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政治思想と社会学に関するushiwatatのブックマーク (8)

  • 今こそ読もう!「中空構造日本の深層」 - アンカテ

    史上で有力者が誰も朝廷を潰そうとしなかったのって不気味じゃない?:哲学ニュースnwk これって、天皇=部長、将軍=次長と考えると、サラリーマンならピンと来る話じゃないでしょうか。 つまり、部長がおかざりで、NO2の次長とか部長代理が実権を持って仕切ってる部って、意外と仕事がしやすいということです。もちろん条件はいくつかあって、 部長は大幅に次長に権限移譲している 次長は叩きあげで、現場の細かいことまでよく知っている 部長の「出自」がいい (親会社や銀行からの出向組とか) これだと、部長と次長が仲良くなくて違うこと言ってても、下の者は迷うことが少ないんです。 部長が、朝礼で何かトンチンカンな方針を言うと、すぐに次長が「あの人は現場のことがわからないから、適当に合わせておいて、今まで通りやればいいんだよ」とかフォローしてくれる。 逆に、部下が失敗して次長から厳しく叱責された時には、部長がフ

    今こそ読もう!「中空構造日本の深層」 - アンカテ
  • 反知性主義2:森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    おちゃらけ (承前) まずは少しおちゃらけから。 前回の反知性主義話を書いた直後に、斉藤環が次のようなツイートをした。 あ〜また誤解する人が出てきたので注釈しときますとですね、僕が「反知性主義」と呼んでいるのは「バカ」の上品な言い換えとかじゃなくて、「地アタマだけは良い連中の実学志向&人文知軽視」のことですんで誤解なきよう。— 斎藤環 3.15発売「まんが やってみたくなるオープンダイアローグ 」 (医学書院) (@pentaxxx) August 21, 2015 さて、8月21日にこのツイートが出てきて、しかもその中で「僕が「反知性主義」と呼んでいるのは「バカ」の上品な言い換えとかじゃなく」と述べているのは、おそらくぼくの前回 (8月20日)の記述を意識したものだと思う。そうであるにせよないにせよ、ぼくはこういう参照先を明記しないでほのめかしで済ませるやり方は、とても低級な知的堕落だと

    反知性主義2:森本『反知性主義』:ホフスタッターの当事者意識や切実さはないが概説書としてはOK - 山形浩生の「経済のトリセツ」
  • 反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    はじめに 反知性主義をめぐるを3冊読んだので、その話をちょっと書こう。なぜそんなものを読もうと思ったかというと、『現代思想』の「反知性主義特集」に対するアマゾンのレビューがぼくのツイッターでちょっと話題になっていたからだ。 「彼らは反知性主義だ」と規定する知性は知性主義的なのか? ぼくはこの特集を読んでいないし、読むつもりもない。が、このレビューの主張はよくわかると同時に、この特集のスタンスについて疑問が湧いてきた。 というのも、このレビューを信じるなら、この特集での「反知性主義」というのは、「自分とちがう考え」のことらしく(たとえば原発推進とか安部政権評価とか)、そしてそれを「反知性主義」と呼ぶのは、要するに「バーカ」というのをご立派に言い換えているだけらしいからだ。 さて、まずぼくはこの手の言い換えが嫌いだ。ぼくはしばしば、バカをバカとはっきり言うので、性格が悪いとか下品とか言われる

    反知性主義1: ホフスタッター『アメリカの反知性主義』 知識人とは何かを切実に考えた名著 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
    ushiwatat
    ushiwatat 2015/08/27
    |一般の人々にだって、いやかれらのほうがずっと知恵を持っている、という考え方だ。/これはもちろん、フリーソフトの発想であり、インターネットの発想|
  • ララビアータ:ヘーゲル――近代政治哲学の臨界

    ヘーゲル哲学の位置を正確に見積もるためには、補助線として近代政治哲学の諸説を参照することが有益である。一つは功利主義、もう一つは社会契約説。 功利主義にとって、功利とか快苦とは、主観的なものなのか、それとも何か客観的なものであろうか? どんなに医者が「君は痛みを感じるはずがない」と言ったところで、痛い時には痛いと言われるだろう。功利や快苦も、そのように単に主観的なものであって、誤認の余地のないものであろうか? それとも、人にそう思われるだけでは誤認される事も有り得るものなのであろうか? (この点、拙著『魂の美と幸い』で触れたことがある。「魂が自らを幸福だと信じる場合、さながら神経痛が決して我々の神経を裏切らないように、この魂の判断に誤りの可能性はないのか否か?」) しかし功利主義は、例えば財の効用によって、財の交換を説明しようとするだろう。たとえば、私が自分の手持ちのA商品を手放して他人

    ushiwatat
    ushiwatat 2008/02/09
    ヘーゲルの精神現象学の途を主体の信仰に対峙する知識として見、その難点を挙げる。 |理由と知に基づく近代政治哲学に換えて、決断と信仰に基づく政治哲学が、可能でもあり、必要でもあるのではなかろうか?|
  • 流動化に対するヨーロッパと日本の姿勢の違い―バウマンを参考に - 絶倫ファクトリー

