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ブックマーク / www.socius.jp (5)

  • Socius_社会学感覚26教育問題の構造

    26 教育問題の構造 増補 大衆教育社会 編の社会問題論では「教育問題の構造」も予定していたが、紙数調整の関係で断念した。しかし、教育問題は今や社会全体の重要問題になっており、ここでも社会学の有効性が試されている。この分野をあつかうのは教育社会学である。教育社会学は近年非常に活発に研究がなされている専門分野だ。 教育問題を考える上でまず必要なのは、全体構図を歴史的社会的に位置づけておくことだ。苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ――学歴主義と平等神話の戦後史』(中公新書一九九五年)は、教育の現時点の座標軸を理解するのによいである。現代は「大衆教育社会」であるというのが書の出発点。それは「教育の量的な拡大」と「メリトクラシー(業績主義)の大衆化」と「学歴エリートの支配」によって特徴づけられる社会である。このような大衆教育社会において人びとがもつ特有の視線の神話性について、実証データを駆使し

  • Socius_社会学感覚20スティグマ論

    20 スティグマ論 20−1 社会的弱者を苦しめる社会心理現象 役割としての社会的弱者 この章では、権力作用の問題を〈医療と福祉の対象となる人びと〉を中心に考えてみよう。 このような人びとは、どのような役割を担っている人びとだろうか。たとえば、それは子ども・高齢者・病者・障害者・低所得者・失業者・公害被害者といった役割である。これらの役割におかれている人びとは一般に「社会的弱者」とよばれている。能力中心主義の近代産業社会にあって、社会的弱者はなんらかの不利益をこうむることが多かった。そこで現代社会では、さまざまな福祉サービスを保障することによって、実質的な平等への努力がなされつつある。 とはいうものの、社会的弱者は一般に暴力や犯罪の対象にされやすいし▼1、こと企業社会においては、あいも変わらず成年男子の健常者中心の組織文化が支配している▼2。 それでも、弱者への暴力や犯罪・酷使といった逆行

  • Socius_リフレクション10

  • Socius_社会学感覚08自我論/アイデンティティ論

    8 自我論/アイデンティティ論 8−1 「わたくしといふ現象」 『春と修羅』序詩に学ぶ 社会のなかの人間について考えてみたい。つまり「われわれはいったい何者なのか」「わたしはだれ?」「わたしはなぜわたしなのか」という根源的な問いについてである。いうまでもなく、これは哲学・思想・宗教・文学などで追求されてきた問題だ。社会学では、この問題群を「自我論」もしくは「アイデンティティ論」と呼ぶ。社会学の議論は、もちろん哲学や文学などでなされてきた議論と無関係ではありえず、むしろそれらと呼応するものである。そこで、ここでは見田宗介にならって宮沢賢治の思索からこの問題領域へ分け入ることにしたい▼1。 一九二四年に自費出版された『春と修羅』という詩集――賢治はこれを「心象スケッチ」と呼んでいた――の冒頭に「序」という名の詩がおかれている。これは詩集のために新たに書かれた序文のようなものであり、通称「序詩」

    umeten
    umeten 2006/05/22
    不本意な状況にいる人たちにとってこそ深刻な間題となる。たとえば、女性・老人・病人・障害者・被害者・被差別者・社会的弱者といった人たちにとってアイデンティティの問題は、それが危機にあるだけに切実だ。
  • Socius_社会学感覚22ジェンダー論

    22 ジェンダー論 増補 女と男について考え始める 当初の計画ではジェンダー論の章も予定していたのだが、たまたま執筆順序があとになったため紙数調整の犠牲になってしまった。しかし、ジェンダーは権力行使の日常的かつ最大規模の現場である。ジェンダーへの言及なき権力論は、それ自体、権力作用の罠に陥っているというべきだろう。 セックスが生物学的に定義された性であるの対して、ジェンダーは社会的に定義された性のこと。私たちは「女であること」あるいは「男であること」をとかく生物学的な性を基準に議論することが多いが、じつは議題になっているのは生物学的な性ではなくて社会的な性である。そこをきちんと立て分けないと混乱する。しかも、生物学的な性は、しばしば偏見的主張の絶対的正当性としてもちだされてしまうことが多くて、ろくなことがない。理性的な議論にはじゃまな道具立てなのである(それを社会学者は「イデオロギー装置」

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