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ブックマーク / taknakayama.hatenablog.com (30)

  • transparencyの問題 - 横浜逍遙亭

    AさんがブログとFacebookとtwitterをフルに稼働させてメッセージを発信しているとすると、僕のようにブログだけをやっている人間には、彼が世の中に問うているメッセージの全体像が見えない。そういうことがいま起こっている。 Aさんが言わんとしていることの総体に追随することに価値を見いだすとすれば、自ずから、マルチサービス体制に突入しなければならないが、これは面倒で、時間の無駄が多すぎて、とてもじゃないがやってられない。美崎薫さんのような自動化の思想を持っている人がサービスをつないでtranparentなWeb言論空間を作ってくれない限り、サービスの進展について行く気持ちがない人間は常に遅れ続けてしまう。こりゃ、やってられません。やってられないけど、困っちゃう。

    transparencyの問題 - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2009/07/20
    コメント欄|すべてをほしがるのは、子どもが駄々をこねているようなもので、じっさいの問題は、自分がなにをほしがっているのかわかっていないことに起因する気がしてなりません|
  • 次第に収まるところに収まるような - 横浜逍遙亭

    ブログを覆っていた目新しさの空気がtwitter、その他の新しいサービスに流れていく中で、ブログの見え方が急速に変わってきた。つながることを支援し、それを実現する機能は、ブログよりもtwitterの方が何倍も優れている。サービス間の役割分担が進むと、ブログは、これからもっと落ち着いたメディアになっていくだろう。祭りの熱気は去りつつあるが、地に着いた利用は進むのではないか。これは、とてもよい傾向なのではないかと思う。

    次第に収まるところに収まるような - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2009/07/12
    |ブログは、これからもっと落ち着いたメディアになっていくだろう。祭りの熱気は去りつつあるが、地に着いた利用は進むのではないか。これは、とてもよい傾向なのではないかと思う|
  • ニヒリズムは敵だ - 横浜逍遙亭

    芸能雑誌の『平凡』で一世を風靡した凡人社(のちのマガジンハウス)の創設者、岩堀喜之助の伝記である『マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助』をある人から勧められた。「面白いからお読みになってみたら」と。また「読んでいて、実は中山さんのことを思い起こしたんですよ」ともおっしゃる。どうもブログ活動のことを念頭に言っているのらしい。謎をかけらた手前、やはり読まないわけにはいくまいという気分になった。戦後の混乱期に仲間と『平凡』を刊行し、押しも押されぬ戦後大衆文化の担い手となった人物の人生を総括した読み物である。 情に厚く、勤勉実直、豪放磊落な実行家で、我が国の情報産業の歴史の中に専門大衆誌という道筋を付けた岩堀喜之助という男。この人物から、僕のような凡人につながるものはほとんどないというのが率直な感想である。ただその上で、今の自分自身と岩堀とを無理矢理結びつけるとすれば、岩堀が雑誌を土台にした大衆の

    ニヒリズムは敵だ - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/06/07
    新井恵美子『マガジンハウスを創った男 岩堀喜之助』(出版ニュース社)。
  • ネットとリアルの風通し - 横浜逍遙亭

    有り難いことに、昨日のエントリーにも一昨日に引き続き、再度Emmausさん(id:Emmuas)、勢川びきさん(id:segawabiki)からコメントを頂いた。お二人のコメントを拝見しながら、ブログを書くということについていくつかの考えをめぐらした。 一つは心構えについて。「人は自分にとって切実なことのみを書かねばならない」と言った文人が誰だったか忘れてしまったが、ブログにせよそうした心構えとまったく無縁のところで言葉を垂れ流していてはいけないのではないかということ。いけないと書くのは語弊があるとすれば、真摯な文章にはそれに見合う反応を持って迎えられる可能性が広がっているのではないかということ。そういう意味では、一昨日のエントリーは一方に転べば見向きもされなくなるような、きわどい文章だったと思う。 二番目に、そうした表現を可能にする書く技術について。たぶん、僕の思い過ごしでは決してないだ

