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B.バルトークに関するushiwatatのブックマーク (2)

  • バルトークのルーマニア民俗舞曲についての考察 | 鎌倉スイス日記

    この曲は、1909年から1915年にかけて作られた作品です。20代のバルトークが書いたもので、友人のセーケイのヴァイオリンとピアノのための編曲をはじめ、1917年に自身によって小管弦楽のために編曲している他、イ・ムジチ合奏団が演奏している弦楽合奏版やイギリスのオルガニスト、ヘーリックによるオルガン版まであるほどの人気作品です。 六曲の小さな小品の組曲ですが、全曲が民族的な素材(リズムとモード)によっています。モードとは旋法のことで、古い教会旋法と同じものです。もちろん使い方はグレゴリオ聖歌などとは違いますが・・・。 第1曲 棒踊り Danse au bâton 上行と下降で音階が少しだけ異なりますが、基的にはA音を基音とするドリア旋法と言うべきでしょう。

  • 新交響楽団ホームページ: バルトーク:管弦楽のための協奏曲

    「……バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である」(ベンツェ・サボルチ)」 アメリカ移住 バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。 この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。 ところが、ことバルトークに関してはこの移住は苛酷なものであったと言わざるを得なかった。なぜなら、彼だけは一向に安定した職を得ることができなかっ

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