1897年(明治30年)、日本を離れる直前の河口(32歳) 1902年(明治35年)11月、ダージリンにてチベットのラマ姿をした、チベット脱出後の河口(37歳) ネパール、カトマンズのボダナートにある河口訪問の記念碑 河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、日本の黄檗僧、仏教学者、探検家。幼名は定治郎。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。チベット名はセーラブ・ギャムツォ。チベットでの通称はセライ・アムチー。 日本や中国の漢語仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる書物を求めて、梵語原典やチベット語訳仏典の入手を決意し、日本人として初めてチベットへの入国を果たした。その旅行記は英訳もされ、チベットの聖地伝説化に拍車をかけた。 『西蔵旅行記』『在家仏教』をはじめとして数多くの著作を残し、慧文社から著作選集も出版