    ネットとリアルの風通し - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/03/29
    なぜかよくわからないが成熟という言葉が浮かんだ。
  • 呼吸すること - 横浜逍遙亭

    昨日のエントリーに「音楽的な文学作品」というタイトルを付けましたが、とても不十分、ひでえものだと自分の文章を見てがっくりしました。ここは、明らかにもういちだん敷衍して、あらゆる文学作品は固有の音楽性を備えていることに言及するべきだったと思います。僕の場合、小説に関して言えば、イデオロギーに惹かれたり、人生論として読むのではなく、それらを「詩」ないし「音楽」として読んでいることが多い。他の人のことはなかなか分からないものですが、誰しも文体の好き嫌いというのをお持ちなはずで、それはつまるところ、唄としての文学ということと人の感性とが来的に不可分であることを示しているのではないでしょうか。そんな風に思いめぐらしてみるのです。 三上さんが「最近、あらゆるデザインは、たとえ文字が登場しなくとも、究極的にはことばのデザインであるという見方に密かに到達しました。というか昔からそう薄々感じていました。」

    呼吸すること - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2008/03/22
    |あらゆる文学作品は固有の音楽性を備えている| |小説に関して言えば、イデオロギーに惹かれたり、人生論として読むのではなく、それらを「詩」ないし「音楽」として読んでいる|
  • 落ちた場所で根を生やす - 横浜逍遙亭

    先週のNHK総合テレビ「プロフェッショナル 仕事の流儀」にミシュランの三つ星に輝いたすし店、「すきやばし次郎」の小野次郎さんが出演していた。言い回しはちゃんと覚えていないが、7歳から奉公に出て、それ以来仕事をし続けているという82歳の次郎さんは「仕事を選ぶなんて考えないで、与えられた仕事を天職だと思って一生懸命やればいいんですよ」と語っていた。 その数日後に三上さんが論文を上梓された。そのことを伝えるエントリーのコメント欄に、三上さんは今回の論文のテーマに関して次のように書き記している。 中山さんの新天地での体験談にもどこかで通じるかもしれないのですが、落ちた場所で根を生やす、必要なものは現地調達する、とでも言えるような、どこに行っても、そこを自分にとっての「いま、ここ」として生きるといった、思想というかライフスタイルというか、そのあたりのことが主題です。 早く拝見したい。いや、早くではな

    落ちた場所で根を生やす - 横浜逍遙亭
  • ブロムシュテットとNHK交響楽団でブルックナー交響曲第4番を聴く - 横浜逍遙亭

    ヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団によるブルックナー交響曲第4番を東京渋谷のNHKホールで聴いた。13日(日)午後3時のマチネーで、コンサートの前半はモーツァルトのプラハ交響曲。 ブロムシュテットはNHK交響楽団の名誉指揮者だが、N響で聴くのは僕は初めてである。今まで2度聴いたのはどちらもやはりブルックナーで、1996年にニューヨークでニューヨーク・フィルとの6番の練習を、2002年にゲヴァントハウス管弦楽団と来日した際に5番を聴いている。今回は前日まで聴きに行く予定はなかったのだが、急に思い立って出かけてきた。 行ってよかった。やはりN響は野球で言えば巨人軍で、久しぶりに聴くと「さすが」である。東京のオケをすべて聴いているわけではないので、例えば読売日交響楽団とくらべてどうよ、と問われても分かりませんと答えるしかないのだが、新日フィルや都響など僕がそれなりに聴いたことがある