    ジグムント・バウマン「リキッド・モダニティ」の読書日記として書こうとしたのだが、案外長くなってしまった。 リキッド・モダニティ―液状化する社会 作者: ジークムントバウマン,Zygmunt Bauman,森田典正出版社/メーカー: 大月書店発売日: 2001/06メディア: 単行購入: 5人 クリック: 68回この商品を含むブログ (39件) を見る まだ第二章まで(+第五章)しか読んでないことをあらかじめ断っておく。 解放と流動化 後期近代を分析したとしては、大変読みやすくかつ優れただと思う。 バウマン自身は、資主義の徹底が行われた後期近代をpost modernity とは呼ばず、liquid modernityと呼ぶ。それは前期近代と後期近代が決して断絶したものではなく、文字通りsolidで堅固であった近代が、流動化してliquidな社会になったと考えているからだ。 近代は、

    流動化に対するヨーロッパと日本の姿勢の違い―バウマンを参考に - 絶倫ファクトリー
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/01/19
    Z.バウマン『リキッド・モダニティ』。現代の政治的場面でのヨーロッパの過去(アゴラ的公共空間)に対する態度と、日本の過去への態度(S30年代)の相違、すなわち理想化の相違の対比。最後の三段落は評価保留。
  • 萱野暴力論に関するメモ - スマイル・トレーニング・センター

    カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)作者: 萱野稔人出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2006/11/16メディア: 単行(ソフトカバー)最近、萱野稔人という人を知ったので(http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20070925/p1)、『カネと暴力の系譜学』を入手して読んでみたのですが、いやあ、ほんと驚いた。この手のを読んで、久々に[これはすごい]と思った。文章が良い。明晰で、歯切れが良くて、力強い。なにより志が高い。今日日こんな真正面から国家論をやっている人がいるとは。暴力と国家といった議論自体は昔も今もあるけれども、ここまで根的に考え構造的に書いてあるものを読むのは初めて。まったく考えたこともないような視座から思考が飛んでくる。『仁義なき戦い』や『ゴッドファーザー』を観ていて、単なるチンピラのお話以上の崇高な何かを感じる理由が、哲学的

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/12/14
    萱野稔人『カネと暴力の系譜学』。
  • トランスカレッジ(笑) - 荻上式BLOG

    「スイーツ(笑)」とは ↓ ライフハック(笑) やろうやろうと思っていたのに、先をこされた(笑)。2ちゃんでもスレがたってる。とりあえず「俺色(笑)」とか「洒落金男(笑)」とかも追加希望。 トライブを選択すると、他のトライブのどれかには必ず嘲笑されることになる。だから、 政治(笑) 牛歩戦術(笑) 記憶にございません(笑) 疑惑の総合商社(笑) 美しい国(笑) テロには屈しない(笑) 経済制裁(笑) 戦中派(笑) 反米(笑) ナントカ還元水(笑) 保守流(笑) 小沢流(笑) 小泉チルドレン(笑) 押し付け憲法(笑) バカヤロー解散(笑) 加藤の乱(笑) 堀江メール問題(笑) とか、 論壇(笑) 大きな物語(笑) Q(笑) 動物化(笑) 光あれ(笑) 非モテ(笑) 希望は戦争(笑) まったり革命(笑) 私の個人主義(笑) 去勢(笑) 水の東西(笑) 対幻想(笑) ジェンダートラブル(笑) 

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/09
    |影響を受けるメディアやオピニオンリーダーの差はあれど、そこを発端に「メディアを鵜呑みにする」と呼ばれるような語彙の浸透や認識の浸透は、どのトライブでも観察される| |でもそんなの関係ねえ!|
  • 哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ�:�『公と私の系譜学』レイモンド・ゴイス(岩波書店)

    →紀伊國屋書店で購入 「公とは何か」 公的なものと私的なものの境界が時代とともに変動していることは、アレントの『人間の条件』などでも指摘されてきたが、この書物はギリシア、ローマ、中世、現代における公的なものと私的なものの領域を、具体例で考えようとするところがユニークだ。 古代のギリシアではアゴラで事をすることも下品なこととされていた。物をべるのは、家という私的な空間でおこなうべきだとされていたのだ。ところがキュニコス派のディオゲネスは、アゴラでオナニーをしてみせる。クラテス夫はアゴラでセックスをしてみせる。もちろんコートで覆っていただろうが、身体の動きだけでそれは分かるものであり、これが挑発的で、公的な領域を侵犯する行為と理解されたのは間違いのないところである。 オリゲネスはオナニーを哲学的な営みとして実行したのであり、他者にたいする配慮の欠如こそ、自立した人間の印だと考えたのである

    哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ�:�『公と私の系譜学』レイモンド・ゴイス(岩波書店)
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