2014年4月13日のブックマーク (5件)

  • 東北の被差別部落

    『藩制一覧表』による。高橋梵仙氏によれば、明治3年9月の県の調査で、穢多・番主・非人の総計が944人とされている。 2. 歴 史 (1) 城下町に比較的大きな部落 会津若松、米沢、鶴岡・酒田、弘前、仙台、秋田、角館、盛岡、(白河 平 福島 会津地方) (大山 上の山) ● 城下町と街道筋というシェーマで良いか? (2) 戦国期までさかのぼる部落 ① 会津I町 ― 100戸を超す。 ● 「芦名盛氏の時代に黒川城の近くにあった」→ 現在地に移転 ● 蒲生氏郷に従って、近江から来た、という伝承あり(否定する声もある)。 ● 浅草、木下川など東京東部の被差別部落に ② 米沢市 ― 市のかっての郊外 現在は100戸を超す ● 紫屋又三郎 ― 上杉氏に従って来たと語られている。 越後・春日山城・砂山=勘兵衛町 → 高田(上越市)・太鼓屋=紫勘兵衛 ③ 秋田  久保田城下に移動したとの記述(『梅津政景日

  • 絶滅寸前ほぼ廃墟マーケット「黄檗新生市場」 - 大阪DEEP案内

  • 宇治市・ウトロ51番地 (1) - 大阪DEEP案内

    戦後60年の歴史、「在日」の問題を語るのに関西という地域は欠かすことは出来ない。 戦前の日において、航空機工場の建設に多くの労働力を求めていた時代、京都府宇治市の現・陸上自衛隊大久保駐屯地の辺りにも、沢山の労働者が仕事を求め移住してきていた。2000人居た労働者のうちの1300人が朝鮮人労働者であったと言われている。一部団体が主張する「強制徴用」という事はなく、多くの労働者が貧しさから仕事を求めて自主的に移住してきた人々である。 それら家族が生活する飯場(宿泊場)は、終戦後進駐軍により祖国への帰国命令が彼らに下された後も、帰国後の生活を頼る筋もなかった労働者の多くが、そのまま地区に住み続ける事となり、土地は不法占拠状態、それが現在も続いているというのが、ウトロ地区の特徴である。 他の「在日」集落の問題とは異なり、ウトロ地区の土地は民間会社所有であり、それは何度も所有者の会社が変わっ

  • 在日コリアン地区 “京都・ウトロ問題”遠のく解決」 【NEWSゆう+】: テレビにだまされないぞぉ

    昨日のABC朝日放送【NEWSゆう+】(1/10)で、 もうすぐ解決と思っていたあのウトロ問題が、暗礁に乗り上げたという特集をやっていたので記録しました(青字はナレーション) この報道の仕方、絶対にヘンです 女子アナ「韓国政府も巻き込んで進み始めた新たな町づくりの計画が、今ある問題で危機に直面しています。」 ごくありふれた住宅街の先に、その地区へと入る道は続いています。 京都市宇治市伊勢田町ウトロ。 宇治と言う土地の入り口・ウトロ口が訛ったとも言われるこの地区に、 70世帯200人ほどの在日コリアンが暮らしています。 (大音量で韓国の演歌?を鳴らすトラックの映像) お婆さん「おめでとうは?」 運転手「あっ、おめでとうございます。」 何十年と続く、日常のひとコマ。韓国材を積んだトラックが週に二回、兵庫の方からやってきます。 幼い頃、母親に抱かれ、先に日に渡った父親を追ってきたという南君

    在日コリアン地区 “京都・ウトロ問題”遠のく解決」 【NEWSゆう+】: テレビにだまされないぞぉ
  • ウトロ地区 - Wikipedia

    京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。この地区は1940年から日政府が推進した「京都飛行場建設」に集められた在日朝鮮人労働者たちの飯場跡に形成された集落である。 第二次世界大戦中の1942年2月に京都飛行場[2]と、併設の飛行機工場の建設工事が正式決定した。日国際航空工業(日産車体の源流企業)が建設工事を請け負い、工事には約2000名が従事した。従事者の約1300名が朝鮮人であり、彼等とその家族が生活していた1943年建造の飯場(宿泊設備)が現在のウトロ地区の前身である。かつて当地区住民側は居住権を主張する根拠として「ウトロ住民は1944年9月から1945年3月までの間、出稼ぎに来た朝鮮半島出身労務者とその子孫であり、ウトロ住民の居住権は日政府、もしくは原因企業の日産車体、ひいては母体の日産グループが保証すべきである」とし、地主企業の西日殖産との法廷闘争と並行して、日政府、および日

    ウトロ地区 - Wikipedia