    ブロムシュテットとNHK交響楽団でブルックナー交響曲第4番を聴く - 横浜逍遙亭
  • 僕にとってのブログ - 横浜逍遙亭

    CNET Japanの佐々木俊尚さんのコラムで「ブログ限界論」をめぐって集まりがあり、当日の会合もそれに前後するブログ界隈でもそれなりに盛り上がったのを知る。佐々木さんの文章や徳力基彦さんのブログなどでその様子を想像することができる。そもそもの発端は、ここにあるRTCカンファレンスの案内 にある一文「最近ブログつまらなくないですか?」のようだ。 片や米国などに目を向けると、従来型メディアを凌駕する勢いでユーザーを集め続けるブログが多数存在し、ブログメディアを媒体とする広告市場なども日の数百倍の規模にまで膨れ上がっています。この差はいったいどこにあるのでしょう。 そもそもブログをマスメディアの文脈で理解しようとするこの問題設定は、問題設定自体がブログの発展を考える姿勢としては違っていると思う。僕も自分がブログを始める前、始めた当初は1対多のマス媒体を個人で始めたつもりが強かった。しかし、し

    僕にとってのブログ - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/12/15
    既存メディアで第三者の視点からチェック・編集作業が入るのは大きい。直截さや速度とのトレードオフになるのかもしれないけど、その編集を通して得られる普遍性や文章への態度は小さくない。
  • ブルックナー交響曲第5番はどの録音がよいか - 横浜逍遙亭

    今日はクラシック音楽おたく以外の方にはどうしようもなくつまらないネタになりますが、お許しください。知り合いのK氏から「ブルックナーの交響曲第5番の録音は何がいい?」とメールが入っていました。浅薄な知識しかないし、そもそも人の好き嫌いは偏っているもの、どこまで信じて頂いていいのか分かりませんが、この曲、個人的に大好きですので私なりのお勧めをさせて頂きます。 K氏は「最初にショルティで聴いて、次にクナッパーツブッシュで聴いたらまるで違う曲かと思った」とおっしゃっているのですが、これはまさにおっしゃるとおりで、半分別ものです。有名な話ですが、ブルックナーは生前“改訂魔”として知られており、多くの曲を何度も書き直しをしています。この曲の場合は人の筆ではなく、お弟子さんの指揮者、フランツ・シャルクが初演を行った際に大幅に筆を入れた結果、ブルックナーのスコアとはまったく違ったものが出来上がってしまい

    ブルックナー交響曲第5番はどの録音がよいか - 横浜逍遙亭
  • 立花隆著『ぼくはこんな本を読んできた』 - 横浜逍遙亭

    立花隆著『ぼくはこんなを読んできた』が、立ち寄ったあるオフィスの棚に並んでいた。横には「差し上げますので、ご自由にお持ちください」と書いた張り紙がある。仕事が終わった後、なんとなく手が伸びて、その姿勢のまま最初の十数ページを読んだ。奥付を見ると初版が1995年12月。浅原逮捕の半年後だ。立花隆は今の梅田望夫さんや茂木健一郎さんのような役回りを我々若者に対して担っていたのかなと、なんだか懐かしくなった。 九つ年上のいとこに「お前は立花隆はきっと大好きだろうと思うけど、あんなのはいんちきだから」と言われてかちんと来たのを覚えているが、いつ頃のことだろう。そう、思い起こせばあれもオーム事件の直後のことだ。浅原逮捕の番組に立花が出演していたのを一緒に見たときに違いない。だとすれば、90年代半ば。 博覧強記の文化人、知識人としての立花の得ていたポジションは、いまや、例えば脳の専門家でありながら芸

    立花隆著『ぼくはこんな本を読んできた』 - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/22
    |ただ、どの時代にも彼のような知識欲の先導者といったタイプの人々がいて、若者の心を掴み、牽引し、いつか乗り越えられていく運命を甘受してきたのだろう。時代は切なくめぐっていく。|
  • 梅田さんが書いたこと、書かなかったこと - 横浜逍遙亭

