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umadaのブックマーク (368)

  • http://homepage3.nifty.com/hiway/csdic/items.htm

  • こぐにと、 cognit,

  • 松岡正剛の千夜千冊 『西田幾多郎哲学論集』西田幾多郎

  • 作家別作品リスト:西田 幾多郎

    石川県生まれ。1896(明治29)年に金沢の第四高等学校講師、次いで教授となった。1911年(明治44)に発表した「善の研究」で、その西洋哲学と充分比肩しうる独創性で日の思想界に衝撃を与える。その後も西田は「善の研究」の〈純粋経験〉の立場に長年にわたり厳しい批判を重ね、ついに〈場所の論理〉に到達する。その後、マルクス主義の台頭を睨みつつ〈歴史的現実世界〉の問題と取り組み、〈場所〉を〈弁証法的世界〉として具体化し、〈絶対矛盾的自己同一的世界の自己限定〉として〈歴史的実在〉の世界をとらえる立場を展開した。 近年になって脱構築の流れに乗って世界的な再評価が進んでいる哲学家の一人である。(nns) 「西田幾多郎」 公開中の作品 アブセンス・オブ・マインド (新字新仮名、作品ID:43654) 或教授の退職の辞 (新字新仮名、作品ID:43655) 井上先生 (旧字旧仮名、作品ID:54368)

  • 蓮實重彦『物語批判序説』(迷宮旅行社)

    蓮實重彦『物語批判序説』 ブルックナー交響曲第9番 index 批評コンビニ幕の内(8) 蓮實重彦『物語批判序説』(第1部) 蓮實重彦『物語批判序説』(第1部)は、読み終えてみれば、フローベールの『紋切型辞典』をめぐる評論という形をとっている。しかしその始まりは、こうだ。 《それを博学と呼ぶには彼の知識はあまりに貧弱であったし、ましてや言語学的な卓見を誇りうるほど事情に通じていたわけでもないのに、一人の男が、あるとき、不意に辞書の編纂という途方もない計画を思いたち、知人や親しい仲間たちに向って、その構想をぽつりぽつりと洩らしはじめる。そんな身のほど知らずの着想を無理にも思いとどまらせる友人がひとりもいなかったところをみると、誰も、その完成を気で信じてなどいなかったのだろう。事実、辞典編纂の知識も経験もないこの無謀な男は、その構想を実現させる以前に死ななければならなかった。彼の死は、いまか

  • 池上高志先生インタビュー

    1961年生まれ。 理学博士(1989年)。 専門は非線形複雑系の数理。 インタビュー時現在は東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻広域システム科学系助教授。 インタビュアー:岡吉央,田中佑人,鈴木雄治郎 テープリライト:岡吉央 フォトグラファ:鈴木雄治郎

  • 樫村晴香に関するテキスト

    BACK 樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/うつくしい幻想と科学 樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/分裂病的、動物的 荒川修作をめぐる、樫村晴香と岡崎乾二郎 ティンゲリーのようなドゥルーズ セザンヌ/不連続/樫村晴香 樫村晴香『ドゥルーズのどこが間違っているか?』/うつくしい幻想と科学 03/06/16(月) ●樫村晴香による驚くほど鋭敏な『ドゥルーズのどこが間違っているか?』(「現代思想」96年1月)は、ドゥルーズの批判であると同時に良質の解説でもある。そこで樫村氏がいっているのはつまり、ドゥルーズの間違いは決して接続することの出来ない異質なもの(ニーチェとハイデガー)を接続させてしまっている点にある、ということだ。ニーチェの思想とは、それ自体が他と置き換えることの出来ない固有な病としてあり、だからニーチェが「プラトンの憂さ」と書くとき、それはプラトンがその

  • kashimura..html

    汎資主義と<イマジナリー/近しさ>の不在 マルクスのレクチュールではなく、マルクス主義をまもるために 研究手帖 人肉レストランでの体験 特集=キルケゴール 性的不能 存在の犬 物象化論と弁証法*唯物論 クリティーク3号 1986年4月 総特集=荒川修作+マドリン・ギンズ 「アトリエの毛沢東」 その精神病的=分析哲学的表象システムと上下反 転運動の論理的解明 『革命の諸要素』 『四つの運動からなるわが方法』★一 嘘の力と力の嘘 ――大島弓子と、そのいくつかの政治学 昭和五十五年優秀論文 京都大学文学部哲学科卒業 アルチュセール派イデオロギー論の研究 ――後期アルチュセールの理論的活動への探索 ―― 彼岸の強者と此岸の死者 法と自然 0° 挑発座談会 "ポストモダン"を超えて <物(ブツ)>が全て、この陽気な目茶苦茶 「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?」 特集=ジル・ドゥルーズ

  • 『柄谷行人初期論文集』書評――柄谷行人とフーコー/中島一夫

    最も早い時期に書かれ、書の巻頭にも置かれている「思想はいかに可能か」では、「個と類」(特殊性と普遍性)の矛盾をどの地点で生きるかという視点から、三島の「明晰」、吉の「自立」、江藤の「成熟」がとらえられ、これら先行者による三極が、まさに極点であるがゆえに各々を超越することが出来ないという構造が示される。だが柄谷にとって最も「大切な問い」は、三極の吟味の果てに「最後に」「一つだけ残」された「自分は何者か」という問いであり、ここには後年、「個と類」という軸とは異なる位相に個体の「単独性=固有名」を見出していく予兆が、すでに示されていると言ってよい。 以下、「個と類」の回路との闘争の中で「移動」を強いられていった作家、思想家が次々と検証されていく。「新しい哲学」(マルクスの転換)、「『アレクサンドリア・カルテット』の弁証法」(ダレルの弁証法)、「「アメリカの息子のノート」のノート」(ボールドウ

