今から10年前にラジオ収録のために、イデオロギーと生活感覚の癒合と乖離について平川君と彼の久が原の家でおしゃべりをしたことがあった。その時に備忘のために記した文章が『武道論』に再録された。少し短くしたものを「予告編」としてここにあげておく。 空理空論のイデオロギーは危険なものである。だから、それを制御するものとして、身体があり、日常の生活がある。 「百日の説教、屁一つ」と言う。いくら大義名分を掲げて偉そうなことを言っても、それを語っている当の本人の身体が語っている言葉を裏打ちしていないと言葉は力を失う。どれほど立派な口説も「ここがロドスだ、ここで跳べ」という地場からの挑発には対抗できない。「それだけ言うなら、ここでやってみせて見せろ」という言葉が空理空論には一番強い。 身体実感のある言葉を語っているかどうか、それは久しく知的言説に対する日本の庶人の身にしみた批評的規矩であった。平川くんも、