆を始め様々な方面から非難を浴びせられた宰相ゴドイが所有しており、その為、一般的にはこの2作品は宰相ゴドイが制作を依頼したものだとする説が採用されている。『裸のマハ』と同様の姿勢・構図で描かれる本作であるが、『裸のマハ』との最も顕著な差異は、マハは当時スペイン国内の貴婦人が愛
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ Gian Lorenzo Bernini 1598-1680 | イタリア | バロック ピエトロ・ダ・コルトーナと共に、17世紀のイタリアにおいてバロック様式の発展に決定的な役割を果たした初期バロック美術の彫刻家兼建築家。その活躍は画業にまで及び、そのどれもが規範にとらわれない自由で感覚的な表現をおこなう。高名な彫刻家であり父でもあるピエトロに手ほどきを受けたことで芸術の道に入る。8歳の時にローマに移り、10代の頃には収集家から注文を受けるまでに成長、20代(青年期)には『ダヴィデ』や『プロセルピナの略奪』など数多くの傑作を残す。父ピエトロがそうであるように、ミケランジェロに強く影響を受けたと研究されるが、ベルニーニが手がけた作品にはミケランジェロにはない肉体と精神、運動性と感情の一致が示されており、ルネサンスの巨匠と同様、古典美術を賛美しながらも独自の様
バルトロメ・エステバン・ムリーリョ Bartolome Esteban Murillo 1617-1682 | スペイン | バロック セビーリャ派 17世紀中期~後期にかけて活躍したセビーリャ派の巨匠。19世紀末期にベラスケスが再評価されるまで国内外でスペイン最大の画家として名を馳せていた。テネブリズム(カラヴァッジョに代表される明暗対比による劇的な表現手法)の強い影響を感じさせるセビーリャ派特有の実直な明暗対比の大きい作風に柔らかく繊細で輝きを放つ表現を用いることで、故郷セビーリャを中心に圧倒的な人気を得て、当時セビーリャ派の大家として既に名声を博していたスルバランの地位をも脅かした。その功績はイタリア芸術に押されていたスペインの美術の地位を再度諸外国に知らしめることとなった。また作品の多くは宗教画だが風俗画や肖像画も描き、ムリーリョ帰属だと確認されている作品の総数は約300点。
キリスト降架 (Descent from the Cross) 1611-1614年 421×311cm(中央), 421×153cm(各翼) | 油彩・板 | アントウェルペン大聖堂 キリスト昇架を描き終え取り組んだ、ルーベンス随一の代表作『キリスト降架』。アントウェルペン大聖堂の火縄銃手組合礼拝堂のために発注された本作の注文主は当時市長だったニコラス・ロコックスで、当初は「火縄銃手組合の守護聖人クリストフォロス」を主題に注文をおこなったが、失いかけた教会の権威を取り戻すため、そして何よりアントワープの平和のため、見るだけで感動を伝えられる祭壇画をとルーベンスが注文主を説得し、磔刑に処され絶命したイエスの亡骸を降ろす≪十字架降下≫の主題が描かれた。キリストの亡骸を降ろす人物の力強い肉体表現は『キリスト昇架』同様、ミケランジェロによる古典的表現の影響を感じさせ、この劇的で緊張感溢れる本場面
近代絵画の父と呼ばれ、20世紀絵画の扉を開いた後期印象派を代表する画家。多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作。また「印象派より永続的で堅牢なものを」と、印象派的な過度の分析法に反対の意を表し、造形的な画面の構成に力を注いだ。長く正当な評価を得ることはできなかったものの、自然などのモティーフを前にしたときの感覚を重要視した表現は、数多く生まれた世紀末~20世紀初頭の絵画様式、特にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックによって提唱・創設されたキュビスムの形成に多大な影響を与えた。なお画家の個性的な表現手法は19世紀フランスの画家アドルフ・モンティセリから受けた影響が色濃く反映している。セザンヌは静物画や風景画を好み、これらの画題で幾多の作品を残しているが、
印象派を代表するアメリカ出身の女流画家。近代における日常生活での身近な情景や人物の姿を独自の視点で描く。特に母と子など母子像を描く上での心象(イメージ)に関する革新的表現は、当時から非常に高く評価された。1844年5月23日、ピッツバーグの裕福な銀行家の娘として生を受け、1851年から4年間、一家でフランス(パリ)とドイツ(ハイデルベルクとダルムシュタット)で過ごす。1855年のパリ万国博覧会でアングルやドラクロワの作品に触れるも、同年フィラデルフィアへと帰国。同地で数年間勉学に励んだ後、1861年から65年までフィラデルフィア美術アカデミーで絵画の基礎を学ぶ。1866年からはパリに渡り、短期間ながらシャルル・シャプランのアトリエに入門するほか、ルーヴル美術館などで過去の巨匠らの作品を研究。1868年にはサロンに初入選するも、普仏戦争のため一時的にフィラデルフィアへ帰国(1870年)を余儀
