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2007年1月26日のブックマーク (5件)

  • 壊れたHDDからデータを取出す方法 - ぴょぴょぴょ? - Linuxとかプログラミングの覚え書き -

    停電とか,寿命でHDDが壊れてしまった場合,せめて残っているデータだけでも取出したい・・・そういう泣きそうな状況に陥った人向けの作業メモ. 概要としては,例えばCDROMをCDRへコピーする際には, 一度 CDROMからデータを吸い出してISOイメージをつくって ISOイメージをCDRへ書き込む という作業をする.同じように 壊れたHDDからデータを吸い出して 新しいHDDへ書き込む という作業手順で,破損したHDDから残っているデータが救出できる.以下,具体的な作業手順についてまとめる. 状況を把握する たとえば dmesg で以下のようなエラーが出ている場合は end_request: I/O error, dev 03:42 (hdb), sector 31719462 hdb: read_intr: status=0x59 { DriveReady SeekComplete Dat

    壊れたHDDからデータを取出す方法 - ぴょぴょぴょ? - Linuxとかプログラミングの覚え書き -
    tgk
    tgk 2007/01/26
    いきなりfsckしちゃダメ
  • 「大衆向けのBI」の概念を変えたSwivel

    このコラムは来,SQL Serverに関する情報をお届けするものだが,今回の記事は普段と少々異なる内容になっている。データに関する話題という点では同じだが,SQL Serverにはほとんど関係がない。筆者は今回,「大衆向けのBI(ビジネス・インテリジェンス)」という概念が変わろうとしていることについて,最新のニュースを紹介したいと思っている。 事の発端は,知人が送ってきてくれたメールで,その件名は「『大衆向けのBI』に対する見方が変わるかもしれない」だった。筆者はこれまで一貫して,誰もがデータを分析できるようになる「大衆向けのBI」という概念を熱心に支持してきたし,このアイデアについて何度も記事を書いてきた。それがいつか現実のものになると考えているからだ。だからそのような件名のメッセージが筆者の関心を引かないはずがない。 彼のメッセージを正しく理解して頂くためには,「TechCrunch

    「大衆向けのBI」の概念を変えたSwivel
    tgk
    tgk 2007/01/26
  • データ中心指向とオブジェクト指向

    オブジェクト指向プログラミングと対比されるものとして、手続き型のほかに、データ中心指向があります。データ中心指向は、大量のデータを扱う業務アプリケーションで適用される方法論で、機能や処理を中心に考えるのではなく、データを中心に考えていくアプローチです。機能や処理に比べてデータは不変であるため、データが重要な意味を持ってくる業務アプリケーションでは、この考え方が適しています。 オブジェクト指向との違いは何かというと、簡単に言えば、オブジェクトを中心に考えるか、データベースを中心に考えるかの違いです。 ドメインを中心に考えている点では、どちらも一緒です。ドメインとは、アプリケーションが解決しようとしている問題領域のことです。ドメインを明確にする際、モデルが作成されます。モデルは、その問題領域で扱うデータを構造化し、関連を明確にし、アプリケーションの質的な部分、骨子を明確にしていくものです。そ

    tgk
    tgk 2007/01/26
    ORM否定派の意見
  • 中里一日記: 護身:XQuery

    護身:XQuery 真の護身が完成すると、危険に気づくまでもなく、危険に近づくことができなくなる、という(『グラップラー刃牙』)。 プログラマも護身する。 護身ができているプログラマは、危険なツールや規格やフレームワークを、その存在に気づくまでもなく回避する。 過去の例を挙げよう。RDBMSMySQLを採用して、4.1の文字化け問題を踏んでしまったプログラマは、護身ができていなかった。護身ができていれば当然PostgreSQLを使っていただろう。 また、現在の例を挙げれば、PHPを使うプログラマは護身ができていない。護身ができていれば当然PythonRubyを使うだろう。 これらの護身は、なにも超能力ではなく、事実にもとづく総合的な判断だ。 たとえば、日人の開発者はMySQLには少なく(おそらく存在しなかった)、PostgreSQLには多い。となるとMySQLがいずれ日語関係で問題

    tgk
    tgk 2007/01/26
  • 中里一日記: 人がみな誰かに似て見えるときには

    人がみな誰かに似て見えるときには ずっと昔、こんな文章を読んだ。「歳をとると、誰もが誰かに似て見えるようになる」。そのときは、理屈ではわかったが、なんの実感もなかった。 後年、クンデラ『不滅』を読んだとき、同じような描写に出くわした。今度は実感がわき――そして前述の文章を思い出したというのは、なんの皮肉だろう。人間にそっくりさんがいるのだから、文章はなおさらだ。 だが私はいま、もう一歩先のことに気づいた。 観察に頼るほど、人間は類型的に見える。 考察を重ねるほど、人間はそれぞれ違って見える。 観察の絶対量に比例して類型性を強く感じるようになる、のではない。観察に比して考察が足りないとき、類型性を強く感じるようになるのだ。 観察によって新たに得られた経験はまず、既存の枠組みに照らし合わせて理解される。このとき、もし深く理解したなら、既存の枠組みはなんらかの発展を迫られるはずだ。だが、深く理解

    tgk
    tgk 2007/01/26
    「物事を楽しめないのは、そこから逃れる方法がよくわからないからだ」 ... 知らなかった