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文学に関するtokatamaのブックマーク (6)

  • 鈴木三重吉 デイモンとピシアス

    一 これは、二千年も、もっとまえに、希臘(ギリシヤ)が地中海ですっかり幅(はば)を利(き)かせていた時代のお話です。 そのころ、希臘人は、今のイタリヤのシシリイ島へ入り込んで、その東の海岸にシラキュースという町をつくっていました。そこでも市民たちは、やはりみんなの間からいくたりかの議政官というものを選んで、その人たちにすべての支配を任せていました。或(ある)とき、その議政官の一人にディオニシアスという大層な腕ききがいました。 ディオニシアスは、もとはずっと下級の役に使われていた人ですが、その持前(もちまえ)の才能一つで、とうとう議政官の位地まで上ったのでした。この人のおかげでシラキュースは急にどんどんお金持になり、島中のほかの殖民地に比べて、一ばん勢力のある町になりました。 それらの殖民地の中には、アフリカのカーセイジ人が建てた町もいくつかありました。シラキュースはそのカーセイジ人たちと、

  • 『探偵映画』について

    十年近く前、『探偵映画』と同じ設定のライトノベルがあって、しかもそれがよくできていると書いている評論家がいたので、当然気になって読んでみた。もちろん米澤穂信氏の『愚者のエンドロール』だ。 書いた当人でも「バリエーション」が書けるような設定だとも思えない、一回限りのネタだと思っていたのでどう料理しているのかと思ったが……残念ながら、一体どこに評価すべき点があるのかさっぱり分からなかった。バリエーションを書くなら「かけ算」か、せめて「足し算」を見せてもらえると思っていたら「引き算」だった、という感じ。 しかし、何より首を傾げたのはそのあとがきだった。初版文庫のあとがきにはこうある。 -------------------------------------------------------------------------------------- ミステリー好きの読者の皆様へ。お分かりか

  • とりかへばや物語 - Wikipedia

    『とりかへばや物語』(とりかえばやものがたり)は、平安時代後期に成立した物語である。作者は不詳。「とりかへばや」とは「取り替えたいなあ」と言う意の古語。 あらすじ[編集] 関白左大臣には2人の子供がいた。1人は内気で女性的な性格の男児、もう1人は快活で男性的な性格の女児。父は2人を「取り替えたいなあ」と嘆いており、この天性の性格のため、男児は「姫君」として、女児は「若君」として育てられることとなった。 男装の女児である「若君」は男性として宮廷に出仕するや、あふれる才気を発揮し、若くして出世街道を突き進む。また、女装の男児である「姫君」も女性として後宮に出仕を始める。 その後、「若君」は右大臣の娘と結婚するが、事情を知らないは「若君」の親友である宰相中将[1]と通じ、夫婦の仲は破綻する。一方、「姫君」は主君女東宮に恋慕し密かに関係を結んで、それぞれ次第に自らの天性に苦悩し始める。そして、と

  • 麻生失言について推論している内にオリジナルが公開されてしまったのだけど、まあ、私の推論はこうでした。 - finalventの日記

    オリジナル⇒首相「金ないのに結婚するな」 : 動画 - 47NEWS (よんななニュース) オリジナルが出るなら推論するまでもなかったけど、まあ、私の推論はこうなっていた。 その前に原則 全体のコンテクスト(文脈)を理解する。(1)問いに答えている、(2)若者に人生経験者が結婚を説いている。 「(2)若者に人生経験者が結婚を説いている」の話題は何か? 尊敬ということ。 話者のポジションを理解する。(麻生さんはカトリック信者だ) 具体的なディテールは原典に近い 矛盾する言明にはそれを解くロジックが隠れている。ここでは、「金がねえなら結婚しない方がいい」と「人それぞれだからうかつには言えない」は矛盾している。 テキストはこう 朝日(参照) ---「若者に結婚するだけのお金がないから結婚が進まず少子化になるのではないか」 「金がねえなら結婚しない方がいい、おれもそう思う。うかつにそんなことしない

    麻生失言について推論している内にオリジナルが公開されてしまったのだけど、まあ、私の推論はこうでした。 - finalventの日記
    tokatama
    tokatama 2009/08/25
    聖書学という手法だって。興味ぶかい。
  • 村上春樹: 常に卵の側に

    ハアレツに発表されたエルサレム賞での村上春樹スピーチ(原稿なのか書き起こしかは不明)です。 彼の署名記事です。 原文は http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html 常に卵の側に 村上春樹 今日私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つき(spinner of lies)としてやってきました。 もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。 どうしてこんな事がまかり通っているかって? 答えを述べさせていただきます

    村上春樹: 常に卵の側に
  • ストーリーとプロットの違い - 漫棚通信ブログ版

    ストーリー、そしてプロットという言葉はよく聞きますし、わたしも使ってるのですが、このふたつの違いは何か。みなさんは、ぱっと答えられるでしょうか。 実はこれについてわたしが意識したのは、野田昌宏『スペース・オペラの書き方』(1988年早川書房)を読んだときでした。このではストーリーとプロットの違いについて、SF作家、今日泊亜蘭が自作を語る形で、このように述べられています。 そりゃそうだよ、お前、いいかね、『光の塔』で言ゃぁ……だ。 未来の連中が、自分たちの悲惨な現状をなんとかしようと、原子力を乱用してその原因を作った過去の歴史を改変しようと狙って未来から攻め込んできやがって……と、 これが『光の塔』のプロットよ。 それに対して、な。 まず、の冒頭で主人公が木星から帰ってくる宇宙船のなかから窓外に奇妙な飛び火を見る。 そして地球に帰って来てから渋谷で原因不明の絶電現象に出会わす。 それから

    ストーリーとプロットの違い - 漫棚通信ブログ版
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