    11月16日(金)に書いたエントリーの続き、「ここで書かれていることと、梅田さんが彼のブログや、書『ウェブ時代をゆく』の中で繰り返している「大きな企業に勤めるだけが人生じゃないよ。みんな、もっと多様な生き方を視野に入れたらいいのに」という趣旨の主張との間には、かなり距離がないだろうか。」と書いた続きである。「距離がないだろうか」という表現が示したいのは、それらが矛盾しているという意味ではなくて、来それら二つの記述は独立しているはずだという意味である。ウェブの時代になって個人がパワーアップし「内面的な報酬」を獲得できるチャンスが増えることと、職業選択の話とがだ。 そうだとすれば、梅田さんのテキストから3つの生き方が導き出されると考えてよいはずだ。 A.「内面的な報酬」を求めてウェブでパワーアップし、そのパワーを職業生活の外で発揮する。 B.「内面的な報酬」を求めてウェブでパワーアップし、

    梅田さんが書いたこと、書かなかったこと - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/19
    『ウェブ時代をゆく』について。丁寧な印象。
  • 仕事ができる人は - 横浜逍遙亭

    僕が勉強することに興味を覚えるようになったのは、所定の教育システムをなんとかやり過ごしたあと、いわゆる「社会人」になってからである。自分が興味を持つ領域のものごとを、自分にあったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく身につくのだということがわかった。(p55) 「好きを貫く」ことを若者に訴える梅田望夫著『ウェブ時代をゆく』の一節だ。梅田さんが人生で獲得した知見が肩の力を抜いた文体でくっきりと表現されている。さすがである。というのは真っ赤な嘘で、これは村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』からの引用である。昨日のエントリーで村上春樹と梅田望夫がそれぞれの時代に果たした役回りは似ているという感想を書いたが、それとは別にこの二人は仕事への姿勢がとても似ている。村上春樹は、『風に歌を聴け』で群像の新人賞を取りしばらくしたのち、「好きを貫く」ためにそれ

    仕事ができる人は - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/12
    「できる人」の仕事に対する姿勢について。
  • 開高健の墓参り - 横浜逍遙亭

    日曜日の朝、北鎌倉の円覚寺を散歩してきた。そのために行ったわけではなかったのだが、敬愛する作家、開高健の墓所が円覚寺の中にあることを思い出し、初めて訪ねてみた。 日曜朝8時半の円覚寺は、雲一つなくすっきりと晴れ渡っていた。 開高の墓があるのは円覚寺の中にある松嶺院という小さなお寺。円覚寺はショッピングモールのように大きな入れ物になっていて、その中に松嶺院や居士林、桂昌院と個別に名前の付いた施設が点在している。松嶺院には佐田啓二、田中絹代、清水崑などといった著名人も葬られている。最近の方ではサリン事件被害者の坂弁護士ご一家も。 朝の9時前に門をくぐり、「開高健さんのお墓があると伺いましたが」と尋ねたら、掃き掃除をしていた年配のご婦人は堂を回り込んで登るようにと丁寧に道順を教えてくれた。細長い参道を登ると墓所に出る。入り口に坂さん一家を偲ぶ張り紙がある。痛ましい国民の記憶。 墓所内は撮影

    開高健の墓参り - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/10/28
    鎌倉、円覚寺。
  • ブログを書いていると文章が下手になる - 横浜逍遙亭

    一般論としてではなく、私のような書き方をしていると、という話ですが、ブログを始めて文章が荒れたなあと実感するところがあります。 その理由は、 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。その癖が付くと気持ちの中に「文章はじっくり推敲して書くもの」という意識が薄れてくる。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。何かを書こうとパソコンに向かってからテーマやトピックを考えることしばしば。書きたいことがなくても惰性で書く。 ・書き殴る:短い時間にぱぱっと。推敲しない。→ 漢字の間違い、てにをはの間違い頻出。 ・書き殴る:起承転結、それに類する文章の構造を意識しなくなってきた。これは公の文章か、それともプライベートなメモか、日記か。 ・書き殴る:書かなくてよいことを書く。「書かなくてよいことって何だ」ということも、「書かなければならないことは何だ」ということもあまり考えない。これを書き殴ると言わずして何と呼びましょう