近代絵画の創始者の一人として知られるスペインの巨匠。1780年サン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められ、王室や貴族の肖像画を描く。その写実的な作風が当時飽食気味であったロココ美術に変わるものとして支持を受け、1786年国王付の画家、1786年、新国王になったばかりのカルロス4世の任命から宮廷画家となるが、1790年代に入ると聴覚の喪失、知識人との交流を経て、強い批判精神と観察力を会得。1801年に王室を描いた作品『カルロス4世の家族』を制作。また当時のスペインはフランス軍の侵入もあり、自由革命や独立闘争などの争いが絶えなかったという情勢もあり、その時期には『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』や、住んでいた家の壁に描いた連作『黒い絵』など数々の名作を描いた。1824年フランスに亡命し、ボルドーで死去。享年82歳。 ※2009年1月下旬、それまでゴヤの代表作とされ
フランス象徴主義における先駆的画家。濃厚にも軽快にも感じられる個性的な色彩表現と、女性的と比喩される繊細な線描による華麗で神秘的な独自の様式を確立。手がけた主題(画題)は歴史画や神話画が大半であるが、その解釈は画家独特のものであり、幻想性と宝石細工のような美しさに溢れている。また大作の多くは油彩画であるが、水彩による習作やデッサンなどにも画家の卓越した力量が示されている。1826年、建築家(建築技官)であった父ルイ・モローと音楽家の母ポーリヌ・デムティエの間にパリで生まれ、幼少期からデッサンなどで才能を示す。1839年、パリのコレージュ・ド・ロラン(ロラン中学校)へ寄宿生として入るも年少であった為に馴染めず。翌1840年、妹カミーユが死去、激しい衝撃を受ける。1846年、国立美術学校に入学し、新古典主義の画家フランソワ・ピコの教室で学ぶ。1849年、ローマ賞の獲得を望むが失敗。1850年、
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー Jean-Baptiste-Camille Corot 1796-1875 | フランス | 写実主義・バルビゾン派 19世紀のフランス美術界の中で最も優れた風景画家のひとり。銀灰色を帯びた鈍色に輝く抑制的な色彩・色調を用いて独自の風景様式を確立。繊細な写実性の中に抒情詩的な情緒性を感じさせる風景表現は、当時、絶大な人気を博したほか、ピエール=オーギュスト・ルノワールやカミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾなど印象派の画家たちに多大な影響を与えた。フランス各地を描いた風景画が主な作品であるが、人物画(肖像画)や神話・宗教的主題でも優れた作品を残している。1796年、パリでラシャ商を営む裕福な家庭(典型的なブルジョワ階級層)に生まれ、1815年、父の意思により後継ぎとして織物問屋に見習いとして勤めるが、画家になる夢を諦めることができなかったコローは夜間、アカデ
ベルギー象徴主義において指導者的存在となった同派最大の画家。非現実的で夢想的な世界観や神秘的な場面描写、静寂性と虚無感が混在する独自の絵画表現で自身の様式を確立し、100点あまりの油彩画のほか、パステルや色鉛筆などを用いた作品を数多く残す。またクノップフは写真にも興味を示し、積極的に自身の作品へ(直接的・間接的に)取り入れているほか、挿絵、衣装デザインなども手がけている。クノップフの死、性、眠りなどモチーフを独特の死生観・厭世感によって表現した絵画作品は同国の象徴主義の指針的役割を果すほか、諸外国の芸術家にも影響を与えた。1858年、ベルギーのグレムベルゲン=レ=テルモンドで由緒正しき旧家の長男として生を受け、生後まもなく父の王立裁判所の検事に任命伴い大都市ブルッヘ(ブルージュ)へ移住。幼少期を同地で過ごし、1875年にブリュッセル自由大学法学部へ入学するも中退。大学では後のベルギー象徴主
後期印象派の中でも最も名の知られたオランダ出身の画家。絵の具の質感を顕著に感じさせる力強く荒々しい、やや長めの筆触や、絵の具本来の色を多用した強烈な色彩による対象描写で数多くの作品を制作。特に画家の内面をそのまま反映したかのような迫真性の高い独自の表現は野獣派(フォーヴィスム)やドイツ表現主義など後世の画家に大きな影響を与えた。生前は全く作品が売れなかったものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとして重要視されている。画家の特徴的な作風は印象派の画家たちやアドルフ・モンティセリの影響が大きい。1853年、ベルギー国境近郊のオランダ北ブラバンド地方フロート・ツンデルトで牧師一家の子供として生まれる。1857年、弟テオ誕生。青年期は画廊見習いや炭鉱地帯の伝導師(牧師)、教師としてオランダ、ロンドン、パリなどで就労するも長続きしない。1873年、就労の為に訪れていた
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