跡部 良弼(あとべ よしすけ)は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。肥前唐津藩主水野忠光の六男で、老中水野忠邦の実弟[1]。通称は季十郎・大膳。官位は従五位下山城守。信濃守、能登守、甲斐守、伊賀守、遠江守に遷任した。 生涯[編集] 旗本・跡部家に養子入りしたが、良弼は実兄の忠邦の威光を背景に傲岸で、周辺と諍いを起こすことが少なくなかった。累進して駿府、堺の両町奉行を経て大坂東町奉行となった。在任中の大坂では米価が暴騰し、多数の餓死者が出た。 従来は、良弼はこれに対してなんらの打開策を立てないばかりか、豪商らによる米の買い占めを傍観し、また、町奉行所の元与力で陽明学者大塩平八郎の提案した救民計画を無視し、江戸に米の廻送を命じたため、米価はますます高騰したと言われ、これが原因で、天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱の原因になったと言われてきた。 しかし実際には、天保4年(1833年)から天保