  • http://www13.plala.or.jp/yosuke04/karatani.html

  • 戸田山和久『知識の哲学』へのコメント

  • 認知科学に現象学は何を寄与しうるか

    認知科学に現象学は何を寄与しうるか                         柴田正良(金沢大学) 1. 現象学とは何をする哲学なのか? 何が売りなのか?  ということは、だれに聞いても多分、「絶対これだ」という自信たっぷりの答えが返ってきそうもないので、正面から問わないことにしよう。その代わりに、「事象そのものへ」とか、「質直観」とか、「現象学的還元」とか、「客観的世界の手前にある生きられた世界に立ち帰る」といったスローガンを頭に思い浮かべながら、認知科学における一つの具体例に即して、現象学という思考方法(?)が心の科学に何を貢献しうるのかを少し考えてみたい。要するに、目指すところは現象学の可能的ケース・スタディであり、そのケースとは、コネクショニズムによる素朴心理学消去の主張である。 2. 素朴心理学に対するコネクショニズムからの攻撃  素朴心理学(folk psyc

  • 心は(どんな)コンピュータなのか 古典的計算主義 vs. コネクショニズム 戸田山和久(名古屋大学) 『シリーズ心の哲学Ⅱ ロボット篇』所収 信原幸弘編、勁草書房(2004, 7 出版予定) 一

    心は(どんな)コンピュータなのか 古典的計算主義 vs. コネクショニズム 戸田山和久(名古屋大学) 『シリーズ心の哲学Ⅱ ロボット篇』所収 信原幸弘編、勁草書房(2004, 7 出版予定) 一 計算主義とは何か、それは何を問題にしているのか 章の主題は「計算主義(computationalism)」だ。計算主義の主張を一言で言えば、「心は 計算機だ」ということになる。しかし、これはひどく曖昧で、ほとんど無内容すれすれではないだ ろうか。というのも、計算機って何なの?ということがどうしようもなく曖昧だからだ[1]。したがっ て、当に意味のある問いは、「心は計算機なのか」ではなくて、「心が計算機であるとしたら、 それはどんな計算機なのか」である。 計算主義は、心の入出力ではなく、内部メカニズムに目を向けさせる。歴史的に見れば、こ れが計算主義のテーゼが果たした最も重要な役割だった。二〇

    umada
    umada 2006/12/07
    コネ研のあの本。
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  • 『科学哲学の冒険』はちょっと冒険しすぎではないか?

  • http://www.f.waseda.jp/ssuto/papers/book_review/b9601.html

  • Amazon.co.jp: フッサール現象学への視角: 廣松渉: 本

    Amazon.co.jp: フッサール現象学への視角: 廣松渉: 本
    umada
    umada 2006/12/07
  • 2006-02-28

    ちくま学芸文庫版の解説(野家啓一「「物活論」の復権」)のまとめ.【 】内はまとめというより解釈など. 続きを読む 書の著者である大森と同様,フッサールもまた近代科学に対する根的な異議申し立てを行い,世界観上の「包括的態度変更」を迫る.フッサールは近代科学の質は「理念的数学化」にあるとし,そのルーツはガリレイによる「自然の数学化」であるとする;フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』においてガリレイに端を発する「自然の数学化」を批判的に考察し,数学的シンボルという「理念の衣」を廃棄して直接的経験のフィールドである「生活世界」に還ることを求める.この問題提起は密画的世界観( = 理念の衣)にたいする略画的世界観( = 生活世界)の根源性を主張したものとみることもできる. 【参考:id:somamiti:20050807#p1】 しかし大森はフッサールの近代科学批判をさらに批判

    2006-02-28
  • 大森荘蔵「他我問題に訣別」について

    大森のこの論文について、他我問題が一般のありふれたやり取りの中では決して問題にはなり得ないような「哲学的問題」であるという見地には私も同意する。だが、大森自身近いと言いながらも(7節)、心理主義の誤謬に陥ったと断じているウィトゲンシュタインに対する評価に関しては疑問を感じる。このレポートではウィトゲンシュタインを念頭において、大森論文での中心問題と思われる「知覚的意味」と「思考的意味」の差異について再検討する。 まず第一に大森の主張する「知覚的意味」と「思考的意味」について概観する。 大森はこの2つの異なる意味の様式に関してフッサールの用語を準用して『「我が腹痛」の意味が熟知の痛さで知覚的充実(Erfullung)をもつのに「彼の腹痛」は我が腹痛をモデルにしてイラストされるにもかかわらずその意味は思考的にのみ了解できるのである』(6節)と述べている。そして、その後段では「思考的」に関する例

  • 心的現象論を読む

    隆明著・心的現象論を読む 心的現象論序説(試行15号~28号までの連載分)Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ感情 Ⅴ発語&失語 Ⅵ夢 Ⅶ心像(イメージ) Ⅷ眼の知覚論 Ⅸ身体論 関係論 了解論 試行 47 68 69 70 71 72 73 74 感想 ごあいさつ 吉隆明(よしもと たかあき)氏が自ら主催する「試行」という同人誌で連載されていた「心的現象論」を読むという企画です。になってる「心的現象論序説」は試行の1965/10/25~1969/8/25 15号~28号までの分で、それ以降は、まあ、図書館等を利用してコピーをとってきた次第で、著作権云々でクレームがくれば、謝罪してHPを消すというまあ、粗末なものなのですが。試行の廃刊時に載った心的現象論をみても、最後は(未完)で終わってますから、コピーまで含めて序説といえば序説なのですが、あえて28号分まで収めた書籍と区別する意味で「心的現象論」という