<元捕虜収容所長を祖父に持つ本誌記者が、日本軍の捕虜だったアメリカ兵と向き合った> <本誌2015年8月11&18日号「特集:『戦後』の克服」より転載> 8月15日、日本は戦後70周年を迎える。日本が語る「国家」としての歴史が議論される一方で、第二次大戦には当時を生きた一人一人の物語がある。それはそれぞれの国で、体験者それぞれの「真実」として、多くの場合苦しみを伴いながら今後も語られていく。その戦争の記憶に「終止符」を打てる日は来るのだろうか──。 捕虜たちが見た地獄 6月初め、私は祖父が残した物語といま一度向き合うため、赴任先のニューヨークから米南部のニューオーリンズ空港に降り立った。ジャズの街ニューオーリンズは既に夏真っ盛りで、空港を出るとむわっという熱気が身を包む。車で30分も走れば音楽と酒にまみれた繁華街フレンチクオーターに到着するが、私を乗せたタクシーが向かう先は陽気な観光地では
全日本剣道連盟(張富士夫会長)が主催する居合道の昇段審査などで不正な金銭授受があった問題で、受審者が合格させてもらう目的で審査員らに現金を渡す行為が、昭和40年代ごろには始まっていたことが18日わかった。約50年にわたって不正が続いていた可能性が浮上し、伝統ある武道の段位や称号の信頼性が大きく揺らいでいる。 全剣連関係者によると、居合道の昇段審査に影響力がある有力者に現金を渡す行為は「○○詣で(○○は影響力のある人物の氏名)」と呼ばれ、昭和40年代ごろには始まっていたとみられる。全剣連の調査に対し、高齢の有段者から「昔は審査を受ける時に有名な人のところへ行かなきゃいけなかった」という証言も出ていて、不正が世代を超えて受け継がれてきた疑いがある。 全剣連は2012年と16年に、受審者から審査員や指導者らに対して計2件の金銭授受があったと認定。「審査に近接した時期に金銭を授受する不適切な慣行が
その日は、楽しい一日になるはずだった。1945(昭和20)年2月8日。艦上攻撃機のパイロットを養成する姫路海軍航空隊として鶉野飛行場(兵庫県加西市鶉野町)で訓練を受けていた桑原敬一さん(92)=横浜市=らは、休日で外出できるとあって朝からはしゃいでいた。 【写真】長崎の被爆伝える写真「黒焦げとなった少年」 しかし突然、集合が掛かり、上官から告げられる。「特攻隊を編成することになった」 爆弾を抱えた航空機で敵艦に体当たりをする「特攻」は、44年10月のフィリピン・レイテ沖海戦から始まった。日本軍の航空機と搭乗員が減る中、練習航空隊も特攻隊に組み入れられることになった。 紙切れと封筒を渡され、希望するかしないか、誰にも相談せずに書いて出せという。その場は重苦しい雰囲気に包まれた。 当時、18歳だった。岩手県にいる母と姉、4人の妹や弟のことが気になった。一番下の弟とは12歳離れていた。2カ月ほど
頻発する空襲を経てもなお「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と言い続けた日本政府(前回記事を参照)。この方針は、一挙に大規模となった東京大空襲の被害を目の当たりにしても、変更されなかった。 一度始まった政府方針は、簡単には修正されない。それでも、当時の政府方針に立ち向かおうとした議員がいた。その渾身の言葉に耳を傾けて、いま私たちはどう生きるべきか考える糧にしたい。 1945年(昭和20年)3月10日の深夜0時08分、約300機のB29爆撃機が東京上空に飛来し、約2時間で33万発以上の焼夷弾を投下した。「東京大空襲」である。 現在の江東区・墨田区・台東区を中心に、千代田区や江戸川区も含む広範囲が焼け野原となった。一夜で10万人が死亡し、罹災家屋は27万戸にのぼった。 この大惨事を受けて、さすがの日本政府も「逃げずに火を消せ」の方針を変更するかと思いきや、そうならなかった。空襲の直後、西尾壽造
