人の書いた「私が読んだ本のリスト」は、どうしてこんなに悲しいのだろう? 昔々、糸井重里が言っていた、「思わず友達の家の夕食を見てしまった悲しみ」に似たところがあると思うのは気のせいだろうか? 友人宅がどんな夕食の席で歓談を楽しんでいようが沈黙しながら食べていようが、自分の家と比べて、オカズが一品多かろうが少なかろうが、そんなことは本来どうだっていいことだ。 それでも「見なきゃよかった」という感に不意におそわれることを糸井は言っていたのだと思う。 誰か見知らぬ他人が、司馬遼太郎を読んでいようが、『ローマ人の物語』を愛読書にしていようが、田中芳樹をリストに入れていようが、そんなことは本来どうだっていいことだ。 そんなことは、その人の知性や智慧や知識や教養や文化資本と、ほとんど何の相関も(きっと、多分、お願い!)無い。万一あったとしても、そんなことは本来どうだっていいことだ。 どこかの国の最高裁