    ブログを書いていると文章が下手になる - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/10/14
    |書かなくてよいことを書く。「書かなくてよいことって何だ」ということも、「書かなければならないことは何だ」ということもあまり考えない。これを書き殴ると言わずして何と呼びましょうや|
  • 海外の新聞は写真もいい - 横浜逍遙亭

    アメリカの新聞にはうまくイラスト、グラフィックデザインが使われているという話を書いた。そのことはずっと感心していたことだったのだが、写真の質の高さについて気が付いたのは、つい先日のことだ。 イラストの話を書くために久しぶりに紙版のニューヨーク・タイムズをめくって、それらしい記事を探しているときのことだった。ぱらぱらとめくっているうちに、イラストのことはさておき、日の新聞と比べて写真が断然よいのに気が付いたのだ。この数ヶ月、写真ブログを作り続けている効用だろう。今まで漫然と見ていた写真があちらから何かを訴えかけてくるようだった。目から鱗が落ちるとはこのことだ。フィナンシャル・タイムズも見てみた。唸った。 これは、9月12日のフィナンシャル・タイムズ企業欄に掲載されていた写真。フォルクスワーゲンがピックアップトラックを生産するなどトヨタ追撃を行う意志を固めたことを伝える産業記事だ。普通の、単

    海外の新聞は写真もいい - 横浜逍遙亭
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    ushiwatat 2007/09/27
    |少なくとも日本の新聞人が写真をアートとして、それ自体を表現の一手段として重要視していないことだけは火を見るよりも明らか|
  • 美崎薫さんの不滅性 - 横浜逍遙亭

    東大で行われたワークショップ『MEMORY+』で美崎薫さんが行ったプレゼンテーションの際、膨大な自らの情報収集の記録を「記憶する住宅」に貯め込んでいる彼の実践に対して茂木健一郎さんが質問を発した。 ちゃんとメモを取っていなかったので正確に再現することはできない。あくまでうろ覚えの状態で私の中に残っているかぎりで思い起こそうとしているのだが、茂木さんの質問は「情報を外部化して蓄積することのよさには、それを繰り返して使えるということとともに、そのデータを他者と共有できる可能性が生まれるということがあると考える。その点について美崎さんはどうお考えなのか。現在の試みの先で美崎さんは何をしたいと思っているのか」という趣旨のものだった。 美崎さんがほとんど反射的に返した答えは「蓄積している情報の7割(?)は著作権上外部に公表できないので、現実には他用は難しい」という運用レベルでの言及で、茂木さんはそれ

    美崎薫さんの不滅性 - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/18
    「記憶する住宅」の美崎薫氏の試みと茂木健一郎氏の問い、そしてカラヤンの執念をめぐって。 |このエンジニアリング部分が高度化し、システムが美崎さんの好みを先回りして情報を拾い出し、美崎さんの解釈の癖を取り
  • 我、日本文化を愛す - 横浜逍遙亭

    熱海に遊んだ二日間、テレビも新聞も、インターネットにもさわらなかった間に現実の物理的な雲向きがいっぺんに変わってしまい、出かける前は「来週も晴れるでしょう」だったはずの天気予報が連日の雨と曇りを伝えている。狐につままれたような気分。秋霖の時期には来であれば少し早すぎるはずだが、天気図を見れば前線が見事に州の上に横たわっている。明らかに天候の歳時記が壊れつつある。 ブルーノ・タウトに関連してウェブ上で面白いテキストを見つけた。来日当初には予想もしなかった長期滞在を余儀なくされることになったタウトに救いの手をさしのべ、群馬県高崎市の少林山達磨時境内の庵を世話して工芸制作の仕事を与えたのが、高崎の実業家である井上房一郎。その人の著書からタウトの思い出を綴った文章がこちらで読めるのだ。当事者の記録であり、飾り気のない文章だけに興味深い。また、このテキストが掲載されているのが井上房一郎がかつて経