みんなが知らないなら僕が書いておこう ――今なぜ、ほぼ米寿のミステリー作家が「自伝的フィクション」を執筆したのですか。 戦争について書きたくなった。 戦争については、経験して、自身としては飽き飽きだったが、若い編集者が日本人なら誰でも知っていると思っていたB29からして知らない。大型模型を前にして、これは何かと問われて愕然とした。そういう時代になってしまったのかと。これでは、まもなく戦争のことを誰も彼もが知らなくなってしまう。みんなが知らないなら僕が書いておこうと。 ――本書にあるように「日本人は戦争に向いていない」のですね。 「トップ作戦」というのがあった。死を覚悟した体当たり攻撃のことだ。なぜ日本だけがそうしたのか。ドイツでさえしていない。戦争は死んだら負けだ。どれだけ生き残っているかが問題なのだ。それが日本は玉砕だ、総員突撃だと、どれだけの将兵が死んだかが戦歴の尺度になってしまう。そ
サンドラ・ヘフェリン 【まとめ】 ・日本人の中には、ナチスを称賛する人がいたり、ナチスを連想させる「グッズ」を使用する人がいることに驚く。 ・「ドイツ刑法典130条」の民衆扇動罪は、ヒトラーやナチスドイツを礼賛したり讃美したりする言動や、ナチス式の敬礼やナチスのシンボルを見せることを禁止している。 ・唯一の被爆国である日本は国際社会の一部であり、人種差別撤廃条約に加盟している。ヒトラー礼賛が如何に多くの人を傷つけるかわかるはずだ。 筆者はよく「日本に来てビックリしたことは何ですか」と聞かれます。そこで観光客風に「ウォッシュレットにびっくりした!」とか「コンビニが24時間あいていることにビックリした!」とか「ニッポン女子のメイクにビックリした!」・・・などと言いたいところですが、実は筆者が20年前に来日して以来今に至るまで定期的にビックリしていること。それは日本では堂々とナチスを称賛する人が
美談で隠す「戦争」体験 従順、調和重視…国民性利用する政府 東京郊外にある料理店で待っていると、窓越しに作家、辺見庸さん(71)の姿が見えた。前回の取材から3年。脳出血によるまひで、右手をみぞおちのあたりに持ち上げたままの姿勢は変わっていないが、足元を見ながら歩くリズムは幾分遅くなったようだ。 辺見さんとのやり取りは常に刺激に満ちている。だから、席に着くなり「震災から間もなく5年になりますが、それに絡めたお話を」とお願いした。 辺見さんも余計な前置きはしない。「僕がずっと読み込んできた戦争の話と震災を短絡させるのは何なんだけど」と、すぐに語り始めた。 この記事は有料記事です。 残り3154文字(全文3432文字)
世界的画家である「ゴッホ」ことフィンセント・ファン・ゴッホ。「ひまわり」や「夜のカフェテラス」、「星月夜」などの代表的な絵画作品を生み出しました。後世に残る創作活動に取り組む一方で、生前は長らく精神の病を患っていたことでも知られています。ゴッホの「耳切り事件」はあまりにも有名ですが、128年以上を経て新たな事実がわかりました。 あの有名な「耳切り事件」に新事実が 全世界的に有名な「ゴッホの耳切り事件」。 1888年、精神を病んだゴッホは自ら片方の耳を切り落としたというあの衝撃的な事件です。 「包帯をした自画像」image by: Wikimedia Commons なぜゴッホが耳を切ったのかについては、様々な諸説がありました。 当時住んでいた画家ゴーギャンとの生活がうまく行かず、感情的になって耳を切った、あるいはゴーギャンがゴッホの耳を切ったなどなど。 また切られた耳の大きさについても、「
京都、とりわけ「洛中」の人ならではの気質を皮肉を込めてつづった「京都ぎらい」(朝日新書)の売れ行きが好調だ。物議を醸しそうなタイトルに込めた思いは何なのか。京都出身の著者、井上章一・国際日本文化研究センター副所長(60)に聞いた。 「京都にはいやなところがある」 同書は冒頭からそう宣言する。その理由として井上さんが指摘するのは、洛中の「中華思想」だ。 「洛中」は上京区、中京区、下京区といった京都市の中心部を指す。「洛外」である嵯峨(右京区)出身の井上さんは、一部の洛中の人たちに田舎者扱いされてきたという。洛中出身の著名な仏文学者とのやりとり、宇治市出身のプロレスラーの凱旋(がいせん)興行でのエピソードで、洛中人への嫌悪感をにじませる。 「洛中には『関東へ下る』という言葉を使う人が今でもいる。(いまだに)こういう言葉遣いをするのは、みっともないと思うんです」 専門は建築史。本書は言わば「余技
