田口修治は1948年にシュウ・タグチ・プロダクションズを設立。以後、1956年に狭心症で急死するまで、独立プロデューサーとして活躍した。英語が堪能な親米家であることから、連合国の占領時代にはGHQ傘下のCIE(民間情報教育局)向けに、さらに1953年の講和条約で占領が終結すると、新たにアメリカ国務省の下で発足したUSIS(合衆国広報・文化交流庁)のライブラリー用の記録映画を製作した。 CIE映画とはアメリカ対日占領軍が日本国民に見せた一群の啓蒙教育映画を指すもので、ナショナル・カンパニー(National Company)の16ミリフィルム映写機が使われたことから、通称「ナトコ(natco)映画」と呼ばれる。題材はアメリカの文化・風物から民主主義や国際問題まで多岐にわたり、各都道府県に設けられた視聴覚ライブラリーを通じて、全国で上映された。その数約400本。そのうち54本が日本製のCIE映