    我、日本文化を愛す - 横浜逍遙亭
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    ushiwatat 2007/09/18
    B.タウトと関連して。|ある種の合理的な価値観を持っている人にとって、日本で仕事をするのはあまりにまどろっこしくて辛抱を必要とすることなのだ。「日本はいい」場所だが、仕事をするところではないという感想。|
  • コンサートの楽しみについて - 横浜逍遙亭

    「コンサートの」とタイトルを付けてはみたものの、最近はプロの演奏を聴きに出かけるのは年に2,3度程度。あとは友人達が関係しているアマチュアの団体の催し物を3度か4度拝聴するのがせいぜい。身も蓋もない話だが、子供らの学費も払わねばならないし、お小遣いには限りがあるし、だって少しは買いたいし、お酒は毎週飲みたいし、カメラまで買ってしまったし、となるとコンサートは優先順位の下の方に置かれてしまう。『三上のブログ』で、三上さんがコンサートや美術館のような場所が苦手だとお書きになっているのを読んで、そこで書かれているように、それがへんだとはまるで思わないけれど、へぇ自分とは逆だなあと面白くは思った。 ■作品とは何か(『三上のブログ』2004年8月26日』) ついでに書いておくけれど、人間なくて七癖、誰がどのようなこだわりを持っていても、そのこだわりがプラスの方向へのものだったとしても、その反対方向

    コンサートの楽しみについて - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/18
    コンサートでの譜めくりをめぐる出来事について。
  • ブログの中の私 - 横浜逍遙亭

    フルトヴェングラーだの、ブルーノ・タウトだの、浮き世とまるで縁のないことにこだわってここに書き付けてはいるが、私の実際の日常はタウトを考えることで成立しているわけではない。しかしブログに現れる自分は自分とは思えないような浮世離れな仕方で生きている風情があり、その意味では、名をさらして書いてはいてもブログに表れる私は作り物の私である。 そして私は嘘つきである。だから、控えめに見ても、このブログに書いていることの何パーセントかは嘘に違いない。さらに言えば、(今現在、少々舵を切り直しているところだけれど)これまで多くのエントリーを「ブログの上でエッセイを書く実験」として綴ってきた。エッセイは、日記とは異なり、日常を素材にした創作の世界である。事実を書き連ねることそれ自体に意味はない。私が書いてきた「僕」はブログのこちら側にいる私ではないということだ。 先日東京大学で行われたワークショップ『ME

    ブログの中の私 - 横浜逍遙亭
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/18
    |美崎さんの言うとおり。ブログの中の自分は美しい。|
  • 継続するということ - 横浜逍遙亭

    トゥーサンと開高健の遅筆の話を書いたら、偶然に同じような話に出くわした。 この数日、ドイツ人の指揮者でフルトヴェングラーと親交のあったシェンツラーという人が書いた『フルトヴェングラーの生涯』を読んでいたのだが、そこに作曲家のモーリス・ラヴェルの話が挿話的に紹介されていたのだ。ラヴェルはこんな文章を残しているという。 作曲するにあたって、わたくしは胸のうちの曲想をあたためるために長い期間を当てます。この間にわたくしはその曲想の輪郭を次第に明確なものにしていきながら、作品が最終的に完成されたときの全体像や展開を考えていきます。こうしてわたくしは音符ひとつ書くことなく数年間も費やすことがあるのです。 (シェンツラー『フルトヴェングラーの生涯』 p225) 数年間たった一つの音符も残さない! これを書いた人物は、あの華麗な音の競演を自在に演出する凄腕の作曲家なのだ。これも一つの集中力の表現なのだと

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/18
    創作者では継続というより忍耐という表現は聞いたことがある。己れの中から湧き出るものを待つこと。 |つまり、「他の誰でもない私にとってこだわる必要がある命題を、あくまで私という人格に関わる問題としてこだ