■はじめに最近、永青文庫で開催されている「春画展」 を観る機会がありました。 世界が、先に驚いた。SHUNGA 春画展 春画は、海外で絶賛され、印象派の画家たちにも大きな影響を与えたといわれている日本芸術文化の一分野です。2013年大英博物館で開催された同じ春画の展覧会でも、その色合いや構図の見事さに高い評価が下されたのでした。 永青文庫永青文庫の会場に行って驚いたのは、場内を埋め尽くす来場者の多さでしたが、それのみならず、私の印象ではその4割ほどが20代から30代の若い女性であったことでした。展示されている春画は、どれも人間の自然な営みである「性」を直接の主題とするものであって、男女の性器やその交合部分がデフォルメされ、あるいは写実的・直接的に表現されたものばかりです。おそらく以前ならば、このように〈性を直接表現したもの〉の多くは刑法175条(わいせつ図画公然陳列罪)に該当するという評価
4月3日、米「ニューヨーク・タイムズ」に、第二次世界大戦時、零戦のパイロットだった男性のインタビューが掲載された。原田要さん、98歳。元大日本帝國海軍エースパイロットである。 原田さんは真珠湾攻撃では上空直掩隊として艦隊上空を警戒し、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦に参加。ガダルカナル島の戦いで撃墜され、重傷を負いながらも帰国し、教官となって終戦を迎えた。総撃墜数は19機。自らの経験を記録したいくつかの著書を残している。 「Retired Japanese Fighter Pilot Sees an Old Danger on the Horizon(元日本人戦闘機飛行士は差し迫った古い危機をみる)」──そう題された「ニューヨーク・タイムズ」の記事は、長野で行われた原田さんの講演会の描写から始まる。彼はゆっくりと壇上に上がると、セピアに色あせた写真を掲げたという。それは、革のフライトジャケ
イラク、シリアで領域拡大を図って戦闘を続けているイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」。世界各地から多くの戦闘員がイスラム国に参加しているという現実に世界の注目が集まる。3万人ともいわれる兵士の約半分は世界各地からの義勇兵が占め、中には西欧・米国から加わった者もいる。なぜ世界の若者たちはイスラム国に向かうのか。イスラム政治思想の研究者である池内恵・東京大学准教授に聞いた。(聞き手・読売新聞東京本社調査研究本部研究員 時田英之) イスラム国に外国からの戦闘員が流入しているのはなぜか。この問題を理解するためには、まずイスラム国の唱える「グローバル・ジハード」の理念や歴史を知らねばならない。 そもそもイスラム教徒は、自らが神と一対一の関係で結ばれており、一人一人が神の命令に従って義務を果たす責任を負っていると考える。つまり、世界のどこにいても、国家や民族を超えた一つのイスラム共同体に帰属してい
軍神・牟田口廉也中将が日本兵3万人を討ち取ったインパール作戦から70年 遺族が慰霊祭に出席 [転載禁止]©2ch.net [331531455] 1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2014/11/03(月) 18:12:43.73 ID:xfkwbCy+0 ?2BP(1000) 太平洋戦争中、過酷な戦いで多くの戦死者を出した旧日本軍による「インパール作戦」からことしで70年となるなか、遺族が、戦死した父親の母校で行われた慰霊祭に初めて出席しました。 慰霊祭に出席したのは、インパール作戦で当時34歳で戦死した田中重藏さんの娘、田中黎子さん(75)と柳川恭子さん(74)の姉妹です。 「インパール作戦」は、70年前の昭和19年、旧日本軍がインド北東部の攻略を目指してイギリス軍などと戦い、過酷な戦いでインド国内だけで3万人が戦死しました。 2人は、父親の母校の拓殖大学で毎年、戦
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く